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【現代の幸福論】時間の感覚を距離に委ねるということ

よく言われる話で、「歳をとればとるほど、1年間が短くなっていく」という言葉がある。「50歳の自分」にとって1年の長さはこれまでの人生の50分の1だが、「10歳の少年だった自分」にとっては人生の10分の1に相当する、というわけだ。

この考えは19世紀フランスの哲学者ポール・ジャネが発案したことから、<ジャネの法則>と呼ばれるものらしい。誰だって、歳を取るにつれて主観的な時間の価値はインフレを起こし、薄れていくのだ。(にもかかわらず人生の残り時間は減っていく)
よく聞く話だとは思っていたが2世紀も前から言われていたのであれば、もはや現代人類が抱え続けている悩みといえるかもしれない。身近な例でいえば、たまに大型連休などと呼ばれるものが訪れても、「あっという間に終わってしまった」という感覚だけが残りすぐに日常に戻る、なんてことは多くの人が経験したことのある話ではないだろうか。
どんどん人生の時間が短くなっていき、焦燥感だけが募っていく不可逆的なこの事象に対し、同年代の友人とのおしゃべりで「どんどん時間が経つのが早くなるよね」と認識を確認し合っても根本的な解決にはならない。

じゃあどうすればいいか。僕がしばらく前から考えているのは、”時間の感覚を距離に委ねるのはどうか”、ということだ。

どういうことか。
たしかに、歳を重ねるごとに1年は短くなっていくし、1週間、1日なんかはもっと短くなっていくのだろう。
しかし、だ。たとえば、「10分間歩いて移動できる距離」は10歳の自分と50歳の自分とでほとんど変わらない(足腰の弱さとかは置いておいて)。同じ各停の電車に乗れば10分間で移動できる距離は変わらないはずだ。
つまり、10分間なら10分間。1時間なら1時間、その時間の感じ方を距離に委ねてしまうのだ。大人になればなるほど、ただ動かずに部屋でだらだらとしていては1時間なんてあっという間に過ぎてしまう。しかし、自宅から1時間歩けば、たしかにそこには1時間分歩いた道のりが、かつての自分と変わらない距離となって自分自身の後ろにできているはずだ。

まるで光速度不変の原理を謳う相対性理論のように、<移動距離不変>のこの原理は、一定でない(加速し続ける)「時間の流れ」に対抗する戦略になりうるのではないだろうか。そう思うようになってから、それまでインドア派だったものの、できるだけ移動をするように心がけてきた。たしかに、移動は気持ちが良かった。さらに、それからしばらくして移動が幸福に与える影響に関する記事論文を見つけたりもして、自分の考えは正しかったのだと考えていた。

しかしコロナ禍である。移動は悪になってしまった。もともと引きこもりだったタイプの人の中には、この状況をあまり苦に感じていない人もいるのかもしれない。けれども、10年後までずっと耐え続けられる人がどれくらいいるだろう。強がりもなく、衒いもなく、どこにも移動できず、ただ加速していく時間の流れに耐えられると自信を持って言える人はどれくらいいるだろう。多くの人にとって難しいのは違いないと思う。

ではどうしたものか。あらためて考え直してみた結果、<移動距離不変>の理論では必ずしも、物理的に移動する必要はないのかもしれない、と考えるに至った。<距離>と置き換えられるものがあればよいのだから。そして一番わかりやすく代わりになるのは何かを作り出す行為ではないかと思った。創作はしばしば道を歩いていく行為と重ねられる。

たとえば、文章を書くのが趣味な人がいるとする。移動距離に比べて不変度は低いかもしれないが、休日、1時間執筆に費やした後、その人の背後に残るのは、たしかなテキストだ。テキストの量自体は膨張も収縮もしない。(執筆の速度についてはまた別の話である。当然、何もかけず1時間経ってしまったときの絶望感、などというのも別のお話)
「1時間に書ける文章量」というものに時間の感覚を委ねることができれば、歳をとっていっても、時の加速に対する焦燥感も必要以上には高まっていかないのではないだろうか。すなわち、何かをつくることの大きな成果物は、できあがったその成果物そのものだといえる。

ここで注意点が2つある。

1つめ。「費やした時間の足跡がきちんと残れば、創作でなくてもよいのではないか」という疑問が湧くと思う。しかし、単に趣味に時間を費やせばいいのかというと、やはりそうではない。
たとえば、映画やドラマ鑑賞という趣味も、<移動距離>の代わりになりそうだ。なぜなら映画はだいたい1本2~3時間、ドラマは1話40~50分と決まっている。どれだけ作品を観られたかを時間経過の指標にできそうなものだ。
けれど、大切なのは時間を費やす対象における「有限性」である。

映像作品に関していえば、たとえば映画なんてものは日本における年間の新作公開本数は1000作以上、テレビアニメは300作品以上が作り続けられている。ネット上の動画まで数えればそのコンテンツの増殖度はきりがない。たしかに映画1本で2時間という尺度自体は概ね不変かもしれないが、その達成率は映画を観ている間にもどんどんと薄まっていく。
映像に限らず漫画や小説も同じことだ。コンテンツを消費し尽くそうと、消費に耽溺している間に、消費の速度をはるかに上回る速度でコンテンツが増え続けていく。どれだけ作品を観ても永久に観たりない気分がつき纏うのだ。1〜2分で楽しめるからとまとめサイトの記事を読み始めてみると、いつのまにか何記事も読んでしまっていてそれでも渇きがおさまっていない、というのも根は同じだろう。
挙げられる対策があるとすれば、消費の範囲が増えないように制限することは手かもしれない。たとえば、「夏目漱石を全部読む」「ヒッチコック作品を全部観る」といったやり方であれば、対象のコンテンツが増えないため、その達成率の上昇値は不変で、まさしく<移動距離>の代わりになりえる。(古典が良いと言われるのは、単にクオリティの問題だけでなく、「対象がいたずらに増えない」という点にもあるのかもしれない)

2つめの注意点。
コロナ禍がある程度明けてからの話にはなると思うが、大手を振っての物理的な移動が可能になったとき、物理的な移動であればどのようにしてもよいということ。これもそう単純ではない。
同じ電車に乗れば同じ時間に移動できる距離は変わらないと上述したが、この世界の技術は常に進歩している。移動手段に関してもそれは同様だ。近い未来の話でいえば、リニアモーターカーが普及すれば、これまでより短時間で長い距離が移動できるようになる。では果たして、それだけで人類はより幸福を感じられるようになるのだろうか。

おそらくそんなことはない。理由は2つある。
1つめ、やがて人は新しい移動手段に慣れ、それを当然と思うようになるから。初めのうちはリニアモーターカーに乗ることで感動や、短時間で「これだけの距離を移動した」という達成感を得られるかもしれない。しかしそれはすぐに当たり前になり、社会の構造もそれを前提としたものになる。(これまでと同じスケジュールでただより遠くの場所への出張が組まれるようになるだけである)

2つめ、1つめとも関連するのだが、<移動距離>はまさしく<移動距離>だから意味があるのであって、その過程がすっぽ抜けた「点と点との移動」になってしまっては、そこにはもはや<距離>という概念はない。
リニアモーターカーが当たり前になった後、車窓の外も眺めることなく、ただ漫然と移動する会社員にとって、会社から出張先の間の<距離>に意味はないだろう。
あくまで重要なのは線としての<移動距離>である。

以上、これまで書いてきた幸福論は、物凄く砕いていえば、「加速し続け、かつ減っていく時間にどう抵抗するか」という問いに対し、「どこかへ行こう、せっかく出かけるなら景色を楽しもう。家にいるなら何かを作ったり、名作に触れたりしよう」という答えになる。答えだけ見るとそんなに新しいものではないように見える。

けれど、<幸福への戦略>は目新しいより見慣れたものであるべきだと僕は思う。


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