fumiko

毎月25日に母fumikoの書き溜めた文章を娘nahokoが代理発信しています。

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最近の記事

まさかの激震 熊本地震の記録(2016.6.4)

 6月に入った。一人この静かな空間でパソコンに向かっていると未だに、1ヶ月半前のあの出来事が夢だったような不思議な感覚におそわれる。夢?悪夢?でも実際は、熊本の全員が味わった恐怖であり、紛れもない現実である。  4月14日(木)午後9時26分、時計をそれ以前に巻き戻したいという被災者の声を聞く。私もそう思う。平穏だった日常に戻りたいと。黒く凛々しくそびえる熊本城を、そしてあの武者返しの石垣を今一度熊本に返してほしいと。  熊本が傷を負った。重傷である。激震によってあらゆる

    • あいうえおで料理 アヒージョ(2017.5.1)

      アヒージョという料理知っていますか?うまいですよー。エビとオリーブオイルの料理です。カリッと焼いたバケットと一緒に食べます。 作り方はすごく簡単。鍋に少し多めのオリーブオイルを入れ、その中に刻んだニンニクと輪切りにした鷹の爪を入れ、ニンニクの香りが出るまで火にかけます。次に具材を入れ加熱するのですが、具材はエビ以外はお好みでエリンギやしめじやえのき等のきのこ類、他はベーコンやホタテなんかもOKです。グリーンの色どりにピーマンなんかもいいです。結構何でも合うのですがあまり種類

      • 紙と鉛筆(2015.3.3)

         3月になった。リビング・私の部屋・トイレ・洗面所と次々に回って、カレンダーをビリビリーッと破く。1月・2月と早くも過ぎ て、今年も春の季節を迎える。カレンダーの絵に桜やお雛様が登場して、なんとなく心浮き立つ思いがする。  さて月日が過ぎた必要の無くなったこの破いた数枚のカレンダーをどうするか?裏面は真っ白なツルツルの丈夫な紙で画用紙よりも大きいものもある。ずっと昔は本やノートのカバーに再利用したこともあった。娘や孫達のお絵かき遊びや工作にもずいぶん役立ったものだ。それらに

        • この星の行方(2017.2.2)あいうえお詩

          あたりまえと思っていた 今までの暮らし 嬉しい時も 悲しい時もあったけど 絵を眺め 音楽を楽しめる幸せ 感じるのです なんとなくこの星が危険だと 熊本の地震にしても けっして例外ではない 壊れて行くのだろうか この星 颯爽と歩く人々 幸せそうな笑い声 澄んだ青空 そして小川のせせらぎの音 そのどれもが愛おしい 大変 大変 そう大変な時代になったかも 地球がついに音をあげた 天地がとうとう怒りの拳をふり上げた なぜ人間はこんなに戦争ばかりするのだろう 盗人・嘘つきが横

        まさかの激震 熊本地震の記録(2016.6.4)

          タイムカプセル(2011.5.7)

          今日は平成23年5月7日土曜日。大型連休の最後の週末です。このところ続いた中国からの黄砂もないようで、ここマンションの11階からくっきりと新緑の花岡山が望めます。風もなく爽やかに晴れたこの景色から はホント平和そのものに思えるのですが、現実は胸が痛くなるような悲惨な状況がこの世界中のあちこちであっているのです。 3/11の東日本大震災に関する番組は毎日どこの局でもいろんな角度から放映されています。原発による放射能の問題もあって、なかなか復興というまでは違い道のりのようです。

          タイムカプセル(2011.5.7)

          詩 『文』によせて (2010.4.26)

          すきま無く並ぶ集合体 何百 何千 何万と ただワクの中に 何かを形作る訳でもなく ぎっしりと整列している 黒一色の服をまとい 文字という称号をもらって だが一つ一つ個性あるそのものは 立つ位置を選ぶ 前後にいるものを意識する 横に並ぶことを踏躇する 小さな集団を作り     集団が組織を成す 色がある 音が聞こえる においがする 風と光と影が誘う 涙と笑い 優しさと暴力 広がるあらゆる美しい世界 絶えることの無い愚かな争い 経験し得なかった さまざまなことを 主役

          詩 『文』によせて (2010.4.26)

          手づくり(2010.9.29)

          少し前までは生活用品のすべてが手づくりの物であったので、あえてこれは手づくりだと言うこともなかったであろう。今やちょっとした物でも、手づくりと書き添えてあるだけで、より高級に思えるから不思議である。 洋服も若い頃はよく誂えていたものだ。ファッション雑誌を眺め、今度はどんな服にしようかなと流行りの襟や袖の形などを取り入れて決める。そういう楽しみもあった。お店で好きな生地を選んで買って、たいていは家の近くの洋裁をされる人に頼んで作ってもらっていた。出来上がるまで時間はかかるが、

          手づくり(2010.9.29)

          詩 「今を生きて」(2011.8)

          人は生まれ 花のように 咲き 種を残し やがて朽ちて散って行く 人は 笑い 泣き叫び 考え続ける 人は喜び 怒り 悲しみ  戦い続ける 人は 食べて眠り 歌い 語り続ける 世界中の69億人の内の一人 今ある私は私だけ 遥か昔よりこの地球に生を受けて来た 限りない多くの人の中の一人 自分の知らないところで 数知れない競争に勝ち抜いて 生まれたという そして今 一秒一秒を 生きている この時代に この場所に この周りの人々との関わりの中で 今 生きていることの不思

          詩 「今を生きて」(2011.8)

          鯛のあら(2007.5.4 )

           日本人は元々語呂合わせが好きとみえて、特にお祝い事に関しては実に沢山のものがあるようだ。よくお正月に登場するのは、喜ぶの昆布・まめまめしくの豆・喧嘩はするめえのスルメ・難を転じるのナンテン・・・という具合に、今もって縁起をかついだそのような言い回しが伝えられ、行事に取り入られている。  そんな中でも最たるものはめでたいの鯛ではないだろうか。いにしえの時代より現在に至るまで、祝いの食べ物の主役としてのその地位をずっと引き継いで来たのも鯛であって、これはタイしたものだと言って

          鯛のあら(2007.5.4 )

          父を想う (1996.7)

           「その車まてー」。父ははだしのまま飛び出して、車を追いかけた。私はあわてて「ちがう、ちがうよ」と父の背に向かって 叫んでいた。車は知らずに走り去った。 私が中学生の頃の出来事である。今でも右足の太もも外側に広くわずかに残る傷を見ると、当時の様子を思い出して、父の勘違いをおかしくそして嬉しく思う。  それはある日のことだった。授業が終わり、鞄を手に運動場を横切って校門近くにさしかかった。友だちの声にふりかえった私は、後ろ向きのまま話しながら数歩後ずさりした。そして、蓋がされ

          父を想う (1996.7)

          アメリカ滞在記(後編)〜1971年

          ●前回のあらすじ 海外旅行がまだ珍しい頃の昭和43年、20才の私は姉の住むアメリカに渡った。姉は私の為に永住権を取って招いてくれたのであるが、私は3年間という期間を決めて旅立った。  当時のアメリカは日本の生活と比べられない程、文化的で豊かであった。丁度ベトナム戦争のさなかでもありカルフォル ニア大学の近くは多くのヒッピーで溢れていた。  最初の1年は外国人向けの学校に通い、夏休みはサンフランシスコにある日本庭園の茶店でアルバイト、その後姉の家を離れて白人の家庭に住み込

          アメリカ滞在記(後編)〜1971年

          アメリカ滞在記(前編)1968年〜

          一、旅立ち  1ドル360円、昭和43年、私が20才の頃である。 東京オリンピックが終わり少しずつ日本の近代化が実現し、高度成長期にさしかかりつつあったが、まだまだ日本は貧しかった。そんな時代アメリカ合衆国はあこがれの国であった。今でこそ海外旅行は珍しくもなく、留学やホームステイは競って沢 山の若者が経験をする。当時私は、アメリカに嫁いで行った姉の招きで行く事になり、友達から随分羨ましがられたものだ。姉は私を呼び寄せ、気に入ればずっとアメリカに・・・と考えていたのか私に永住

          アメリカ滞在記(前編)1968年〜

          娘の自宅出産 2009年

           「どうしてあんなに頑固だったんだろうね。あれは絶対自分だけの意志じゃなく、この子にそうさせる何かがあったんだと思うよ」 娘の菜穂子が、何がなんでも自宅で自然出産をしたいと、どうしても譲らなかったあの異常なまでの頃を振り返って言った。元々菜穂子は、自分の考えをはっきり持っていてこだ わって生きている。環境破壊やいろんな意味で荒廃したこんな時代だからなおさら、自然なものや日本的なもの への関心はとても強いのかもしれない。そういう彼女の日頃の暮らし方や生き方を側で見ながら、私自

          娘の自宅出産 2009年