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俳句夜話(5)川柳を知って、俳句を詠む その三

真打登場。現代川柳界を背負って立つ大西泰世。

火柱の中に私の駅がある

逢いたくて生まれる前の石を積む

約束の数だけ吊るす蛍籠

声だすとほどけてしまう紐がある

号泣の男を曳いて此岸まで

つぎの世へ転がしてゆく青林檎

わが死後の植物図鑑きっと雨

少年をよごす月光青畳

夕焼けを飲み干すたびに手紙来る

月の夜へけものを放ち深く眠る

前の二人と比べるとだいぶ難しい。ちょっと立ち止まって考えないといけない。火柱ってこの場合なんだ?駅は何のメタファーか。生まれる前の石って何?。約束と蛍籠の数に相関があるのか。未来と青林檎って関係あるのか。などと。
わかりそうなのもある。黙っている限り結ばれている、なんてはわかりやすいし、少年も夕焼けも月の夜もイメージできる。少年の句は女性はわかりにくいかもしれないが。
わかるというのは、詩にとっては大事なことではないという、むずかしい現代詩系の詩人の方々はたいへん多くいらっしゃるが(現代俳人にも少なからずいる)、わたしはわからないよりわかったほうがいいだろうという立場に立ちたい。少なくとも、わかりたいなと思ってもらえるほうがいいと思うのだ。

マーケティングのようだが、4象限がある。
わかる・好き
わかる・(でも)嫌い、つまんない
わからない・(でも)好き
わからない・(から)嫌い
この中で、2番目のものの評し方は俳句にはちゃんとあって、一物仕立ての場合は「ただごと俳句」、取り合わせの場合は「近い」と評することになっている。
風刺の川柳には、後の二つはあまりなかったにちがいなく、わかっておもしろいか、わかってつまんないかのどちらかだろうと思うのだが、現代川柳はむしろ徹底的にわかりづらい系だ。

三夜にわたって、3人の気鋭の川柳作家(柳人と名乗る人は少ない)を見てきたが、彼女たちのあり方を俳句との対比で言うと、赤裸々の一言で穿てると思う。写真家にたとえるとアラーキーみたいな、着衣なのにヌードな独白。
俳句はその点、篠山だったり加納典明だったりする。あるいは土門拳だったりする。セットも証明も助手もいるし、最高峰のカメラと技術とを擁して臨む。まちがっても使い捨てカメラ(もう売ってない?)でピントも手ブレも気にしないで撮る、なんてことはしない。

現代川柳は、こんな感じ。読む人がそれぞれに思いを馳せてくれればいい。
そう、せっかく私が脱いだんだから。
なんか語弊がありそうだけど、女性の方が裸に強いと、私の女性の友達は口を揃えていうので、きっとそうなのだろうとしておく。

男性の川柳作家を見ていく予定はないのだが、脱ごうとする感じは同じ。もしこの作風ばかりの同人で集まって川柳会をやるなら、みんながみんな素っ裸過ぎて閉口するんじゃないだろうか。頼む、なんか羽織ってくれ、なんてことになりそうだ。
実際、川柳は句会ではなくて同人誌への投稿という形をとるケースが多いようだが、頷ける話である。
(結社の中で恋愛したければ、俳句より現代川柳の方がいいような気もする。当てずっぽうだが:笑)

大西泰世に話を戻すと、彼女は植物が好きで、俳句に分類すればいいのにと思わせるものがとても多い。

ひまわりの一群がくる夜の河

仮りの世のなぞなぞをとく寒椿

現身へほろりと溶ける沈丁花

黙契や鬼百合の脈ゆっくり打つ

などで、最後の句は切れ字まである。最初に紹介した10句よりおとなしめだが、そのぶん風情があって、私は好きだ。どうしても俳句として読んでしまうのだが。

実は私が20代の頃に所属していた俳句結社の一つは名前を『む』といって、幻想俳句を標榜し、大西の作風にとても近かった。
次回から何回かに分けて紹介していくので、おもしろがったり、描けてない!と言ってくれたりしたら、うれしい限り。



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