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好きに生きたらいい。M-1に出たっていい。


SNSを見ていたら、数回話したことがある程度の知り合いが「実は、〇〇というコンビで、M-1グランプリの予選に出場してきました!」と誇らしげに写真をアップしていた。相方は家族。

冗談かな?と思って、公式サイトでコンビ名を入れて検索してみたら、ほんとうに出てきて、1回戦で敗退したということがわかった。

おどろいた。その知り合いは一般人で、ふつうにお勤めしている。漫才やってるなんて一度も聞いたことがない。ただ人前に出たりしゃべったりするのが好きで、「たのしそうだから一度出てみたかった」というシンプルな理由で、ネタを考え、練習をして、出場してみたのだという話だった。わたしはその知人の、やりたかったことをやりきった、いい思い出ができたというすがすがしい表情が、心の底からうらやましかった。一回戦敗退だけど、その人の人生はその日から「M-1に出たことのある人生」になったのだと思った。

ああこれだ、この感覚だ。「やりたいから、やった」。わたしに足りなくて、わたしがほしいと思っている感覚。

わたしは漫才をしたいと思ったことは一度もないけれど、仮に自分が人前でしゃべるのが好きで漫才に興味がある人間だったとして、M-1に出るかと言われたら、出ないと思う。「自分が出ていい場所じゃない」「あれはプロのすごい人が出る場所だから」と決めつけて、そもそも、その選択肢が思い浮かばないと思う。

わたしは何かに興味をもったとき、最初に「自分にできるかどうか」もっといえば、「自分のような人間がやっていいことなのか」を考えて判断してしまう。身の丈をはかりすぎて、すこしでもそれ以上かもしれないと思うと、ごにょごにょ言いながら後ずさりする。

これを今、取っ払いたいと思っている。

もうずっとそうだった。「わたしがしていい仕事ではない」「わたしが挑戦していいことじゃない」「わたしが出ていい場所じゃない」「わたしがもらっていい賞ではない」。

もういい加減飽きた!わたしにも同じだけの自由はあるはずだ。

何になっても、何を目指してもいい。自分を狭い世界に閉じ込めようとする必要なんてないなと思う。あの人は漫才なんてそれまでしたこともなかったのに、M-1に出た。わたしだって、好きなように生きたらいい。わたしだって、M-1に出てもいい。相方最有力候補の夫に「夫婦で漫才でもしてみませんか?」と打診したところ、「やるわけがない」といった返事だった。まあ、どう考えても漫才じゃない。わたしには漫才ではないけれど、自分にとってのあーこれやりたい!と思うことに対して、ためらわず、軽やかにチャレンジできたらいいなと思う。ちょっとずつ。



おわり

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