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【小説】Thorn

 バラの刺が、皮膚を刺した。

 鋭い痛みともに、指先に丸く血が浮かんだ。蛍光灯に照らされたそれは、赤い真珠のようにも見える。指を擦り合わせると、真珠が潰れて指紋の溝に入り込んだ。

 ジンジャーエールの瓶に差していたバラが少ししおれていたので、根切りをしてやろうと摘み上げたら、小さな刺を見落としていたらしく、無意識にこもった力で掴んだ刺が俺の指先を裂いた。

 こんなことすら思うようにいかない、などと、少し前なら思っただろう。

 しかし、俺はもう、指先から出血する程度の怪我をすることなど、どうでもよかった。むしろ、痛みを感じて、反射的に指を離すくらいの人間味が残っていたことに、自嘲的な笑いがこみ上げた。

 ここに至っても、痛いのは嫌なんだな。

 消毒液と絆創膏はどこかにあったはずだが、探すのが億劫だ。皮膚の浅い部分を切っただけなので、放っておいても血は止まるだろう。

 バラを差した瓶は、キッチンの脇の小窓の縁に置いてある。

 小さなマンションの角に位置するこの部屋は、隣人の話声は聞こえるし、夏は暑く、冬は寒いといった有様だが、風通しが良く、換気扇と窓が隣接していることだけは評価できる。お陰で、煙草をふかしても部屋に匂いが残ることはない。

 俺は花瓶にしているジンジャーエールの瓶をキッチン台によけて、窓際にもたれた。シャツの胸ポケットから煙草を出して、キッチンの引き出しにあるライターで火を付けると、俺の寿命を縮めてくれるらしい煙が立ち上った。

 換気扇を回し、窓を開けると、春の陽気が近づいている気配もないような寒気が吹き込んだ。冷たく乾燥した空気が、煙草には一番合う。
 
 ふと、一体、どうしてこんな夜を過ごしているのだろうと過った。

 幼い頃、あるいは少年時代、こんな大人になってしまうなんて、頭の端にでも想像していただろうか。「こんな大人」がどんな大人を指すかなんて、詳しく説明するまでもない。真夜中に、話し相手もなく、気まぐれに買った花の水切りすら満足にできずに血の滲んだ煙草のフィルターをくわえている人間が、「なってしまった」と思うような大人だ。

 こういうとき、頭の中でいつも響くメロディがある。多分、どこかで聴いた曲なのだろう。G、B、Ⅽ、Ⅽマイナーのコードが這うように重々しく進行し、それでいて、澄んだ川のように静謐な、音数の少ないバンド楽曲だ。

 陰鬱な歌詞ほど、旋律にしたときに美しく響くと思う。

 俺はきっと、どうしようもなく憂鬱なのだろう。

 なりたいものも、行きたい場所もない。会いたい人はいるような気がするが、きっとそれは叶わない。語るべき物語もないし、許せないものも最近ではめっきり減ってしまった。

 息をして排泄して、たまに大気と身体を害する煙を吹き出す装置に等しい。
  
 これが世に言う「日々」や「人生」というものなら、いつ終わっても構わない。俺には、もう分からないことだらけなのだ。

 息苦しさなのか、居心地の悪さなのか判然としない、俺を苛むこれは、この地上のどこに居ても俺の背中にぴったりと寄り添って離れてくれないような気がする。

 一体、何故、こうなってしまったんだ?

 自問してみても、答えはいつも同じだ。俺が俺である限り、きっとどこで何をしていても、こんな夜を過ごすことになるのだろう。

 何かを失ったのかもしれないし、何かを見つけられなかったのかもしれない。あるいは、失くしてもいないものを探しているのかもしれない。どこかで失ったと思っていたが、初めから何も持っていなかっただけなのではないか。

 とにかく俺は、とても生き辛い。

 じわりと、熱い涙が目頭に滲み鼻の横をつたって、口にくわえたフィルターに染みていった。指先の血はもう固まっていて、痺れるような淡い痛みが残っている。

 傷付いて、浅く治って、少しずつ、消えない跡が増えていく。

 記憶や感情なんてものは、どれもこれも手放してしまいたいのに、条件反射で身体の内に蘇る痛みは、いつだって鮮やかだ。

 ただ、耐えがたいほどに悲しくなるこの痛みは、それでいて今更に手放すのが怖い。自分に帰属していると確信できる、唯一のものだからだ。

 遠くに、サイレンの音が響いている。誰かが傷付いて、誰かが救おうとしている。  

 やがてそれは、換気扇の唸りと、目の端を切り裂くような乾いた風に紛れて、聞こえなくなった。

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