見出し画像

日記のはじめ。遺伝疾患で家族のきずなを思い出す

2016年から五年日記(高橋書店)を使っている。365日×5年分の日記を書くことができる。一日当たり5cm×5cm程度のスペースが割り当てられている。五年分の夕食と日記、職場に顔を出したか否かの記録をつけてきた。顔を出した日は✕、顔を出さなかった日は〇をつけている。五年前の今日、四年前の今日は何を食べていたかをみると、夕食のメニューに困らない。明日何を食べに行こうか、週末に何を食べに行こうか、前向きな気持ちになれる。人は忘れるから。日記にすれば忘れられるから。

夕食の記録をつけるようになったのは関東から地方にこしてくるとき、自分が関東で日常的にものを食べるのもあと数か月かとしったとき、食べたものをすべて記録してやろうと思った。また、日記には叔父の影響がある。叔父は祝い事があるとお金とお酒とごちそうをくれる人で、向こうからの要求は「日記を書け」であった。日記は不思議なもので、誰にも見せないつもりの日記でも、誰かに見せるつもりで書いてしまうのだと。未来の自分へ、見栄を張っていることがわかるのが面白いのだと。

これには自覚があったし、日記は見栄を張るだけでなく、言いようのない経験を記述して分類してなんてことないものにしてしまえる点で、精神衛生上よいと思っている。いわゆるもやもやした思いを抱きながら不機嫌になっている人がいるが、もやもやしているから不安で不機嫌になるのだろうと思っている。友人とのトラブルがあったとき、謝罪の有無や自分に非があったのかどうなのか、周りからどのような目で見られていたか、相手は今どう思っているのか、わからないことだらけの出来事があっても、「昼飯に焼きそば弁当を頼んだら焼きサバを買ってこられた」「むかついた」などと要約してなんてことないような感想を貼りつけて分類して箱にしまってしまえば、すくなくとももやもやしなくて済むのではないかと思う。分類したがる人達という新書があった気がする。

言いようのない感情や関係は、言葉にしてしまえば分類された既存の感情になってしまって自分の手を離れていってしまうような気がする。私の思いや、人同士の関係に名前をつけるな!という「怒り」は、百合界隈で見たような気がする。これはわかる。百合をやりたいんじゃなくて関係に名前をつけるなら百合という言葉がかろうじてあてはまるか、くらいが粋なんだと思う。粋だねぇとはなかなか言われないですからね。そういえば、褒めどころが見つからないけど褒めないといけないときは、「シブいですね」と言うと良い気がします。筆記用具のインクの漏出具合以外の文脈では、たぶん肯定的にとらえられると思います。マブいに語感が似ていることも功を奏しているのでしょう。

なんだかわからないものに名前をつけて分類して対処していくのは、雑な広げ方をすると多分、妖怪のせいなのね、とか、災害に名前をつけるとか、自然現象に名前をつけるとか、やってきてると思うので先達の肩にのるつもりで、やればよいと思います。

夕食を記録しているという話を改めて思い出したのは、健康診断で脂質の値が異常値を示しておりLDLにいたっては180だった。頸動脈には脂質のたまったプラークがうじゃうじゃ存在していた。頸動脈に脂質のたまったプラークがあれば、心臓にもプラークがうじゃうじゃあることがわかっているという(相関というやつ)。これが成長して、破れて脂質と血液が触れると、血栓ができて心筋梗塞になるということらしい。加えて、動脈硬化に関する悪いイベントがよく起こるような人では値が低い項目(EPA/AA比)も、とても低かった。職場の健康診断は、すぐに異常判定がでるようになっていて、おどしにかけてきている、などと盛り上がったりもする人たちがあるが、おどしではなくスクリーニング(ちょっとでもやばければ拾い上げる)だと思う方がよいでしょう。他、脂肪肝(軽度)と尿酸値が治療必要な域に達していたが、心筋梗塞よりは緊急性は低いだろう。

こういった事情で投薬と食事制限をすることになったのですが、180あるLDLを70まで下げるとのこと。薬で。また、EPA/AA比を上げるためにEPAを飲む。職場の健康診断で肝臓の数値も要精密検査でしたが、こちらは再検査では正常値になっていた。酒は飲めるらしいが、30まで10年間楽しんだし、もう飲まなくてもよいかな。禁酒は簡単ですしね。すでに10回はやってるし。

医者曰く、食事の偏りや運動不足だけではこんな脂質異常の数値にはなりづらいということなので、家系的なもの、遺伝的な疾患を疑われた。脂質の代謝が高くなりやすい家系だと言われてきた自分としては、ついにこのときがきたか!と思ったわけです。自分にも親や祖父母と同じ遺伝子があるんだと、500km以上離れた肉親や親族との絆を感じたわけです。電話しちゃいましたし。

何がきっかけで親とのつながりを思い出すかはわからない。

同時に、遺伝疾患に関するシンポジウムできいた話を思い出す。曰く、日本では遺伝疾患は親のせい、どっかの国(どこ?)では遺伝疾患は遺伝子のせいという認識が強いということだった。日本は親を責める。親自身も自分を責める。どっかの国では遺伝子による自然現象として処理する。どんな調査をしたのか質問はできませんでしたが、少なくとも自分は親との絆を感じるぐらいには、遺伝疾患を遺伝子ではなく個人と個人の関係に帰してとらえてしまっていますね。遺伝子を扱い、遺伝子という語の在り方について研究していた人がこうなんですから、いわんや一般の人においてをや。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?