1700字シアター(7)スピッツの歌

(2021/03/07 ステキブンゲイ掲載)
 日曜の朝、花見ドライブに行こうと言い出したのは妻だった。
 四月に入ってすぐの土曜日の夜だった。通常の家庭なら何ら不思議はない言葉だが、今の我が家でそれを言い出すのは妻しかいない。
 我が家は父である俺を筆頭に病んでいたのだ。
 娘は受験のストレスで過呼吸を起こしたりしていて、先日メンタル医から双極性障害かもと言われていたし、父親の俺自身が、うつで勤務先を休職中だった。
 同居している母は、
「孫はいったい誰に似たんだろうねえ」と無神経な台詞を口にしてはため息をついていたが、そのたびに俺は、
「俺に似たんだよ。あんたの息子の俺にね。その俺はいったい誰に似たんだろうね」と嫌みを返していた。
 そんなぎすぎすした家の空気にうんざりして息子の方は部屋から出なくなっていた。
 そんな空気を払おうと積極的に行動に移すことができるのは、もう妻しかいなかった。
 唯一健康な妻は、いい意味で鈍感だったのだ。その健康な鈍感さが俺には実にありがたいのだ。

 翌日の朝、母を早々にデイサービスに送り出した後、俺は妻と娘を連れて車を出した。
 今日は母がいないので、リアシートに座った娘もリラックスしている。
「最近、薬が効いてるみたい」とうれしそうだ。
 俺は生前の父から、戦死した一番上の叔父の話を聞いていた。父にとっては年の離れた長兄で、漱石の「坊っちゃん」の主人公のような快男児。幼い頃の父のヒーローであったようだ。
 だが、今想うと、その一種エキセントリックな快男児のエピソードが、まさに双極性障害っぽく感じられて、娘の病気は父方の俺の遺伝かもしれないと思えてしかたがないのだ。

 十五分ほど、県道を北上して木曽川の川沿いの堤防道路に出た。
 道路の左右の桜並木は満開で、まだ朝早いために人出もなく、かつて通勤で見ていた道路がまるで別世界のようだった。
「あ、あれ」と娘が指さした。
 見ると道路を川側に下ったところに、モーニングとウエディングドレスの若いカップルがいる。
 満開の桜の木の下にドレスの娘が立ち、花婿がそれを撮影すべく三脚に据えたカメラの位置決めをしていた。
 少し離れたところに、鮮やかな黄色の小さな軽自動車が留めてある。
 俺は少し離れた路肩に車を留めて二人を見た。
 友人たちの姿もなく。二人にとっての「結婚式」は、この慎ましやかな記念撮影だけなのだろうかと思った。
 決して派手でも豪華でもないが、それだけに二人の幸せは俺の心に響いてくる。黄色い軽自動車すら、彼らの幸せの象徴のようだ。
 妻は「これから式に行くのかねえ」と言った。
 ああ、普通はそう思うのかと少し興ざめした。
 後ろの席が静かだなと思ったら、娘が泣いていた。
「どうしたの?具合悪くなった?」という妻に、
「あの二人見てたら涙が出てきたの、幸せにねって思ったらもう泣けて泣けて」
 ああ、俺は娘の繊細な感受性に驚くと同時に共感した。
「どんな豪華な式より、この朝の記念写真こそ、あの二人の宝物だと思うな」というと、
「そうだよ、父さん、まるでスピッツの歌に出てきそうだね」と言った。
 娘は生まれたときから俺と一緒にスピッツを聞いて育ったのだ。それを聞いて俺もちょっぴり涙がにじんだ。
「変なの」と妻は笑った。
 娘の感受性は、俺譲りなんだ。そう思うと、なんだか胸を張りたくなった。
 俺は病気体質や心の屈折だけじゃない、もっと素晴らしいものも娘に渡してるんだろうなと思えたのだ。
「さ、行こうか」
 車を出して桜の中を走り出した。ルームミラーの中で、並んで桜の下に立つ二人の姿が遠ざかる。
 心の中で二人にかける言葉が、「おめでとう」ではなく「ありがとう」だったことは俺だけの秘密だ。


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