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於竹大日堂にあったガラ紡は珍しい紡績機であるというお話

 いでは文化記念館に展示のガラ紡。2017年以来展示しているもので、来館された方は目にしたことのある人も多いでしょう。さて、この「ガラ紡」とは一体何でしょうか。今回はそのガラ紡について、天野武弘氏(注1)の調査と考察を参考に紹介します。

ガラ紡発見の経緯

 天野武弘(あまのたけひろ)氏は2015年12月に荘内日報の記者から発見の一報があり、2016年2月に正善院の於竹大日堂(おたけだいにちどう)で発見のガラ紡績機を調査したとのことです。
 調査の結果、これまで知られているものと構造の異なる新発見のガラ紡績機と判明しました。しかし、なぜ於竹大日堂に保管されていたのか、その来歴は何なのか、経緯はまったくの謎です。ガラ紡には焼判「羽前 鶴岡五日町 起立教製 板垣佐平治」、「明治十三年」、「改 カイ一」とあります。

そもそも「ガラ紡」とは

 そもそも「ガラ紡」とは一体何でしょうか。ガラ紡は、ガラ紡績機を使った日本独自の紡績法です。発明者は臥雲辰致(がうんたっち)で、明治6年(1873年)に完成しました。その後明治10年(1877年)には第1回内国(ないこく)勧業博覧会に出品し、鳳紋賞という最高賞を授与されました。その後地方に普及し、全国に1500余りのガラ紡工場が建つなど一大産地を形成しました。
 ガラ紡の名は「ガラガラ」という機械音から呼称され、和紡績、和紡、臥雲紡とも呼ばれました。洋式紡績は回転軸であるスピンドルを回転するものの、ガラ紡は綿を回転するという、世界に類例のない日本独自の紡績法です。

ガラ紡の誕生から発展まで

 ガラ紡の発明者の臥雲辰致は、長野県に生まれ、父の仕事(足袋の底の制作)を手伝いながら紡機の考案をしました。20歳で出家するも、神仏分離の影響で還俗し、その後手回しのガラ紡を開発しました。そして、そのガラ紡で連綿社を創立しました。
 ガラ紡は全国に普及しましたが、同時に大量の模造品が出回り、連綿社は苦境に立たされます(注2)。しかしながら、その後改良して水車や電動機などの動力をつけたガラ紡がさらに普及し、ガラ紡の発明は教科書にも掲載されました。

 明治10年(1877年)、愛知県三河(現岡崎市)に40錘手廻しガラ紡が導入されました。それを機に、三河のガラ紡は水力動力にて、西三河地方(現岡崎市、豊田市、安城市、西尾市などの矢作川流域)で栄えます。
 また、明治11年(1878年)に矢作古川で船紡績を初操業してからは、最盛期に矢作川全体で100艘余が作られました。

 愛知県は水車に適した河川が多いことや全国有数の綿の産地であり、綿糸の需要も高かったことからガラ紡が発展したのだと考えられます。
 ガラ紡の肌触り、風合い、吸湿性の良さなどからガラ紡製品が人気になり、世界からも注目を浴びることになりました。ラオスへ等の海外展開もあるようです。

手回しのガラ紡と今回の発見

 開発当時の手回しのガラ紡は、動力をつけたガラ紡の登場により姿を消していくことになります。国内で現存するガラ紡は、このいでは文化記念館展示のガラ紡を含めて、2019年現在全国に5台(注3)です。特に、このガラ紡は原料に綿ではなく絹を使用していて、これは国内初の発見となりました。焼判の刻印があるのもこれまでにない希少なものです。
 希少な点として、他の4台は手回しハンドルが動力源となっていますが、於竹大日堂のガラ紡はハンドルが上下の往復運動になっています。その他、4台は臥雲のガラ紡と同様な動力伝達方法・糸質調整の方法ですが、このガラ紡はそれとは異なっています。
 このように、於竹大日堂にあったガラ紡は他の4台に比べ特異であるということがわかります。ガラ紡が全国に普及した際の模造品の一つなのではないかという見解もありますが、ガラ紡の他の箇所の調査を見ると、臥雲の影響は大きく受けていると見られるようです。全国に数台しか現存しない大変貴重な資料ですが、於竹大日堂との関係性や来歴は未だ謎のままです。

ミステリアスなガラ紡

 ガラ紡が発展した愛知県と鶴岡市では、別の道からもかかわりがあります。愛知県岡崎市は徳川四天王・徳川十六神将の筆頭であり、庄内藩初代藩主の祖父である酒井忠次の出身地です。その孫の忠勝(庄内藩初代藩主)から続く庄内藩では、戊辰戦争で敗北に終わり、庄内藩旧中老の菅実秀(注4)はその汚名を注ぐために奮闘します。
 明治期の松ヶ岡では、菅実秀を中心に国の近代化に貢献すべく大勢の士族を動員して開墾を行い、養蚕業をおこしました。カイコから採れた糸を織物にして受け継がれた鶴岡シルクは、現在も様々な形で伝統を維持しています。現在、養蚕から染しょくまでの絹産業の生産工程がそろっているのは、全国でも庄内だけです。このような一連のエピソードは「サムライゆかりのシルク」として日本遺産に登録されています。
 於竹大日堂にあったガラ紡は「原料に綿ではなく絹を使用」している珍しいガラ紡です。絹という点でもしかすると松ヶ岡に関係しているのかもしれませんが、刻印のあった「板垣佐平治」の名前は見つかっていない上、来歴などもまだわかっていません。このガラ紡の研究や探索での新たな発見は日本の紡織機の研究において大きな成果となることでしょう。

脚注・参考文献

脚注
(注1) 天野武弘(あまのたけひろ):愛知大学中部地方産業研究所研究員。2016年には正善院於竹大日堂で発見されたガラ紡績機の調査を行う。主な著書に『歴史を飾った機械技術』(1996年)などがある。

(注2) 専売特許条例が公布されるのは明治18年(1885年)のため、当時はまだ未制定だった。公布後、明治22年(1889年)にガラ紡の特許を取得した。

(注3) 現存の手回しガラ紡は、大阪府の日本綿業倶楽部の所蔵、愛知県の博物館明治村での一般公開、愛知県の石川繊維資料館での保管、静岡県の遠州織物工業協同組合の保管、山形県のいでは文化記念館での一般公開の5台。

(注4) 菅実秀(すげさねひで):庄内藩旧中老。戊辰戦争での庄内藩の敗戦処理で手腕を発揮した。その敗戦処理の経緯で西郷隆盛と交流がある。

参考文献
・『明治期における手回し式ガラ紡機の機構に関する一考察』(論文), 天野武弘 執筆, 2019
・『いでは文化記念館企画展開催記念ギャラリートーク 於竹大日如来と不思議なガラ紡』(配布資料), 天野武弘 講演, 2017
・『刀を鍬にかえて 松ヶ岡かいこん物語』, 鶴岡まちづくり塾羽黒グループ, 2014
『羽黒山正善院於竹大日堂保管の民具 手回し式紡績機「ガラ紡」と判明』, 荘内日報, 2017.7.15