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(短編ふう)本日にて、閉店。

頼んだ甘辛ナス炒めはいっこうに来る気配がなかった。
厚いグラスジョッキの生ビールはとうに飲み干している。

店内は、満席。
週末買い出し先の定番の一つにしている大船ヨーカドーと空中廊下でつながった別館にある中華料理店である。
別館の一階は昔、三越のギフトセンターだったと思うが今はBOOKOFF。
二階は、以前はもっと多くの食べ物屋が揃ったレストラン街だったが、今は100円ショップがスペースをとっている。サイゼリアを除けば、フロア全体になんとなくシニア向けの空気が漂う。
当の中華料理店は一番奥にあって、実を言えば入るのはこの閉店の日が初めてだった。
いつもはひと通路手前のお蕎麦屋さんに入ってしまうことが多い。

TVカメラを肩にしたクルーが見えたので、何事だろうと近寄った。
ちょうど出てきた中年の夫婦にディレクターらしき大柄な男が声をかけるのが聞こえた。

「今日は何をお食べになりましたか?」
といきなり尋ねる。
「いつもそれですか?」
「いえ。今日、初めてで…」
ご主人の方が答えるが、奥様の方は、なにをそんなぺラペラと、と非難する目で恨めし気に見上げていた。

「今日の閉店を、どこでご存知に?」
「え? そうなんですか。今日で閉店?」
「え? …ええ。そうなんです。」
今日で閉店なんだって、とご主人が、聞こえていたはずの妻に言う。
「はい。あとを継ぐ方がいらっしゃらなくて、今日でお店をたたまれるのです。」

そんな理由までいちいち言うかな、と思っていると、さっきからショーケースのサンプルを吟味していた娘が、この海鮮おこげに魅かれる、と言い出した。
そうして初めて入ったものの、おこげは品切れ。
そうなると俄然、娘は悩みだし、確かに注文するのは遅くなってしまった。

しかし、甘辛ナス炒めも、悩みの末の海鮮かた焼きそばも、一向に来なかったのは、それが理由であるはずもない。

すっかり大人になった娘とふたりで外食する機会はめったにあることではなかった。
一昨年、社会人となった娘は、今年、遅れて社会人となる彼氏と同棲を始めたいと言い、近頃、着々と準備を進めている。
彼氏の新生活が落ち着いてからでいいではないか、と意見を言ったが、どうやら聞く耳はないらしい。
自分は、新人時代、仕事を覚えるので精いっぱいだった。
この空いた時間に、また意見を言いたかったが、スマホを見ている娘の額のあたりをみていたら、何故か言えなくなってしまった。

このあたりは、昔、松竹の撮影所があった敷地である。
ネットによれば、町工場の多い蒲田では騒音がトーキーの撮影に差し障るという理由からここへ移されてきたらしい。
1936年(昭和11年)、戦前の話である。

自分が知るのは、そこから半世紀過ぎた、撮影所の敷地に「シネマワールド」がオープンした頃からだ。
今ではとんと実家に姿をみせないが、当時はまだくっついて離れなかった息子を連れてでかけたこともある。
開業直後の混雑を避けて、そろそろ行ってみよう、と出かけたときは、半年は過ぎていたと思う。
もう、だいぶ来場者は減っていた。
トムとジェリーの着ぐるみが、息子と盛んにじゃれて遊んでくれたのはサービス半分、暇つぶし半分だったろう。
映画産業は、テレビに押された衰退産業のイメージが強かった。
まだ、コンテンツがもつ無限の価値に、社会は気づいていなかった。

「男はつらいよ」シリーズはここで撮影された。
主演の渥美清が通ったことで知られる中華料理店は別の場所の、少し離れた交差点脇にある。
だが、こちらのお店も、閉店でTVが来るくらいだから、特別な来歴があるのかもしれない。
料理を待つ間、入口にあった「大船グルメ」という名前の擦り切れた雑誌を手に取ってめくってみた。
当店のトピックスが特別に取り上げられているかもしれない、と思ったが、他店同様のメニュー紹介レベルだった。
しかし、これだけ近いのだから、ひょっとするとふたりの店主は、客を取り合うよきライバルだったのかもしれない。
地域振興組合等の宴席で意気投合することもあったかもしれない。

もともと松竹が、ここに撮影所を移した頃には、大船をハリウッドのような映画都市にする構想もあって、宅地開発すら併行していたらしい。

この敷地が、若々しくがむしゃらな活力に溢れていた時期を想像したかった。

後継者不在とTVカメラの男は言っていた。
先ほどから、注文を取ったり、料理を運んだりしているのは、ここ数日ばかり駆り出された親族のようだ。

「ここのヨーカドーも閉店しちゃうのかしらね?」
とスマホから目を上げて、娘が言った。

ヨーカドーは不採算店を閉鎖する発表をしている。7&ⅰホールディングスは、もともと買収して得た百貨店事業も、業績不振で、労働組合側とコンフリクトを起こしつつ、旗艦の西武池袋店を手放した。スーパー事業も祖業の服飾部門を縮小し、食品をコアに集中する方針らしい。

営業部門で仕事していた時、米国西海岸の流通視察ツアーに行かせてもらったことがある。
小売業はローコストで収益をだせる技術を磨き上げたところが最終的には勝つ、日本もやがてカテゴリーキラーの時代になる、とツアーを先導したアナリストが言っていた。
凡そ、その通りになった。
ヨーカドー大船店の二階は、ビジネススーツは洋服の青山、靴はABCマートがフロアを占めている。1Fにあった化粧品売り場はいつのまにかドラッグストアのココカラファインになった。
ツアーの主催はダイエーの子会社で、ダイエーの取引先企業が恒例で参加する習いだった。そのダイエーは今やイオンの傘下である。

栄枯盛衰、と言ってしまえばそれまでのことを、長々と書いてしまっている。

閉店のご祝儀という言葉はないと思うが、尋常でない待ち時間を黙って待つのは、もう、店主へのご祝儀と思う他なかった。
隣のテーブルの家族連れは、しびれをきらしている父親を家族がちらちら気にしていた。

奥の隅に案内された3人の女性と男性ひとりの4人連れに目が行ってしまった。
もしかして、映画関係者だろうか?
一番奥の隅に腰かけた淡いサングラスをした女性はモノクロブロマイドの女優のような雰囲気だ。男は手入れの行き届いた白髭のあごを引いて、じっと腕をくむ。あとのふたりの女性はなにやら控えめに言葉を交わしている様子。

「もし、閉店を知って、懐かしく足を運ぶのだとしたら。あたしだったら、昨日か、もっと前に来るなあ。」

娘の言葉に視線を戻す。
父親の視線を追って、ああ、4人がこの店の昔なじみの映画人だったらと空想したいのだろう、と推測したらしい。

「だって、最終日は大変でしょ? きっと忙しいし、お話もできない。」

娘の推理によれば、カメラクルーはTVマンではない。
親族がお金を出し合って頼んだ業者なのだ。披露宴ならよくある話である。家族は父の記念を記録に残してあげたいのだ。
本日にて閉店の看板をみて興味を惹かれたお客が多いのは事実にしても、満席なのは、根本的には、料理を作るのが遅いから。

現金のみ、の告知があるレジで会計を済ませた。奥の厨房で老店主の一心に鍋を振る様子が見えていた。

開業時の彼は、今日をどう想像していたろうか?

「シネマワールド」は短命で失敗に終わり、敷地は現在、大学キャンバスになっている。
ある敷地を、新しいエネルギーが入れ替わり立ち代わり過ぎて行く物語である。

―了―

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