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線をひく、溝を掘る、傷をつくる(うそのある生活 29日目)

8月7日 晴れ(雲の積まれた空)

『祭祀と供犠』(中村生男 著, 法蔵館文庫)という本を読んだあとに、次の本を探していると『カフカとの対話 増補版』(グスタフヤノーホ 著, 吉田仙太郎 訳, ちくま学芸文庫)という本を見つけた。すぐに読みたいと思ったけれど、調べてみると絶版になっている。古本を調べて、あまり値段の張らないものを選んで黄色いボタンを押したけれど、届いたものを開くと、いくつかのページに鉛筆で線がひいてあった。

線がひかれていてもとくに気にはならないし、ページは色あせてところどころもシミもあるけれど、90年代に出た第一刷なのだからそれだってしかたない。傍線なんて古本ならときたまあることで、こちらだってそんなことは織り込みずみで買っている。だからむしろ、いつかどこかでこれを読んだだれかは、どのセンテンスを気に入ったのだろうと、線にも興味を持って読んでいった。

はじめに線がひかれていたのはP24「知的な仕事は、人間を人間の共同生活から引き離す」で、次にはP25「芸術家は巨大ではない」というセンテンスに傍線がひかれていた。前の読者はなんとなく十代の青年のような気がしたが、もちろんそんなことはわからないし、もし仮に十代だったとしても、何十年も前に店に並んだ本なのだから、その彼や彼女だっていまではきっともう僕より歳をとっている。

読み進めるうち、線がどんどん減っていったのには、なんとも言えない気持ちになった。はじめは見開きに数本ずつ並んでいた線が、だんだんと密度が下がっていき、後半にはちっともひかれていないということになった。はじめは僕の読書に伴走するようにつき合ってくれていたぐねぐねとした黒い傍線と青年が、だんだん影をうすくして、ついにはいなくなってしまう。さみしくなりながらも、「まさかきみは途中で読書をやめたのか!」とつい見知らぬ不確かな青年を叱責したけれど、それはもしかすると、かつて同じようなことをしていた高校生の僕に言ったのかもしれない。どちらにしろ、その叱責だって、だれにも届くことはなく、傍線と一緒に消えていく。

線を失ったからか、自分でも線をひきたいなと考えるようになった。新しい線をひき、それがだれかに興味を持たれたら、と、はじめはわくわくしたが、思えばこの本はもうずいぶん汚れている。また古本に出したところで買ってもらえないだろうし、だからこの本は次の持ち主のところに行くことはない。だったら、この本ではなくて、むしろほかのものに線をひこうか。

なにに線をひいたらいいだろうと考えながら、窓から雲の積まれた夏の青い空を見あげたりしているうちに、娘と妻の住むアパートのバスルームにはアニメのキャラクターの顔が描かれているのを思い出した。

それは妻や娘が直接描いたわけではなく、もちろん元から描かれていたわけでもなくて、かつてお風呂に後ろ向きだった3歳の娘をなんとから入浴させようとした妻が、プラスチック板にキャラクターの絵を描いて貼っていたのが壁にうつってしまったものだ。いくら洗剤で擦っても落ちないのでそのままにしていたけれど、それでもずいぶん時間が経ち、なんども水がかかるうちにだんだんとそれも薄くなってきた。思えばあの頃からはもう4年も経っている。娘は今年、小学生になった。

たしかに線というのは、濡れたりこすられたり時間が経ったりすればいつかは消えてしまうものだ。そうわかっていて書くのははかないし、ならばどうにか、消えない線というのはかけないものだろうか。

あたりをきょろきょろしとて消えない線を探しているうちに、鏡が目にはいり、僕のおでこの、小学生のころから消えない傷に気がついた。階段から転げ落ちて頭を打った時のその傷が、二十年以上経ってもまだ残っていて、なるほど、消えないように傷つけてしまえばいいのか、と妙な合点がいった。たしかに、傷をつくるというのは溝をつくるということで、形を変えることなのだから、それならいつまでも残るのかもしれない。

溝をつくる発想から、むかし父がすこしの間だけ庭で畑をやっていたことがあったのを思い出した。ちょうど春先、畑に苗を植えるので畝をつくるのを手伝っていると、掘り返した土の溝から太くて白い、柔らかな幼虫が出てきた。頭だけが茶色のそれがぐねぐねとのたうつのを不意に見たからか、慌ててまたその溝を埋めてしまったが、そのあとすぐに後悔して、クワガタの幼虫を見つけたと兄を呼びだした。それで同じところを掘り返してみたが、いくら掘ってももうその幼虫は見つからない。幼虫は深く潜ってしまったのか。兄は、うそつくなよおまえ、と苛立たしい声で言った。

その畑の近くでは、母が小さな花壇をつくっていた。そこに春にはチューリップが咲いていたが、兄とキャッチボールをしていたときに、ついそれを踏んで傷つけてしまった。はじめ茎の部分が少し裂けてしまって、それをよく見ようと裂け目を開くようにして持ったら、あっ、という間に茎が折れて二つになってしまった。

なるほど、傷は深くなればなるほど消えないけれど、でもあまり深い傷ではその溝がついに反対まで到達してしまう。そうしたら傷つけたものは二つになってしまって、そこにはもうもとから溝はないし、傷もなくて線もない。傷は、ちょうどよく傷つけているから、傷になるし残るらしい。

とすれば、果たして僕はなにかにちょうどいい傷をつけたりできるだろうか。これまでのことを思えば、とてもできそうもない。これまでに何度も、つい力をかけすぎては自分や人に傷をつけてきた、やめよう、そもそも線を残そうなんて思うのが傲慢で顕示欲を抑えきれない証拠じゃないか。そんなことを考えていると、隣の部屋から、娘がままごと相手のポケモンの人形に「悲しい?」と聞く声がした。なにが悲しいと聞いたのかわからないけれど、そのあとしばらくして、そうなんだね、と言う声が聞こえた。

カフカとの対話を終わりまで読むと、最後のページにの少し前に、また薄い線を見つけた。なんだ、きちんと最後まで読んだんじゃないか、と見知らぬ誰かに安堵し、そう、本っていうのは最後まで読んだほぅがいい、と身の程も知らないで彼にアドバイスめいたことを思った。その線は一度引いたあと、消しゴムで消したようだったが、やはり線は、消えきれずに残っていた。


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