短編小説「毛布の下」作・栗林元

 またあの夢を見た。
 懐かしさと、不安と、恐れと、そして奇妙な悲しみに彩られたあの夢を…。
 目をあけてそこがいつもの寝室であることを確認すると、私は大きく安堵の息を吐いた。窓の外からは雨の音が小さく聞こえている。タイマーでエアコンが切られてから数時間は経っている。室内はむっとする湿気に満たされていた。まだ梅雨が明けるには半月以上かかるだろう。
 寝返りを打つと、じっとりと汗をかいた背中にパジャマが張り付いている。湿度のせいもさることながら不気味な夢の内容のせいもあるだろう。
 子供の頃にまつわる「毛布」の夢だ。転校した年の夏、友達と探検した幽霊屋敷で見た「毛布」だった。結局、勇気がなくて、その下を見ることの出来なかった、あの「毛布」である。
 ずいぶん以前に腐り始めた後、いくつもの夏と冬を経て、雨か露かの染みと黴の色で、何とも形容のできない厭な色に染まっていたあの毛布。小さな虫にたかられながら、何かを覆い隠すように床にひろがったあの毛布。
 毛布の下の膨らみは、みんなが想像したような「子供の死体」だったのだろうか。
 とうとうそれを確認することなく引っ越してしまったあの夏休み。あの引っ越しと転校という経験が、私の少年時代の記憶にはっきりと区切りの線を引いている。引っ越しの後、ずっと住んでいる今の町は、私の記憶の中で当時からはっきりと連続して続いている。
 私の成長と歩調を合わせて、今の町は少しずつ家が増え、人口が増え、単線の電車は複線になり…、つまり、この二十年近い時の流れを見てきた記憶がある。それに比べて、引っ越し前の「あの町」は、二度と訪れることもなく時が過ぎ、わずか二十キロほどしか離れていないのに、私の記憶の中では「あの夏」で停まったままなのだ。
 思春期直前の、夢か現実かも定かでない「あの夏」。ここ何ヶ月かの間、頻繁に見ていたのは、その「夏の夢」だった。
「ずいぶんうなされてたわよ」
 妻が隣の布団で寝返りを打ちながら言った。
「すまん、起こしてしまったか」
 いいのよ、ちょうど起きる時間だから、と妻は身を起こした。時計は五時半を指していた。
 夢を見た原因は分かっている。今日はどうしても「あそこ」に行くつもりだったからだ。

 ☆

 あの夏、僕たちがあの空き地へ行ったのは、小学二年生の夏以来だったから、ちょうど四年ぶりだろう。というのも、体育館ほどもある広さの空き地が整備もされずに放置されているのは防犯上よろしくない、という大人たちによって、屋敷を含むブロック全体がトタン板と鉄条網で徹底的に囲われてしまったからだ。
 空き地は、みんなの家で要らなくなった家具や冷蔵庫や工事で余った板っ切れや、もらい手のいない犬猫まで、ありとあらゆる物が捨てられて、朽ち果てて、そこに雑草や雑木が繁殖して、まるで図書館の本で見たアンコールワットやインカの遺跡を思わせるような場所だった。
 空想科学小説が大好きで、少年マガジンの特集をスクラップしていた伸介は、きっと人類が滅んだ後の地球はこんな光景なのかもしれない、と言ったほどだ。
 その上、時々、野良犬や浮浪者の変なおじさんも入り込んだらしく、確かに防犯上よろしくはないだろう。
 ただ囲われてしまうだけでなく、市バス路線のある大通りに面した側は、黒川日劇(僕たちの町の唯一の映画館だ)の大きな看板で覆われてしまい、その囲いの中に空き地があることさえ、外からは伺い知ることができなくなってしまった。その間に、道路はアスファルトで舗装され、市バスの鼻面はまっ平らになり、市電は無くなってしまったし、栄町には地下街が出来たし、休みの度にマンガまつりをやってくれた志賀東映はパチンコ屋に変わってしまった。
 人々はその空地を忘れていき、それは、その中に居心地のいい砦を築いていた子供たちですら時々忘れてしまうほどだった。だって黒川日劇(そし
て僕たちの町の”最後”の映画館になった)の看板はものすごく大きくて、そこに「ゴジラ・モスラ・ラドン地上最大の決戦」とか、「ヤコペッティの世界残酷物語」なんて描かれれば、その看板の裏のことなど忘れてしまうじゃないか。
 でも、四年前の夏に隔離されてしまったその土地の中には、僕たちが知っているだけでも四つのグループの「陣地」や「砦」や「基地」など(呼び名は色々だ)が取り残されているはずだった。それと、あの幽霊屋敷だ。そして、その事実を忘れずに、空き地を見守り続けた子供たちもいた。その一人が伸介だった。

「だからさ、あそこにはそいつらの宝物がまだ手つかずで残っているに違いないんだ」
 バケツを床に置きながら、伸介がそう言った。眼鏡の奥でその目がキラリと光ったように思えた。マンガにはそんな表現が多かったから、人が何か企んでいるような時には、僕たちはいつもそう感じてしまうのだ。時には「キラッ」とか「キラリッ」とか「キラーン!」などと自分で効果音を入れたりもした。
 伸介の声は、教室の前半分を箒で掃いている女子たちには聞かれないよう小さなものだった。しかし、後ろ半分に集めた机を雑巾で拭いている稔や僕の心を揺さぶるほどの強さはあった。
 放課後の掃除の時間だった。てきぱき動く女の子たちを後目に、僕たち男どもは、机を動かしたり戻したりといったおおざっぱな作業を受け持って、ぐうたらとやっていたわけだ。明日は終業式、長い夏休みの開始を翌日に控えて、おとなしく掃除に熱中するようなやつは男の子ではないのだ。
「何これ、びしょびしょじゃない」という声がした。女子どもだ。
「君たち、雑巾はもっと固く絞らなきゃだめなんだよ」といいながら班長・妙子がやってきた。その後ろには、クラスをリードする「まじめ女子軍団」の面々。悔しいけど妙子は僕より背が高い。それにオッパイも大きくて噂によればもうブラジャーもしているそうだ。つまり僕たちより一足先に大人になっていて、その妙子をリーダーにして女子たちは男子を少し舐めてるわけだ。
 それに最近は先生達でさえ、男子には「適当に野球でもしていなさい」と言って校庭に追い出した後、女子だけで幻灯を見たり映画を見たりして特別扱いも多かった。
 あんまりさぼっていると先生に言いつけるから、という妙子に、稔が「わかってるよ。おまえこそ、あんまり言いつけばかりしてると、胸揉むぞお」と反撃した。
「きゃー」と叫びながら、でもちょっぴりうれしそうに逃げていく妙子たち。
何かにつけ男子を圧倒している女子に対して、体力面で互角に戦える数少ない男子が稔だ。僕たちと違いもう長ズボン(僕も早く長ズボンがはきたいよ)を履いているし、本人によれば、「もう金玉に毛だって生えてる」という。もっとも「まだ三本だけどな」と付け加えるのが常だったけど。
 そんな稔の最近の関心事はもっぱら妙子のオッパイで、引っ越しちゃう前に一度拝んでみたい、と言っていた。稔も僕も夏休みの間に引っ越すことになっていたのだ。妙子のオッパイなら、僕だって当然拝んでみたいところだが、あろうことか稔はこっそり妙子に「絶対さわらないから見せて、お願い」などと頼んでいるらしかった。幼なじみだからこそ頼めるのかもしれない。
 その稔は女どもに向かい「へっ」と言った後、「いつか本当に触ったろ」とつぶやきながら戻ってきた。
 伸介は何気ない口調で、「この間の台風でね、ついに囲いに穴があいたんだ」と言った。
「えっ」と稔が動きを止めて伸介を見た。本当か、と顔が尋ねている。
 伸介はぴくりと鼻の穴をふくらませ、「実はちょっとだけ中に入った」と言った。
「うーん」と稔が小さく唸った。
伸介の一言で、掃除の間中、僕達は猛烈に囲いの中が気になった。当の伸介にいたっては、その穴を発見してからずっとそうなんだ、と言った。あそこが囲われてしまったとき、まだ二年生だった僕たちは、実はほとんどあの中で遊んだ覚えがない。だからよけいに憧れがあった。何しろあのころの僕たちは、上級生が統率する通学団のグループ内で、ようやく砦へ行く資格を得たばかりのひよっこだったからだ。
 空き地が隔離された日の夕方。学校からまっすぐに空き地に向かった上級生たちは、工事のおじさんたちに「さあ、帰った帰った」と追い返されながら、二度と入ることの出来なくなった聖域を前に、未練たらしく立ちつくしていたものだ。その薄汚れたランニングシャツの背中が夕日でオレンジ色に染まっているのを、今でも思い出すことができる。
 さて放課後、僕たちは団地のゴミ置き場に集まった。志賀住宅の通学団を中心とする僕たちの現在のお気に入りの場所が、このゴミ置き場だったのだ。
 ちょうど四畳半ほどの広さで、道路以外の三方をブロックの壁で囲まれていた。可燃物・不燃物のコンテナが並んで置いてあり、中央にはやはりブロックで作られた焼却炉があった。
 コンテナからは、いつもお酒やジュースの甘ったるい匂いがして、洋酒や化粧品のきれいな空き瓶を発見することもできたし、「土曜漫画」とか「平凡パンチ」といった大人向けのマンガ雑誌を見つけることもできた。運がよければ壊れたおもちゃも見つかった。ついでになじみの猫もいた。
 大人からは、ここでは遊ぶなと言われていたけど、危険で不衛生な場所ほど僕たちにとってはおもしろい場所だった。だいたい「よい子はここで遊ばない」と看板が立っていたが、僕たちは当然よいこじゃなかったし、よいこなんて馬鹿にされるだけで、大半の子供は自分をよいこだとは思っちゃいなかったのだ。
 そこで僕たちも大人の目を盗んでは、よくここへ来た。何しろ周りからはどんどん田圃や畑が無くなっていくし、八幡神社も稚児宮も境内の雑木林はいつの間にかアパートや駐車場になってしまっているし、公園のグラウンドはリトルリーグの連中に独占されているし、とにかく遊ぶ場所はこんなところだけになっていってしまうのだ。社会の時間に先生は、日本は工業力でどんどん世界に追いつかなければなりません、君たちの住む名古屋市北区もこれからは住宅地として今後どんどん発展していきます、と言っていたが、それは工場やアパートが増えるということだった。
 お昼や夕方になると、学校のチャイムとは別に、工場のサイレン
が鳴ったし、そのウワーンという音が消えると、今度はすごい数の人たちがバス停に向かって歩いていくのが見えた。みんな灰色の服を着て、手には風呂敷で包んだ弁当箱を持っていた。
 僕たちはお互いに黙りこくったまま思い思いのことをしていた。伸介は片隅に積み上げてあった雑誌の束から「ボーイズライフ」を引っぱり出した。
 僕は「猫」、「猫」と呼びながら三毛猫をじゃらしていた。面倒なので「猫」という名前なのだ。
 稔は黙りこくったままブロックの壁にもたれて寝そべり、平凡パンチから破り取られたエッチな写真を眺めていた。たぶん妙子のオッパイでも想像していたのだろう。が、いきなりむくりと起きあがると、「きっとあるだろなあ、宝」と言った。
 そのとたん、僕たちはその言葉を待っていたと気づいた。伸介は「ズベ公探偵ラン」のエッチなマンガから顔を上げ、僕も「猫」をあやす手を止め、ついでに「猫」もその気分を察したのか、顔を上げて、にゃあ、と鳴いた。
 実は、と身を乗り出した伸介が「あの中には二組の高橋の兄ちゃんが隠したショーヤがあるって話だ」と言った。
 ショーヤとは角形のメンコのことで、地面に置いた互いのカードを自分のカードを地面にたたき付けた風圧でひっくり返す勝負だった。ひっくり返した相手のカードは手に入れることができる。カードの表のカラー面は金田とか長島といった野球選手や横綱大鵬といった運動選手の写真か、マグマ大使とかエイトマン、ウルトラQの怪獣などで、裏面にはグー・チョキ・パーなどの絵が描いてあった。取ったり取られたりというギャンブルのような要素があり、当然、学校からは禁止された遊びだった。
 高橋の兄ちゃんはそのショーヤの名人で、かつて現役の頃には「たつまき打ち」という秘技で隣の城北学区にまでその名は鳴り響いていた。おびただしい数のショーヤを獲得し、森永ビスケットの缶にぎっしり詰めたその枚数は、百枚とも五百枚とも言われた伝説の子だった。
「今、中二になった弘さんもな、かっちん玉を隠してたんだって」と稔。僕たち名古屋の子供たちはビー玉をかっちん玉と呼んでいた。
 鳩岡小の奴らのギン玉鉄砲もまだあの中だって話だった。
 僕ら団地の子の家は、地場の家の子より比較的厳しくて、駄菓子屋で買い食いをするとか、おもちゃを買うということが許されなかった。サラリーマン家庭の子が多かったから、「はやりのしつけをすぐ実践」してしまうんだろうというのが伸介の分析だ。だから、ギン玉鉄砲で撃ち合いをするなんていうのは強烈な憧れだった。
 さっそく僕たちは空き地に行くことにしたのだ。

 ☆

 また来てしまった。もう来る必要はなかったのに、やはりここを訪れずにはいられなかったのだ。
 初めてクライアントと一緒にやってきた時には、ほとんど気づかなかったあの場所との「相似」は、訪れる度に強くなっていた。
 共通点は町中に取り残された遊休地ということ、同じように建物の廃墟があるというだけなのだが、不思議なことに来る度にその印象があの夏の空き地と重なるようになっていったのだ。
 あの時と同じように、この空き地も半月ほど後には造成が始まり、跡形も無くなってしまうはずだ。後には映画館を含む複合商業施設が完成する。私の勤務先は、めでたくその広告扱い全部を受注していたのだ。
 設置する屋外看板の仕様も決定し、当面は設置後の確認だけでよかったにも関わらず、自分の中で「夕暮れ時の日当たり具合はどうだったか」などと、どうでもいい理由をつけては来てしまうのは、ここが「無くなってしまう運命」だからだろう。その前にどうしても確かめておきたいことがあったのだ。
 敷地は身長より高いトタン板で囲われていた。唯一の入り口はがっちりとした鉄の門だ。太い鎖が巻き付けられ、無骨な南京錠がその鎖を止めている。門の奥には雑木林が広がっていた。
 もともとは友愛会という病院とそれに隣接する遊休地だったのだが、ここ五年ほどは買い手もつかぬまま放置されていた。のび放題の雑草と病院の庭から広がり増えた庭木で、トタン囲いの中は密林のようになっていて、梅雨特有の曇天のもと、空き地の中の木陰は日暮れのように暗く沈んでいた。ただ雨上がりのせいで、木々の緑はいつも以上に鮮やかに目に映えた。
 乗ってきた営業車を、じゃまにならないよう囲いのトタン板ぎりぎりに駐車した。もっとも昼の二時という時間では、この空き地の裏通りを通る車などほとんどなかった。
 管財人から借りた鍵で南京錠をあけて中に入った。木々の間を抜けてくる風が、ひやりと頬をなぜた。

 ☆

「ここだよ」と伸介が言った。
 黒川日劇の映画看板の正面だった。映画は「天地創造」だ。見上げるほどの大看板に、オレンジ色でノアの箱船が描かれている。杖を持った髭の親父が見守る中、キリンや象などの動物たちが延々と列をつくって船に乗り込んでいた。裸の男女の後ろ姿も描かれている。「天地創造」という文字が、岩のような意匠で遠近法を強調して配置してあった。
 ちょうどその大看板の真下、鳩岡歯科の看板や文具のシロヤといった小看板がモザイクのように集まっているところに、子供が入れるほどの隙間が出来ていた。その小看板のうちの一枚が外れていたのだ。看板の裏には鉄条網が張ってあるが、二本の角材を咬ませて、ちょうど子供がすり抜けられる程の隙間が出来ていた。伸介が昨日工作したものだった。
 車が何台か通りかかり停車する。横断歩道で待っている子供とおばさん達を渡らせてあげるためだ。この看板はバス路線に面した交差点になっているため通行人が多く、車もよく通るのだ。
「入るところを見られるとまずいんだよな」と稔。
「よくわかってるじゃん」と伸介。
 稔がまず見張りに立ち、人通りの絶えたところで隙間に潜り込む伸介を体で隠した。
 中に入った伸介が看板の隙間から周囲を伺い、「よしっ」と合図して僕たちが潜り込んだ。
 このあたりの呼吸は、映画「大脱走」の名シーンを参考にしたわけである。
 空き地の中は、僕たちの身長ほどにも延びた雑草がびっしりと茂っていた。なぎ倒された雑草は、たった今、伸介が歩いた跡だ。
 しばらく藪を漕いでいくと、じきに細い道に出た。道と言っても、以前子供たちが踏み固めた獣道のようなものだ。周囲に比べて雑草の勢いが弱く、かろうじて道といえる程度のものだ。
 地面に半分埋まり泥をかぶったヤクルトの瓶が一本落ちていた。ヤクルトの容器が工作にも使えるプラスチックのものに変わったのは昨年のことだから、この瓶は一年以上も前にここに残されたことになる。
 雑草を踏み倒して道を作りながら「すげえ、まるでジャングルだ」と稔が言った。
「蛇に注意しろよ」と伸介。
「マムシぐらいいそうだね」と言ってはみたが、僕たちはまだ本物の蛇を見たことがなかった。名古屋市北区の住宅街では、本物の蛇などそう見られるものではない。戦争の前は神社の境内などに生きていたらしいが、そもそも僕たちが生まれた時が、もう終戦後十年以上経っていたからだ。戦争も空襲も少年マガジンの口絵や「ゼロ戦レッド」といったマンガとか、ドラマの「コンバット」ぐらいでしか実感できなかった。
 それでも、正月に熱田神宮に行くと、まだまだ傷痍軍人がたくさんいて、軍歌などを演奏していた。アコーデオンの音色は子供心にも悲しく感じられた。
 ぐるりと周囲を見回すと、雑草の頭越しに二階建ての白い木造住宅が見えた。
「あれが噂の幽霊屋敷だそうだ」
 伸介はそう言うと、半ズボンの尻ポケットから小さなノートを取り出し、「おっほん」と言ってもったいぶった後、それを開いた。
 のぞき込むと、それは手書きの地図で、この空き地の内部が濃い鉛筆で克明に記されていた。
「いっ、いつの間にこんなものを」と稔。
「去年あたりから気になっててさ、みんなから聞いては記録していたんだ。北図書館に行けば、地図もあるし」
「地図?」
「うん、”地域”ってところ」
「それ大人のコーナーだがや、さっすが社会科博士」
 僕らは図書館でも児童書コーナーにしか行かないから、そんなことは思いつきもしなかった。
「おまえはこういう面でもガリ勉君だなあ」と稔がうなった。
 伸介は照れくさそうに微笑むと、ノートの書き込みを見ながら、幽霊屋敷に行くまでの途中に、高橋の兄ちゃんたちの陣地があるはずだ、と言った。伸介はそんなところまでヒアリングしていたのである。
 僕たちは陣地の痕跡を探しながら進んだ。だんだんと幽霊屋敷が近づいてくる。
 幽霊屋敷は洋風の二階建てだった。腐りかけた木の壁から黄色く変色した白いペンキが浮き上がり、怪獣の皮膚を覆う鱗のようになっていた。窓ガラスは雨の度にこびりついた土埃で真っ白だ。
「ここは病院だったそうだよ」と伸介が言った。当然、ここも調べてあったのだろう。
「病院かあ、不気味やなあ…」と稔。
「おじいさんのお医者さんだったんだって」
 何でも、跡継ぎの若先生が従軍していた南の島で戦死してしまったため、六年ほど前に閉めてしまったのだという。今、先生は長野県の実家に帰ってしまい、以来ここはこんな空き家になっていたのだ。
「本当に幽霊でるんか」と稔が聞いた。
「子供の幽霊が出るって」
「子供?」
「昔さ、ここで近所の子供が何人も死んだんだって」
「病気?」
「違うよ、殺されたんだ」
 実は、と伸介は声を殺して話しだした。
「空き家になってから、ここに子供専門の殺人鬼が隠れていたんだって」
「殺人鬼?」
「男の子のおちんちんをちょん切って殺しちまうんだって」
 僕たちは、ぞっとして黙り込んだ。
 しばらくして、それは痛そうだ、と稔が顔をしかめた。「だいたい軟野のボールが金玉に当たっただけであんなに痛いんだし、ミミズにおしっこをかけて腫れ上がった時の痛みも半端じゃなかったからなあ」と言った後、「確かにそりゃ死ぬわ」と稔は納得した。
 でも、稔の言葉にも僕は笑えなかった。生殖器を「ちょん切る」ということに、本能的に性的な動機を感じて、何とも言えぬ重苦しい嫌悪感を感じていた。

 ☆

 かつては庭園であったらしいが、手入れもされぬまま生い茂った木々がそれぞれ枝を広げていき、陰気な雑木林になっていた。その中を細い車道が通っている。
 現在は道の真ん中にステンレス製の車止めポールが立っているため車は走れないが、かつては患者の送迎に来る車や救急車が走った道である。アスファルトはでこぼこと波打ち、そこここに割れ目が生じていた。その割れ目から生えた雑草が、膝の高さまで育っている。道の左右から延びた雑木の枝が曇り空を覆って、昼だというのに夕暮れ時のように薄暗かった。
 車道を歩いていくと、やがて灰色の建物が現れた。例の病院の廃墟である。

 ☆

「ここ、違うかな」と稔が声を上げた。
 地面に雑草の茂みがなくなり、ちょっとした広場になっていた。幽霊屋敷の門のすぐ内側だ。飛び石が置かれていてちょうど四畳半ぐらいの広さがある。その中央に、かつては丸く刈り込まれていたとおぼしき夾竹桃の木が枝を広げていた。薄桃色の花がいくつも咲いている。葉が茂っているのは日の当たる外側だけで、茂みの中は意外に広い空間があった。潜り込むと、枝で支えられた葉っぱのテントのようだ。
 木の根本にミカン箱が置いてあった。木が雨を防いでいたらしく、汚れてはいたが腐るほどではない。
「これだ!」と伸介が叫んだ。
 地面にかがみ込みながら箱の蓋を開けると、底の方に、少年サンデーの表紙が見えた。
 湿気で膨らんだ後に乾いたらしく、倍ぐらいの厚さになっている。サンデーの下からは、表面がうっすらと赤く錆びた森永ビスケットの缶が出てきた。それに色も形もばらばらなレゴブロックが数個と、何の模様も入っていない青いビー玉が三個出てきた。
「あっ、" サブマリン707" の第一話だよ、これ」と、マンガを手にした稔が懐かしそうに言った。今はもう、続編「青の六号」の連載が終了してさらに二年以上が経っていた。
 伸介はビスケットの缶を取り出すと手でその重さを確かめた後、左右に振って音を確かめた。ごとごとという音がする。
「あまり入っていないみたいだなあ」と言って、蓋を開けようとしたが、錆びているせいか少し固いようだ。
「貸してみな」と言って稔は伸介から缶を受け取ると、ズボンのポケットから小さなナイフを出し、蓋と缶の間に刃を入れた。
 ざらっ、という音がして、蓋が取れた。
 僕たちは中を覗いて、おおっ、と小さく歓声を上げた。本当は大きく叫びたかったのだが、大声をあげると外を通りかかった大人に聞こえるかもしれなかったからだ。そこには輪ゴムでとめられたショーヤの束が入っていたのだ。
 マンガのショーヤが中心だったが、その枚数は百枚近くあった。僕たちはきっちりと枚数を分けた。稔は「エイトマン」と「まぼろし探偵」を手に入れた。伸介は「ビッグX」と「Wスリー」を取った。僕たちは満足だった。
伸介は「これ」と言って、箱から青いビー玉を一つ取り出すと稔に差し出した。そして一つを自分が取った。
(そうか)と思って、僕もビー玉を手にした。
「僕たちこの夏でお別れだろ」と伸介が言った。夏休みの間に、僕も稔も引っ越すのだ。
「ありがとう」と稔は珍しくしんみりとした口調で言うと頭を下げた。
 そうやって僕たちは、箱に入っていたビー玉を一つずつ取ったんだ。それはただのビー玉ではなく、僕たちにはルビーやダイヤとかのように特別の、何というかちょっと照れくさいけど、友情の証だったと思う。
 それから僕たちは空き地の中を探検した。他の宝はまだ発見できなかったけど、すごく楽しかった。だいぶ日が傾いたころ、学校から五時のチャイムが聞こえてきた。
「そろそろ帰らんとあかんな」と稔が言った。稔の家もけっこう厳しいのだ。
 僕たちは、明日以降の探検について話しながら家に向かった。やはり、幽霊屋敷の探検は避けて通れなかったし、避けて通るつもりもなかった。なぜなら、空き地の外には工事告知の看板が掲げられていたのだ。
 その「鳩岡マンション建設工事のお知らせ」と題された看板には、十二階立てのマンションが描かれていた。僕たちの団地でもっとも背が高いアパートでも五階建てだから、十二階という高さには仰天した。そして工事の
開始日は夏休みの後半に入ってすぐだった。つまり今探検しておかなければこの幽霊屋敷は跡形もなく取り壊されてしまうのだ。

 ☆

 ここにもあの時と同様の病院の廃墟があった。ただ、あの空き地の病院が、小さな開業医でベッド数も二部屋で四台だったのに比べ、ここはベッド数二十の中病院であることが違っていた。鉄筋二階建ての建物は増築に増築を重ねて、コンクリートの色もちぐはぐな見ようによってはグロテスクなものだ。よく調べれば違法な点もかなり発見できるだろう。
 屋根には友愛会病院という赤いネオン看板が数カ所割れて傾いたまま残っていた。管財人からは乱脈経営で潰れたと聞いていた。
 エントランスの自動ドアは閉まっていたが、一枚残らずガラスが割られているので、中へ入るのは容易だった。床を踏む度に、風で吹き込まれた枯れ葉と散乱したガラスの破片が騒々しい音を立てる。
 いつもはクライアントと一緒に来ていたから、この廃墟に入るのは今日が初めてだった。今日はこの病院の中を見るためにやってきたといっても間違いではない。
 夢の答えがみつかるかもしれない。きっとどこかの病室に、あの時と同じ毛布が、夢と同じ毛布があるという気がした。
 年甲斐もなく胸がどきどきとした。あの時と同じだ。



 夏休みに入ると僕たちは毎日一緒に遊んだ。伸介は麦藁帽子、稔は野球帽を被っていた。僕も伸介と同じような麦藁帽子(しかも、あろうことかピンクのリボンがついているんだ、「こんな女の子みたいな色いやだよ」と僕は猛反対したんだけど、母さんは気に入っているんだ、ちぇっ、)を被っていた。
 夏になれば必ず子供達はどちらかを被らされたが、活動的な子供には野球帽の方が人気があった。だってドラマやマンガの中の主人公は必ず野球帽で、麦藁帽子を被っているのは小さな子とか、育ちのいい子と決まって
いたからだ。そして物語の中の育ちのいい「おぼっちゃん」は、いつもなよなよしていて嘲笑の的として描かれていた。
 僕たちは、じきに引っ越しで分かれ別れになることがわかっていたから、残りの日数を数えては必死に遊んでいたのだった。
 しかし、空き地の探検はそう頻繁にはできなかった。何しろ秘密を守るのが大変だったからだ。ある時などは、さあ空き地に入ろうというその瞬間にクラスの女子たちに出くわしたこともあった。
「稔君」という声に僕たちが振り向くと、妙子とちび娘が立っていたのだ。ちび娘は、大人っぽい顔立ちで絵里子と言ったが、仲間には「エリーって呼んでね」、なんて言うバカヤローで、男子の中ではちび娘と呼ばれていたが、それでも顔は美人だったので妙子と同じくらい人気はあった。
 僕たちはまずいところを見られたという意識があり、稔は大慌てで背後にそびえる黒川日劇の看板を指さし、看板を見てたんだよな俺達、といった雰囲気で、「すごかったんだぜ、この映画。なあ?」と伸介に同意を求めた。
ちび娘と妙子は看板を見上げると、顔をしかめて、「最っ低、」と言った。
 運悪く、看板の映画は、ピエロ・パウロ・パゾリーニの「ソドムの市」だった。
「違う、違うんだ、」と伸介は声にならないつぶやきを漏らした。
 妙子は僕らを見つめて、くすっと笑うと、「男の子っていいなあ」と言った。そして、稔を一瞥すると小さくため息をついた。
「稔君、新学期は向こうの学校でしょ」
「うん」
「手紙書かなきゃだめだよ」
「うん」
 妙子はちょっと寂しそうに笑うと、ちび娘に「行こう」と言って背を向けた。
「やばかったね」という伸介に「ああ」と応えながらも、稔はずっと妙子の後ろ姿を見送っていた。今まで見たことのない表情だった。

 さて、初めて病院の中に入ったのは、四回目の探検の時だ。空き地の他の部分はほとんど調べ尽くし、発見できる宝はすべて発見しつくしていた。といっても紙でできた大半のものはぼろぼろだったし、ブリキでできた大半のものは真っ赤に錆びていた。最初の日に発見したショーヤの保存状態は奇跡のようなものだったのだ。
 いよいよ病院探検というその朝、僕たちは空き地の中で、何年も前に打ち込まれた木の杭を的にして石投げの練習をした。
 杭は病院の庭の部分に立っていて、どうやら昔、整地か何かの時に打たれたものらしかった。腐るのを防ぐためか、杭の頭にはどれも空き缶が被せてあった。その赤錆びた空き缶の上に的になる石を置いて、五メーターぐらい離れて別の石で狙うのだ。
 幽霊の攻撃に対して石が効くとは思えなかったが、他に武器がない僕たちは石投げの練習でもしなければ勇気が湧かないのだった。
 ひとしきり石投げに興じた後、稔が「さあ行くか」と言った。
 伸介は親に頼んで用意してもらった水筒を斜めにかけ、麦わら帽子の紐を締め直した。
 稔は、額の汗を拭うと野球帽のひさしを後ろにしてかぶった。
 ポケットに投げるのに手頃な石をいくつか詰め込むと、僕たちは門をくぐり病院の入り口に立った。
 木造二階建ての建物だが、玄関の壁だけはコンクリートにタイルを貼ったものだった。ガラスの割れた引戸の横には診察券を入れるために駅のような小窓が作ってある。そこからのぞき込むと、乾燥してひび割れた雨戸の裂け目や窓の鎧戸の隙間から午前中の柔らかい光が幾筋も射し込み、内部は意外なほど明るかった。
 時折、遠くから車のクラクションなどが聞こえてくる。周囲は蝉の声がうるさく、幽霊など出そうにない雰囲気だ。
 玄関の戸はすりガラスで加藤外科という金色の文字が書いてあったが、いたるところが割れていた。そのガラスの割れ目から手を入れて鍵をあけることができた。
 内部に入ると、光の筋の中をキラキラと埃が舞い、しんと静まりかえった室内は、開業当時のままであろうと思えた。
 広い土間にはしわくちゃに変形して白く黴の生えた紳士靴が一足。たった今脱ぎ捨てたかのように片方だけ横になって転がっていた。
 土間からあがったところには、緑色の地に金色で加藤外科と書かれたビニールのスリッパが五足並べてある。待合室には茶色いビニールのソファーがあった。その横には籐で編んだマガジンラックがあり、黄色くなった新聞と雑誌が残っている。いずれも分厚く埃をかぶっていた。壁には黄色くなっ
たポスターが「インフルエンザ」の予防注射を呼びかけている。
 あまりの埃に「靴のままの方がいいみたいだな」と言いながら伸介が土間からあがった。僕たちは誰が言いだしたわけでもないのに、自然と忍び足で歩いていた。
 待合室の隣の診察室に入った。鎧戸の隙間から入る陽光が、机と床に縞模様を描いている。机も本棚も空っぽだったが、机の上に喉を見るときの金属のへらがひとつだけ置いてあった。そして埃のつもった診察用の寝台は、シーツがはずされ黒いビニールがむき出しだった。ガラス戸棚の中は空っぽで、黄ばんだ壁にはカレンダーやポスターをはずした跡が白く残っていた。
 診察室を出て廊下に出ると、奥はまた土間になっていて裏口のガラスドアが見えた。
 入院患者お見舞い用の入り口であろう。二階まで吹き抜けになっていて、外国映画に出てくるような階段がカーブを描いて上へ続いていた。
 階段は木製で、よく磨かれた手すりが柔らかな半円カーブを描いていた。手すりの一番下には、疑宝珠のような飾りがついている。僕たちはぎしぎしと音を立てる階段を踏みしめて二階の入院病棟へ上がった。階段の中央は、長年に渡って人が歩いた跡でなめらかにすり減り、少しへこんでいた。
 階段を上がりきると小さな踊り場があり、短い廊下が続いている。廊下の先が窓になり、明るい日差しが差し込んでいた。
 廊下の両側に一部屋ずつの病室があった。開け放たれた入り口は教室のような木のドアになっていて、横の壁には、名札を下げる釘が打ってあった。
 板敷きの床の上には寝台が二つ置いてあった。庭に面した窓は、千切れかけたカーテンが覆っているだけで、夏の日差しに照らされた木々の緑がのぞいている。寝台以外は何も残されていず、がらんとしていた。
 廊下を挟んだ反対側の部屋をのぞいてみた。
 こちらは時々誰かが入り込んでいたのか、先ほどの部屋とは対照的にゴミやくずが床のあちこちに散らばり、窓も割れていた。寝台は二つとも壁際に寄せられている。その反対側の壁は、吹き込んだ雨や小便か何かの黒ずんだ染みが壁紙に染み込み、黄色く黴が生えていた。壁紙はいたるところでぶよぶよと浮き上がり、剥がれかけては垂れ下がり、ケロイドのようなありさまだ。
 伸介が、「あっ」と小さく叫んだ。
 伸介の目の先には、壁際の床に広がる一枚の毛布があった。一畳ほどの広さを覆っている毛布は何度も水を吸っては黴が生え、夏になると乾燥して、雨が降ればまた湿気を吸い、これ以上はないと言うほど汚れていた。そして「何か」を覆って丸く膨らんでいる。
 偶然にも、小さな子供がくの字に体を折り曲げ、頭から毛布をかぶって寝ているようにも見える。毛布の端をほんの五センチめくれば、小さな指がのぞきそうだった。
「死体でも隠していそうじゃないか」と伸介が言った。
「死体」という言葉に、僕たちはびくっと反応した。僕たちだって今まで死体ぐらいは見たことがある。でもそれは、犬や猫や鳩だった。伸介だけは去年の秋、おばあちゃんのお葬式でおばあちゃんの棺桶を覗いたことがあるが、それにしてもきれいに化粧した眠ったような顔だったということだ。だから、自分たちと同じぐらいの年の子供の死体、それも年月を経て腐ったり骨になったりという死体などは想像の世界でしかなかったのだ。
「死体だとしたら、もう骨だろうな」と稔がつぶやいた。
「どんな死に方だったのだろう」
「親はどうしたんだろう」
「みなしごだったのかもしれない」
「さらわれた子かもしれん」
 よしのりちゃん事件の記憶は僕たち子供の間でもまだ鮮明だった。
「例の殺人鬼かもしれん」と稔が言うと、僕たちは息を飲んだ。
「でも犯人は捕まってるよ」と伸介が反論した。
「犯人が白状しなかった事件の被害者かもしれん」
 僕は、まるで自分の肌にその毛布をかけられたように感じた。夏だというのに手と足に寒ぼろが立った。腐った毛布のにおいが鼻の奥に忍び込んでくるような気がした。
「調べてみるか」と稔が誰にともなく言った。
「だめだ」と思ったが声にならない。
幸い、僕たちの誰もその毛布を取りのけようとはしなかった。汚すぎて触る気になれなかったのだ。近くに手頃な棒もなかったし。僕たちの頭の中で死体のイメージはどんどんグロテスクな方向へ広がっていく。
 誰も動こうとしないのを見て、しょうがねえなあ、と首をふりながら、稔は毛布に近づくと、恐る恐る足で、そっ、と押してみた。もう一度ぐいっと踏むと、さっ、と顔色を変え「うわっ」といって飛び退いた。
 そのとたん僕たちは「わっ」と叫んで部屋から出た。足音を忍ばせるのも忘れ、階段を駆け下りる。玄関で稔が一度転んだが、映画の早回しのような速度で飛び上がり、さらに伸介を追い抜いて表に飛び出した。ようやく足を止めたのは門のところだった。
「どっ、どうしたんだよ!」と伸介が言った。
「な、なんだか、ぶよぶよっと、していた」と稔。どうしたことか右手に加藤外科のスリッパを持っている。
「腐乱死体だ、腐乱死体なんだ」と伸介が興奮して言った。
 僕たちは大慌てで空き地を出た。あまりあわてたので、伸介は半ズボンの端を鉄条網に引っかけて破いてしまったぐらいだ。
 表通りに出たとたん、周りの景色はいつもの日常に変わっていた。
「大人に知らせた方がいいだろうか」という伸介に、「空き地に入ったことがばれちゃうぜ」と稔が言った。それに、いつもと同じこの景色の中にいると、あの毛布の下に本当に腐乱死体があったかどうか自信がもてなくなった。第一、僕たちはそれを確認もしていないのだ。
 そのくせ、どちらも、もう一度確認に行こうとは言いださない。でも、この明るい夏の光の下にいると、あの慌てふためいた僕らの逃げっぷりがおかしくなり、最初は「へへ」っという照れ笑いが、最後には大笑いに変わっていた。
「ちぇっ、ズボンまで破いちゃった」と伸介は半ズボンの破れ目をいじっている。
「持って来ちゃった」と稔は加藤外科のスリッパをかざした。
 稔の転げぶりは、テレビのドタバタ喜劇「ちびっこ大将」もかくやというところだった。
 結局、僕たちはこのことを大人には話さないことにした。ここへ入れなくなっては困るからだ。それに学校は休みに入っていて、先生とも次の出校日までは会わない。
 ただ、なるべくここへは一人では来ないようにしようと約束した。何かあったとき、誰かに助けを求めにいく人間が必要だからだ。つまり、僕たちの間でここはちょっぴり危険な場所だということになったのだ。でもちょっぴり危険な場所ほど面白いものはない。ましてや、ちょっぴり怖ければその面白さは完璧だった。この日、ここは僕たちの聖地となったのだ。

 ☆

 壁のあちこちにスプレーで描かれた落書きがあった。週末の夜などに入り込む暴走族
などが残していくのだろう。「ひろみ命」とか「夜露死苦」などの落書きに混じり、ストリート系のポップな文字で「LOVE 」だとか描かれたものも目につく。
 二階が入院用の病棟になっていた。薄暗く狭い階段を上がると、そこが廊下の一番端だった。無計画な増築のせいか、廊下を見通すと少しうねって蛇行しているのがわかる。
 真夏の熱気で延びた鉄道線路のようでもある。
 私はゆっくりと廊下を歩いた。そして半開きになったドアから左右の病室を覗いていく。心の中の何かに響く部屋を探しながら。
 廊下の一番端で、私は足を止めた。その部屋だけドアが閉まっている。病棟の西の端だ。まちがいなく、あの夏の病院と「奇妙な相似」を感じさせる病室だった。
 ドアを開けると、私はゆっくりと、いや恐る恐るといった方がいいだろう、視線を室内に走らせた。
 すべての備品を撤去された病室はがらんとした印象だった。壁から吸引用の空気弁が突き出し、ナースコール用のボタンが付いたままのコードがだらりと垂れ下がっていた。
 酸素テントなどのためにベッドを囲むように用意されたカーテンレールは、数カ所を残して天井から垂れ下がり今にも落ちそうになっている。
 埃とコンクリートの粉にまみれたフロアに目を移すと、ひびの走る壁際に「毛布」があった。
 不思議なことに「当然」という気がした。あのときとまったく同じ雰囲気、同じ条件であるならば、あるのが「必然」という気もした。そんな思いを抱くことに何の疑問も感じないなんて、まるで夢の続きのようじゃないか、と私は苦笑した。苦笑というよりも、無理矢理、顔をゆがめて笑い顔を作っただけというのが正直なところだ。
 毛布は、あのときとまったく同じような形で床に落ちている。やはりあのときと同じように元の色がわからないほどの汚れようだ。毛布の下の膨らみは、頭を窓側に向けた子供が、苦悶に身をよじっているように見える。足下のその毛布を数センチ持ち上げれば、もつれあったまま息絶えた二本の足が出てきそうだった。
 建物の外から、蝉時雨の音が小さく聞こえてくる。耳に痛いほどの静けさであった。
(毛布の下を確認するのだ。あの夢に決着をつけるのだ)
 自分の中で、その思いが言葉となり、蝉時雨と一緒に頭の中をわんわんと駆けめぐった。固く握りしめた拳の中が、にじんできた汗でじっとりと濡れてきた。

 ☆

 引っ越しを翌日に控えた昼下がり、僕は一人でここへ来た。伸介は中学受験用の模擬試験を受けに出かけていた。この模試を受けているのはクラスでも伸介を含めて二人だけだ。伸介自身は死ぬほど嫌がっていた。試験が厭なのではなく、ガリ勉君と言われるのが厭なのだ。ただでさえ眼鏡をかけていてガリ勉君と呼ばれているのに、模試まで受けているとすれば、それは「完璧なガリ勉君」なのだ。
 稔は自分の家の引っ越しの手伝いで外へ出られないと言っていた。僕の引っ越しはなぜかほとんど準備がいらないらしく、ふらふらと近所を出歩く余裕があったのだ。
 一人で幽霊屋敷の前に立つと、いつも以上に言い様のない恐怖と嫌悪が襲ってくる。
 でも、僕はあの毛布の下を「見なければならない」のだ。不思議に、そんな気がした。
 足音を忍ばせて中に入り、診察室の横を通って廊下の奥の階段ホールまで来たとき、頭の上で床を踏みしめるミシリという小さな音がした。
 僕は足を止め息を殺した。誰か、僕以外の誰かが、この家の中にいる。
自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。二階には、あの殺人鬼がナイフを構え、おちんちんをちょん切ろうとして僕を待ちかまえているかも知れない。
 何故か頭にそんな考えが浮かんで僕は目を閉じた。
 すると今度は、二階から小さな声が聞こえてきた。子供の声のようだ。
背筋が、すっと冷えた。
 僕たち以外の探検隊が、ここを発見したのだろうか、それとも…。
 僕は震える足をつねって気合いを入れると、一歩一歩、足音を殺して歩き出した。そっと階段を上ると、声は毛布とは反対側の部屋から聞こえてきた。しくしくとすすり泣くような声だ。それと、もう一つの別の声。そっとそっと入口に近づいた。
 勇気を振り絞って、恐る恐るのぞいた部屋の中には、意外にも稔がいた。いっぺんに緊張が解けた。大きく息を吐いて声をかけようとした時、稔と一緒に妙子がいるのに気づいた。
 何となく見てはいけないようなものを見つめているような気がして、僕は扉の陰から二人をうかがった。
 妙子は声を殺して泣いていた。その妙子の肩に手を置いて、稔が困ったような顔をしていた。
「手紙書くよ、必ず」
 妙子が小さくこくんとうなずいた。
「クラスじゃなくて、おまえに書く」
 妙子は顔を上げた。
「高校で一緒になろう」
 再びうなずく妙子。
「約束よ」
 そういうと妙子は肩に置かれた稔の手をとり、そっと自分の胸の膨らみにあてた。涙に濡れた頬が恥じらいで赤く染まっていく。
 驚いた表情の稔は、その柔らかさを確かめるようにぎこちなく手を動かした。そして、そっとその手を離すと妙子の頬を伝う涙を拭いて「約束する」と言った。真剣な顔だった。稔の真剣な顔は初めて見た。強気な妙子の泣き顔も初めて見た。
 始めてみる大人の顔をした二人だった。
 取り残されたんだと感じた。
(だって僕は大人になれないから…)
 もう稔たちとは遊べないんだ。ため息をついてズボンのポケットに手を入れると、右手が何かに触った。ピー玉だった。僕は半ズボンのポケットの中でビー玉をぎゅっと握りしめた。そしてそれを取り出すと光にかざしてその中を覗いた。いくつもの白い泡が、緑色のガラスの中に星のように浮かんでいる。
 僕はそれを部屋の入り口に置き、そっと二人の方に弾いた。ころころと小さな音をたて、ビー玉は二人の足下に転がっていく。
 僕は背中を向け、ドアの影にうずくまって目を閉じた。
(さようなら…、)
 ビー玉に気づいた二人のけげんそうな気配がした。
「俺、落としたかな」と稔が自分のポケットを探っている。
「俺のはちゃんとある、伸介か」
「何だか気味が悪い」とすがりつく妙子。
 稔が部屋から出てくるとあたりを見回した。
「だれもいないよ」といって妙子を招いた。
 二人は廊下へ出てくると、手をつないで一階へおりていった。二人の足音がどんどん遠ざかる。もう僕に気づきすらしなかった。
 二人が玄関を出るまで、僕は身動きもせずうずくまっていた。
 目を開けると僕は一人で取り残されていた。前にもこんなことがあったような気がした。二人がいた部屋を見ると、そこには射し込む光の中でゆっくりと埃のちりが動いているだけで、そこで二人の子供が交わした約束も、その子供達がいた気配すらも残ってはいなかった。
 今のは本当にあったことなのだろうか。窓際の床の上で、転がしたビー
玉が、弱い光を受けて輝いていた。
 僕はそれを拾うと、毛布の部屋へ行った。毛布の下を見なければならなかったのだ。見ればそれが最後になりそうな気がした。でも見なければならないんだよ。どこかから、そんな声が聞こえてきた。
 毛布の部屋はドアを閉めてあった。二度目の探検の時、その恐ろしい部屋は僕たちの手で封印したのだ。そのドアをゆっくりと開いた。この部屋だけはすごく暗く感じられた。それに空気が急に冷たく湿り気を帯びたようにも思われた。
 毛布は何かの落とした陰のように部屋の奥で黒々と拡がっていた。そして、あの不思議な盛り上がり…。
 僕は毛布の前に立って、しばらくそれを見つめていた。そして大きく息を吸い込むと、水に潜るように息を止めてかがんだ。
 毛布に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。その下から、数匹の小さな虫が慌てて這い出してくると、壁際に走ってその隙間に消えた。
 毛布の下に隠されたものを見たとたん、僕の目は涙で一杯になり、鼻の奥が「つん」と痛くなった。やはり見てはいけなかった。でも見なければならなかったものがあった。
 泣きながら瞼を閉じると、暗闇の中、どんどん、どんどん僕の意識は落ちていく。
「みんなさようなら」
 右手の中のビー玉の感覚だけが残った。



 今こそ答えがわかるのだ。私はあのときいったい何を見たのか。見なかったのか。
 ゆっくりと身をかがめて毛布に触れた。わん、という羽音がして小さな虫が数匹、驚いたように飛び上がった。
 少し湿った毛布をはぎ取ると、そこにはちいさな体が横たわっていた。水分のすべて飛んだミイラ状の子供の骸だ。
 ぽっかりと空いた眼窩は永遠に続く闇を見つめていた。乾いてひきつった唇からのぞく小さな白い乳歯は米粒のようだった。そして頭の周りには腐ってばらばらになった麦わら帽子と、そのピンク色のリボン、「こんな女の子みたいな色いやだよ」という言葉が鮮やかに頭に浮かんだ…。
 私は叫びをあげないように拳を噛んだ。骸は見覚えのあるランニングシャツと半ズボンをまとっている。
 ふたたび言葉がよぎる。「僕も早く長ズボンがはきたいよ」
 そして窓に向けて延ばされた右手には、青いビー玉が光っていた。
「僕だ…、」
 あの時、拾い上げたビー玉の冷たさがよみがえる。
「僕だ…、僕だ…、僕だ…」
 私の目の前に暗闇が広がる。ゆっくりと床を転がっていくビー玉の音…。耳の奥でわんわんと何かが鳴っている。ああ、これは僕の「骸」だ…。

 ☆

 またあの夢を見た。
 カッターシャツの背中が寝汗でじっとりと濡れている。営業車の中だった。スーパーマーケットの広い駐車場の一角だ。俺は客とのアポがキャンセルになった時間を利用して仮眠を取っていたのだ。
 携帯電話をチェックすると、E-メールが一本入っている。
「稔へ、紙おむつ買ってきてね、妙子」
 妻だった。
 亭主の権威も形無しである。幼なじみの同級生と夫婦になればなおさらだろう。
 車窓の外を見た。スーパーの駐車場は平日の昼下がりだけあって閑散としたものだ。
 あの幽霊屋敷の空き地が、今はこうなっている。結局発見できなかった鳩岡団地の連中の銀玉鉄砲も、思い出と一緒にこの駐車場のアスファルトの下に埋まっているのだろうか。
 子供が産まれ俺は地元に帰ってきた。だからまたあの夢を見るのだろう。ただ、それだけに違いないさ。
 頬が濡れていた。夢を見ながら泣いていたようだ。なぜ泣くことがあるのだろう。過去はまさにあの夢のままでまちがいはない。
 あの後ずっと守り通した妙子との約束も、伸介と二人で決行した空き地探検も、あの夢のままだった。あれは楽しかった思い出ではなかったか。黒川日劇の看板、眼鏡の奥で笑っている伸介の目、熱かった妙子の涙、彼女の初々しい乳房に誓った二人の約束、ついに確認できなかった「毛布の下」、そして部屋の隅から転がってきた青いビー玉…。
 そうだ、一点だけ不思議なことがあるのだ。
 俺こと稔と伸介と妙子…。ならば、あの夢の中の夢で俺達を見ていた「僕」とはいったい誰なのだろう。そして「僕」を回想する夢の中の「私」とはいったい誰なのだろう。
 そして、あのどうしようもない寂しさと恐れは、いったい何だったのだろうか。

 俺は誰なのだろう。
 それともあの夏…、

 あのスリリングで楽しかった夏の日を、僕たちと共有していた誰かがいたのか…。

 それを思うと、なぜだか首筋の後ろあたりの毛が逆立つような気分がするのだ。きっとその答えを知っているのは、あの腐りかけた毛布だけなのかもしれない。
 俺は車から降りて回りを見た。あの不思議な空き地のなれの果てが、この駐車場だ。もうここがあの「空き地」だったことを知っている人間の方が少なくなっていた。

「僕」とはいったい何だったのだろうか。

 もうそれを知ることはできない。あの毛布の下を二度と確認できないように。もしそれができるとしても俺にはその勇気がないのだ。あの夏も、そしておそらくはこれからもずっと。

 ☆

 またあの夢を見た。
 懐かしさと、不安と、恐れと、奇妙な悲しみに彩られたあの夢を…。
 そして目を開ける前に考えるのだ。今、目覚めた自分は「俺」なのか、それとも「私」なのかと…。

(おわり)

この作品は短編集「盂蘭盆会〇〇〇参り(うらぼんえふせじまいり)」に収録されています。
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