ナンカヨウカイ「折る」⑤
「やあやあ、まひる。おかえり」
ぼさぼさの頭でふらりと起きてきたのが、加賀谷衛(まもる)。
みゆの父親で、俺の親友だ。
年を取らない妖怪の俺と、人間の子供だった衛。なぜだか妙に馬が合って、もう30年近い付き合いになる。
出会った頃はまだあどけないガキだったのに、今やすっかりヒゲ面のおっさんになっちまった。今は大学で民俗学を教えているとか。
「はい、パパの分」
「おー、おいしそうだね。ありがとう、みゆ」
みゆからカレー皿を受け取るとき、丸メガネの奥の目が、きゅっと嬉しそうに細められる。
衛のあの目だけは、ずっと昔から変わっていない。ま、外見はずいぶん老け込んだんだけどな。
「どうかしたかい? まひる、食べよう」
「……ああ、ありがと」
俺はみゆからスプーンを受け取ると、いただきますと声を合わせた。
「……でね、新しい先生はちょっとおとなしいの」
「そうかい。きっと緊張しているんだね。仲良くしてあげるんだよ」
「うん!」
俺がぼーっとしている間、加賀谷親子は楽しそうに話している。ダメだ、どうも頭が回らない。
「まひる、さっきからどうかしたかい?」
急に衛が言った。
「別に。なんで?」
「なんだか疲れているようだし、目が赤いよ」
「ああ、今日プールで溺れて……」
しばしの沈黙。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「だーっはっはっは! そうか、まひるは泳げないのか!」
衛が涙を流して笑い転げている。クソっ!
「水泳、苦手なの? みゆが教えてあげよっか?」
「いい。俺、絶対もうプールなんか行かない」
俺がふてくされている間に、やっと笑いをおさめた衛が涙をぬぐいながら口を開いた。
「まあまあ、拗ねなさんなって。そもそも、どうしてプールに? 所長さんの命令かい?」
「そ」
それで思い出した。
俺はポケットから例の紙くずを取り出す。
「なあ、これ何だと思う?」
俺の手のひらの上。濡れて折れ曲がった紙を、ふたりはじっと睨んでいる。
でも、ふたりとも決して手を触れない。これが危ないものかもしれないと、ちゃんと分かっているのだ。
「文字は何も書かれていないようだね。材質からすると、すこし繊維の荒い……和紙のようだが」
メガネを上げつつ、衛が言う。
その時、みゆがはっと目を輝かせた。
「ねえ、これ、折り紙じゃない?」
「折り紙? なんだそりゃ」
「まひるくん、知らないの? みゆ、学校でいっぱい折ったよ!」
そういうが早いか、みゆは自分の部屋から紙の束を持ってきた。
いろんな色の、正方形の紙束だ。
「見ててね」
みゆは紙を三角に折り曲げると、ひっくり返して折り、またひっくり返して折り……何度も何度もその動作を繰り返す。
俺の見ている前で、紙はひし形に折られ、半分になり、そして。
「ほら!」
みゆの手が離れると、そこには羽を広げた鳥のようなモノがあった。
「へえ、器用だな。これは鳥か?」
「鶴だよ、折り鶴」
鶴か。あの頭の赤い、首の長い奴だな。
確かにそう言われれば、そんな風に見えてくる。
「学校でたくさん折ったということは、誰か入院でもしているのかい?」
「うん。同じクラスのシュウ君が、肺炎だって」
ん? なんで入院したら折り鶴を作るんだ?
俺が首をかしげていると、衛が教えてくれた。
「千羽鶴というものがあってね。折り鶴をたくさん、それこそ千羽、折ってつないだものなんだが」
衛は両手の指を組むと、その上に顎を乗せた。俺と話をするとき、いつも衛はこうする。
「古くから、鶴は長生きの象徴だった。だから、病気やけがが早く良くなって、長生きできますようにという願掛けの意味があるんだよ。早く元気になりますようにという願いを込めて、鶴を折るんだ。昔からのおまじないだね」
「ふーん」
人は本当によく祈る。
消えそうな希望をつなぎたくて、あるいは、無駄だと分かっていながら、それでも人は祈る。
バカバカしい。願いが天に届くだって? そんなワケあるかよ。
天の上の誰かさんだって、そんなのイチイチ聞いてちゃあ、やってらんねーだろうよ。
でも、な。
そういう人間の愚かさが、俺たち妖怪にとってはどうにも愛おしく見えるんだよな。
……衛も、何かを天に祈ったことはあるんだろうか。
目の前に置かれた折り鶴を眺めながら、俺はそんなことを思っていた。
「まひる、どうかしたかい?」
「いや、別に。何でもねえよ」
俺はテーブルの上の鶴をつまみ上げた。
「みゆ、この折り鶴もらってもいいか?」
「いいよー」
みゆはまた別の一羽を折り始めている。
俺は手の中の紙くずと、みゆの作った折り鶴を見比べてみた。
濡れて折れ曲がって、ちょっと破れた紙くず。確かに、広げる前の折り鶴に近い形をしている。
「なあ、衛」
「何だい?」
「鶴の鳴き声って、聞いたことあるか?」
ふと思いついた。あのラッパみたいな音は、鶴の鳴き声だったんじゃないかって。
衛はにこりと笑った。
「実際に聞くとびっくりするよ。『鶴の一声』なんていうけれど、まさにそれだね」
「どういうことだよ」
「鶴の鳴き声というのは、他の鳥に比べてかなり大きいんだ。喉の筋肉が発達しているためだと言われているね。雪景色の中に響く鶴の声は迫力があるよ。思わず手を止めて、息を飲んで見入ってしまったくらいにね」
「どんな感じの声なんだ?」
「そうだな、かなり強く、パーンと響く声だね」
「ラッパの音みたい、とか?」
「ラッパか……そう言われればそんな感じかもしれないね」
鳴いた折り鶴と、プールの怪異、か。
「ったく、面倒なこった」
俺がそうぼやくと、衛とみゆが顔を見合わせて笑った。
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