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空白を埋める

気がつくと4月半ばになっていた。前回の日記から3週間ほど空いてしまった。本音を言えば毎日、せめて週に1回は投稿したい気持ちはあるのに、間が開けば開くほど億劫になってしまう。
花粉とか風邪とかで体調が悪かったことや、年度末の仕事のバタバタもあって気持ちがなんとなく沈んでしまっていた。季節の変わり目というのもあるのかもしれない。
noteもだけど、手書きで書いている日記も空白が続いている。本も思うように読めていない。

先週の話。
【理想的本箱】(NHK Eテレ)で紹介されていた『怠惰の美徳』(梅崎春生/中公文庫)が猛烈に読みたくなって、番組を見ている途中でポチってしまう。「読みたい!」と思った翌日に手元に届く世界がすごい。便利を享受している身なのでアレだけど、仕事でリアル書店に携わるものとしては複雑な心境。わたしはいつだってリアルでありたいのに、便利に負けっぱなし。

そういえば私はどちらかというと、仕事がさし迫ってくると怠けだす傾向がある。仕事の暇な時には割によく動いて、寝床にもぐり込んでばかりいず、セミ取りに出かけたり、街に出かけたりする。これは当然の話で、仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかありえない。すなわち仕事が私を怠けさせるのだ。

『怠惰の美徳』16-17ページ

私が仕事を後回しにしがちなことも、よくよく考えると仕事が私を後回しにさせているのかもしれない。


『脳のお休み』(蟹の親子/百万年書房)を読む。
いい意味で「思ってたんと違う」エッセイだったので、今のこのタイミングで読んでよかった。

部屋から一歩も出なくたって日記は続けられる。

『脳のお休み』57ページ

 どこにも当てはまる必要なんてない。気高く、はっきりとした主義や理念を持って生きるだけが生活だなんてことはない。日々は淡い。時々楽しく、時々つまらなく暮らすだけだ。
 もっとひとりの身体でいよう。何にも当てはまらない私に水をやろう。断片的な記憶を掘って〈たね〉を見つけることから始まっていくのかもしれない。
 それは、とるに足らないどうでもいいことであればあるほど良い。
 それは誰にも横取りされない、ちんけな私の話。

『脳のお休み』226ページ

今のわたしは「ズン」とした気持ちが全面に出てしまっていて、他人に「ズン」を知られたくなくって、それだけに注力をしてしまっている。ので、本を読むこと(インプット)も日々のログを残すこと(アウトプット)もできない、という感じ。
蟹の親子さんは鬱々とした中でも日記をつけていた、途切れなかった、それが少し怖かった、と書いている。逆に羨ましい。書くことでしか消化できないものって絶対にあるから。わたしなんて、ダラダラとSNSを見続けることしかできていない。

日記を書くことって、自分を大切にする行為なのでは、と思う。誰かの日記を読むことで、大切を分けてもらっている。わたしも誰かに大切を分けることができていたらいいのだけれど。

学生の時に受講していた国語学の授業の中で、キリスト教が入ってきた当時は「愛」という概念が日本にはなかったため「お大切」という言葉で置き換えた、という話を聞いた。「ゼウスの愛」は「ゼウスのお大切」。
その話がわたしの中でずっと残っていて、無性に「大切」って言葉を使いたくなる時がある。
日記を書いたり、読ませてもらったり、わたしのとって全部「お大切」なこと。


できてしまった空白は仕方がない。埋めることはできないけれど、わたしは今ここにいるからきっと大丈夫。


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