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創作より大切なものはないかもしれない。

などが多い

Human Horse Clubのイベントで、哲学者(など)の谷川さんと、フィラメント(など)の宮内さんと、HENKAの宇田川さんと、aratakaryで「創作を通じた自己との対話」というテーマでディスカッションさせてもらった。

「創作」や「自己との対話」は、目に見えない内面の話でわかりづらい。だからモデレーター役のHENKAの宇田川さんも、無意味かつ難解なテーマを、別の言葉を使って輪郭をあぶりだしていく。

問いのひとつに、「何よりは大切で、何よりも大切ではないか」というものがあった。さすが宇田川さん、クリティカルな問いを出してきはる。世間の常識的に言えば、家族やパートナー、仕事というだろう。ホントにそのどれもが大切である。お金にならない趣味や創作は副次的なもの、もっといえばムダなもの扱いされることもある。ちなみに宮内さんの趣味は、バナナを育てることらしい。

それは大前提で、aratakaryは「創作より大切なものはないのかもしれない」と即答した。確かに彼の馬の部分がそう言った。でも長年馬と連れ添っているジョッキーも、きっと馬ならそう言うんだろうと思った。

続いて谷川さんも「ないかも」と答えた。宮内さんも「まだ答えが見つかってない」と答えた。少なくとも3名ともそれ以上のものを答えられなかった。

谷川さんは言語化する。

「もちろんその結果、人とうまくやれるとか、仕事もそこそこ楽しくやれて窮屈じゃなくなるとか、社会からみてもポジティブな効果につながるとか副次効果はあるかもしれない。しかし創作で得られるものを最上位に置くとおかしくなってくるのではないか。」

ホントにそうだと思った。決して「創作すれば人生がうまくいく」とかそんな自己啓発的な話ではない。

人は何一つ不自由なことはないのに、なぜかみんなと一緒にいるのにさみしい瞬間がくる。変なところに引っかかって動けない自分がいる。一人だけが間違ってるんじゃないかと思う。周りとズレる瞬間がないだろうか。

村上春樹さんは著書でこのように言っている。

なぜならあらゆる創作行為には、多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれるからです。つまり自己を相対化することによって、つまり自分の魂を今あるものとは違ったフォームに当てはめていくことによって、生きる過程で避け難く生じる様々な矛盾なり、ズレなり、歪みなりを解消していくーあるいは昇華していくーということです。そしてうまくいけば、その作用を読者と共有するということです。

村上春樹『職業としての小説家』

そのさみしさは、他人の孤独で埋めようとしても、酒を飲んでも、ギャンブルをしても埋まりはしない。茶飲友達というさみしさを描いた映画でこのような台詞が出てくる。

自分のさみしさを他人の孤独で埋めるんじゃない。

映画『茶飲友達』

刹那に他者とつながることは、その瞬間はよくても、長期的にみると他者と遠ざかってしまう。「他者と対話」するのはもっと後の話で、「自己と対話」する方が先なのだ。そして「自己との対話」は孤独で長い時間だ。黙ってバナナに水をあげよう。

創作を別の言葉で言い換えると

宇田川さんは最後に、創作の言葉や文章で言い換えるとなんだ?という問いを出した。

aratakaryは創作を「排泄物」だと言った。ためこんでしまうと便秘や病気になってしまう。身体の胃や腸で消化するように、創作も手足を動かしながら昇華していく。

アイザック・ディナーセンは「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」と言っています。それと同じように、僕は毎日十枚の原稿を書きます。とても淡々と。「希望もなく、絶望もなく」というのは実に言い得て妙です。朝早く起きてコーヒーを温め、四時間か五時間、机に向かいます。

『職業としての小説家』村上春樹 p.142

希望もなく、絶望もなく淡々と排泄していく。大げさに言うなら、創作行為が「生きる」ということなのかもしれない。生きると言っても、「インスタ映えする充実している感じ」ではなく、ニュアンスは「変わり映えしない生活」に近い。谷川俊太郎さんも何気ない出来事を「生きる」と表現している。

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

谷川俊太郎『生きる』

「生活」は毎日の繰り返しで、何事も起きていないように見える。でも創作していると、そこにいろんな感情が動いてることが観えてくる。生きていないと、そもそも仕事もできないし、家族ともつながれない。だから創作より大切なものはないかもしれない。

決して仕事や家族を大切にしていないわけではない。回りくどいのかもしれないけど創作から始まるのだ。

ひとりでいるときの顔が想像できる人と、
ひとりでいるときの顔が想像できない人とがいる。
ひとりでいるときの顔が、想像できない人とは、
どうにも仲良くなれそうもない。

糸井重里『ボールのようなことば。』

創作は、ホントなんでもいい。文章や音声じゃなくてもいい。石ころを拾うだけでもいい。その石で砂に絵を描くのでもいい。消えてもいい。公開しなくてもいい。心の押入れにしまっておくだけでもいい。お金もいらない。時間もいらない。子どもでも、大人でも、高齢でもできる。ありとあらゆるものが、創作になっていく。その自分なりの創作手段を見つけられたら、無意味なまま今を生きていけるんだと思う。

写真提供:HENKA inc.