「中国語の部屋」は作れない説

 本文章では、哲学者ジョン・サールが提起した思考実験「中国語の部屋」について、実は「中国語の部屋」なるものは不可能なのではないかという一考察です。
 これは一応、私自身の考えですが同様の議論はなされているのではないか、とは思います。幸いにもご存じの方がお読みくださっている場合はご教示いただければと存じます。

 まず、「中国語の部屋」とは何かを紹介します。上述した通り、これはジョン・サールの論文中に発表された思考実験です。
 サールは、次のような状況を想定しました。
①中国語(漢字)を全く知らない人を小部屋に閉じ込める
②そこに中国語の文章が書かれた紙を差し入れる
③箱の中の人は、室内のマニュアルに沿って新たな漢字を書いて返 
 却する
④そこに書かれた文字は、差し入れた文章への完璧な回答である

 このとき、箱の外にいる人は中にいる人は中国語を「理解」していると考えるだろうが、実際には中の人は何も理解していない。
 コンピューター(AI)もこれと同様で、人間のような「機能」を発揮していても、人間のような「理解」はできていない。
 というものです。

 さて、これに対する代表的な反論は、コンピューターのアナロジーとするならば、「中の人」が理解しているかではなく、この小部屋(中の人+マニュアル)が理解しているかが問題である、というものです。
 このアナロジーを人間に適用するなら、「人間の脳内の神経細胞一つひとつが、言葉の意味を理解していなければ、人間は言葉を理解していない」と主張することになる。よって、サールは問題設定を誤っている、というものです。
 私としては、この反論に賛成します。小部屋の中の人は、情報(文字)を受け取り、マニュアルの指示を転写し、情報を出力するという個別的な機能を果たしているに過ぎません。人間の脳で言えば、視覚情報を受け取る部分と大脳の指示通りに運動神経が手指を動かす部分に相当します。
 肝心要の「どうやって返答を考えているのか」が含まれませんから、小部屋の中の人が理解しているかどうかという問いは、視覚神経と運動神経だけで物事を理解できるか、と言っていることになります。これはNOというのが自然でしょう。しかし、この問い方はあまり意味がないといえます。
 ここまではwikipediaにも書かれていることの私なりのまとめです。以下の段落より私の考えに入ります。

 注目すべきは、この小部屋にある素晴らしいマニュアルです。あらゆる中国語に対して適切な返答ができるというのです。
 ここからは、一般的な日本語話者の私が議論しやすいように、「日本語の部屋」に外国人が入っているとします。
 さて、この「マニュアル」なるものは具体的には一体どんなものなのでしょうか。ここでは、どんな文章にも普通の日本人並みに対応可能な日本語の部屋を考えます。
①英和辞書のように、単語→単語の対応のみが書かれている
 →明らかに不十分。規模としては、大日本国語辞典が50万項目な
  ので、10万語は必要か。
②日本語の文法的にありうる文章を全て網羅している
 →10万語から10語を選ぶと、(10万×9万9999×9万9998×(略)
  ×9万9991)/10!となる。ざっくりオーダーをとると10万^10
  /360万で、(10^5)^10/3.6^6~10^53通りくらい。
③文脈に対応する
 →普通の日本人は、文脈に則って適切に返答する。例えば、
  「今日の天気はどう?」
  「午後から崩れそうだよ」
  に対して、
  1.「じゃあ、傘をもっていくね」(出勤前のサラリーマン)
  2.「ラッキー!」(傘屋の店主)
  3.「ええ~」(遠足を楽しみにしていた小学生)
  4.「延期の連絡しなくちゃ」(花見の幹事)
  5.「放水の可能性を考えねば」(ダム管理者)
  などの返答は全て「自然なもの」である。なんなら文法的に崩壊してい
  ても、辞書的な意味から逸脱していても問題ない。ただし、文脈に即し
  ていれば。

 ここまで考えてきましたが、「マニュアル」に書き込まなければならない「会話パターン」の数は天文学的ならぬ巨大数論的なレベルになるでしょう(観測可能な全宇宙の総原子数は推定10^80個程度)。
 結局のところ、そんなものは絶対に作れないし、人間の脳やコンピュータに搭載するなど考えられません。いくら思考実験とはいえ、ここまで現実(意識の存在が確実視される唯一の存在=人間)と乖離したものを考えても意識の本質に迫れるとは思えません。

 中国語の部屋式の考え方では自然な会話は望めないでしょう。
 しかし、私含め誰しもが苦もなく会話をこなしています。つまり、中国語の部屋とは本質的に異なる方法で会話をしている訳です。ですから、「中国語の部屋のようなシステムを作れば、会話をする人工知能が出来上がるというのは誤りだ」という意味に取るならばサールは正しいわけですね。

 単語や、文章の一つひとつに対応したマニュアルがない以上、どうやって言葉を紡ぐのでしょうか。私は言葉は全て「アドリブ」だと考えています。発せられる言葉は、例え全く同じ文章として表記されるものだとしても、それぞれの意味する所は唯一無二だと思います。そして、言葉を意味づけるためには、個々人の経験(人間としてアプリオリに与えられた生物学的特性とアポステリオリな環境要因をあわせたもの)が必要でしょう。結局、文脈に即した「普通の」言葉を発するには、意味理解が不可欠である、というところに行き着きました。
 浅学非才の身であえて、ソシュールの語彙を借用するなら、「エクリチュール(文章の表記)が同一でも、個々のパロール(意味理解を含んだ個々にユニークな言葉)は全て別物である。しかし、類似の経験を持つ多くの人々の間には高度な言語体系、ラングがあるように見える。そして、そのラングの完成度の高さ故に、中国語の部屋が存在可能だ、という錯覚が生まれる」といった感じでしょうか。

最後に、ここまでの私の考えをまとめます。

1.「中国語の部屋」においては、中の人ではなく部屋全体を考察対象にし
  なければならない
2.「中国語の部屋」に備えられたマニュアルは、その網羅すべき語彙、文
  章、文脈の膨大さゆえに現実、及び大抵の思考においても想定できない
3.言葉はそれぞれが、個人の経験に基づいた独自の意味を持っているの
  で、そもそも意味理解と分離された会話は、自然なものにはならない。

 結果的には、「人間は意味を理解して言葉を発しているし、コンピュータが人間並みの会話をするには人間並みに意味を理解しなければならない」という至極常識的なところに落ち着きました。

 ここからは私の感想です。
 常識的な結果というのは面白くないものですが、一方で確からしさも感じます。個人的には、常識というやつはもの凄く上手くできていると思っています。何かと素朴な直感は批判されがちですが、基本的には合っている場合が非常に多いと思います。それゆえに常識から外れたものは特別感あふれるものになるわけですけど。とはいえ、今回の考察も、螺旋階段を一廻りするように、一段高い視点から常識的な結論を見ることになったように思います。

 ここまでお読みくださった方には、本当にありがとうございます。それでは、ここらへんで失礼いたします。

 


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