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一旦、感じた通りにやってみた

小学校高学年の頃、プロフ帳が流行っていた。少し厚手の紙に自分の自己紹介を書いて互いに交換するやつだ。そのなかには必ずと言っていいほど「得意なこと」を記入する欄があったのだが、わたしはそこにいつも「ディベート」と書いていた。多分きっかけは、五年生の頃の授業だと思う。

ディベートは確か道徳か国語の授業の一環としてなされていた。三人ひと組のチームを二つ作って、賛成派と反対派に分かれて「給食のあとにお昼寝タイムがあった方がいいか」とか「小学校と中学校は一緒になった方がいいか」みたいなテーマごとに議論をするようなものだった。見学している生徒たちに多数決をとって、どっちの方が説得力があったかジャッジするところまでがセットだったと思う。

当時なにかにつけてライバルみたいに競い合う関係性の、クラスメートの男の子がいた。運動をしてもテストをしてもどっこいどっこいみたいな感じで、何で競争しても同じくらい勝って、同じくらい負けた。そんなわたしの「勝ち」の記憶のなかでも最も鮮烈なのが、彼が賛成派、わたしが反対派で挑んだディベートだった。三人ひと組のチームの中でもっとも重要なのは、一番最後に話す人間だ。この人がいい主張をしたらチームは大逆転するかもしれないし、逆に途中まで調子が良くても締めの主張が今ひとつ冴えなかったら負けてしまうかもしれない。

わたしも彼もよく言えば弁の立つ、悪く言えば屁理屈が得意な人間だったので、それぞれのチームのトリをつとめ激論を闘わせた。その結果、わたしの反対派チームが逆転勝利をした。二人目までの多数決では、賛成派が優勢だったのに、だ!彼に勝てて嬉しい気持ちと、鋭い理屈と言葉を自分の中から総動員したときの「理屈っぽいわたし」に対してドキドキするような気持ちで、頬が紅潮し、呼吸が少し浅くなった。女の子たちがわっと駆け寄ってきて「ゆりちゃん格好良かった!」と言ってきた。強い理由があるって強いんだなあ、と思った。

今でも、あのディベートのときのことを思い出すと、心臓がドコドコと少し荒っぽく鼓動する。全身、とりわけ脳みそにたくさんの血が送られて、頭がじわじわと臨戦態勢になるのを感じる。わたしはもう学生ではなく、ディベートなんかする日々は自分が望まない限り訪れないのだけれど、それは裏を返せば自分が望めばそういうときはやってくると言えるわけで、絶対に望まないぞと改めて決意する。

ライバルみたいだった男の子とは結局小学校から高校までのあいだ、ずっと同じ学校に通うことになった。ディベートの授業があったのは小学生の頃だけだったけれど、その後も部活やクラスが一緒になるような日々が続き、顔を突き合わせればなにかしら言い合いをしていた。立派なアラサーになった今は、ふとしたときに声を掛け合って、日本酒を酌み交わしながらなんてことのない話をしたりする。そこにはもうディベートの気配はない。彼は「おれ、人を見る目はあってさ、今のところ間違いない人だけが味方でいてくれてるんだよ」と言っていた。この人と、今の年齢の半分にも満たない頃から、自分の言葉と理屈を総動員して言い合っていた時期があったのだと思うたび、昔の自分と今のわたしとのあいだに大きくて深い断絶が現れる。小学校の頃の自分の方がよっぽどハードな言葉の応酬に果敢に臨んでいて、そのタフさに頭の下がる思いだ。そして、かつてプロフ帳に「得意なこと:ディベート」と書くだけあって、今も「得意なこと:ディベート」としてうっかり外の世界に臨みそうになる瞬間があるけれど、それはもう自分のやり方ではない、ということをわたしはよくよく理解している。

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このあいだ、ひょんなことから占い師さんに自分の運勢をみてもらうことがあった。占いの結果の共有は一時間半に及んだけれど「お前はお前の感じた通りに生きろ」をいろんな言い回しで伝えられて、それで終わった。「感じた通りに生きちゃダメな人間なんかこの世に存在しないだろ」という言葉を喉元にとどめたまま、でも嬉しくなってニヤニヤしながら帰路につく。

家に向かう電車に揺られながら、ディベートに参加していた自分のことを思い出す。反対派なのに「わたしもあなたの意見、すごくいいと思う!賛成!」とうっかり言いそうになり、でもそれだと負けてしまうので、頭の引き出しを死に物狂いでひっくり返しまくって、クラスメート全員を納得させられる理屈と言葉を探し当てようとしていたわたしを抱き寄せる。なんて健気で切ない存在なんだと思う。WAR IS OVERだ。ディベートがなされている教室の、両サイドに「賛成」「反対」と書かれた紙を想像上の小学生のわたしは破ってそのまま花吹雪にする。びっくりしているクラスメートの前で「一旦、わたしの感じた通りにやってみた」と、わたしは言う。

それが叶わない代わりに、29歳のわたしが、紙吹雪のなかを歩く姿を想像する。口に入っちゃうくらいの量が雨霰と降り注ぐなか、ちょっと、口に入るんだけど、なにこれ、とか大笑いしながら駆けていく自分の姿だ。びりびりにするための紙は、いくら吹雪にしても余るくらいたくさんある。それを破くための手もモチベーションも揃っている。準備は結構前から十分すぎるくらいにできていて、それをわたしもまた十分すぎるくらいにわかっていたのだ。

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