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三途の川と、青いトカゲ

毎年お盆の時期になると、母方の実家の墓参りをする。そこには、幼少期の私を可愛がってくれた人が眠っている。

彼女がこの世を去ってから二十余年が経ち、墓前で報告することも変わった。
「志望校に受かりました」「就職しました」「結婚しました」……かつての未来が現在になり、そして過去になる。思い出たちをぐんぐん引き離しながら、生きるものだけが勝手に年老いていく。

ならばせめて、心まですべて未来に持ち出してしまうことのないようにと、私たちは墓参りをするのかもしれない。そして、いっときすべての時間軸を「あの人が生きていた頃」に引き戻し、心のうちを吐露するのだろう。

その点、ときおり「生者としての私はなんて自分勝手なんだろう」と苦笑してしまうことがある。
墓前での報告といいながら、あれは救済の要求であり、懺悔であり、一人よがりな決意表明なのだ。

生きるものに話しても仕方がないことを、墓前に立ち、心のなかで呟き、三途の川に向かってリリースする。
流れ着く先は、知らぬ存ぜぬ。三途の川の浄水センターなんてものがあれば、下水として処理されてしまっているかもしれない。もはやそれでも構わないとすら思う。

けれど、そんな無礼な私にも、あの世の人は何も言わない。何も言えない。何か言ってくれと思う。

今年のお盆もそうだった。
灼熱の日差しのなか、永遠にも感じるくらいの時間、手を合わせる。それでも聴こえるのは、お寺の柿の木が風に揺れる音だけ。

代わりに、墓石の陰からトカゲが姿を現した。青々と光る尾っぽを持つ、小さくてかわいらしいトカゲだった。

私は特に驚くことなく、まじまじとその姿を見つめる。トカゲは逃げることなく、墓石のそばの、私から少し離れた場所にじっと佇んでいた。

ふと思いつき、手桶から汲んだ水を杓子ですくい、トカゲから少しだけ離れたところにちろちろと流してみる。トカゲは水をまいた場所に近づいていった。なんだか満足気にも見える。

その姿を見届けた瞬間、私は不思議と、今年のお盆にするべきことは終わったように感じたのだった。手桶を持ち、腰を上げる。するとトカゲも見計らったかのように場を離れ、墓石の奥へと消えていった。

三途の川に流したものは、あのトカゲが代わりに届けてくれただろうか。そうでなくとも、あの愛おしい生き物の喉は潤っただろうか。

彼女の青々とした、まるで海のような尾っぽを思い出しながら、今年のお盆を終えようとしている自分がいる。

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