創作エッセイ(26)「相対化」ということ(1)

相対化とは、「一面的な視点やものの見方を、それが唯一絶対ではないという風に見なしたり、提示したりすること」である。
小説などの物語創作の面においては、この視点は欠かせないものになっている。多様性や寛容さが重視される現代ではなおのこと。

小説創作においての具体的な例を挙げる。

名古屋市の文芸サイトにアップしてある自分の作品で、転載はできないのでリンクしときます。
John Smith in 1976 | NAGOYA Voicy Novels Cabinet (nagoya-voicynovels-cabinet.com)
ショートストーリー「1976年のジョン・スミス」(栗林元)1700字。
朗読データもありますので、一読いただくと、後段がさらに判りやすいかと。(リンク先「ナゴヤ・ヴォイシー・ノベル・キャビネット」は名古屋市文化振興事業団が運営するサイトで、公募で集められた作品が載っている)

 この作品は1976年の高校の卒業式のエピソードを描いている。作者(私)の実体験が元だ。
 当時は安保闘争などの学生運動の名残がまだ残っている上、戦後の平和教育が戦前戦中の反動で「君が代」と「日の丸」を敵対視していたせいで、卒業式で、君が代や日の丸をボイコットする生徒が各高校に一人二人いたのである。
 作者が通っていた地元の進学校は、学生による中央委が地元の国立大学の卒業生の影響で完全に左翼化していた。朝、登校すると全員の机の上に「三里塚闘争支援」を呼びかけるアジビラが置かれている程だった。
 また卒業式では、全員が君が代と日の丸をボイコットするのが常で、それが夕方のニュースにもなったようだ。卒業の季節の風物的な扱いでもあった。
 何しろ、作者が入学したとき、組合活動に熱心な教員が大量に転勤させられるのに抗議する在校生の集会が行われてたぐらいで、「まるで大学みたいな高校」という印象だった。
 作者の卒業式では、この君が代斉唱に際して、全校生徒が起立を拒否して座っている中、一人だけ起立した女子生徒がいたのだ。
 これが印象深くて、作品執筆の動機になった。

 ただ、最初に考えたままだと、「一人がボイコットをする普通の学校」と「全員がボイコットする進学校」とのコントラストが前面に出てきてしまい、「さすがに名門校は違いますね、ご自慢ですか?」という嫌らしさや、それに対する反発に繋がりそうだった。
 そこでさらに深く考えると、ボイコットをする一人と、ボイコットをしなかった一人は、どちらも「一人で孤独」だと気づいた。

 つまり「ボイコット」に注目して「一人と全員」というコントラストを描くのではなく、「一人だけ」に注目して「大勢に流されない」という共通項を描いたのだ。
 この、表面的な「反体制が絶対多数」と「反体制は一人だけ」という対立構造を、「左右を問わず絶対多数の周囲に抗うのはどちらも一人」と言う構図に持って行くことこそが「相対化」なのである。

相対化することで作品のテーマが浮かび上がる 

 ここで、作者の頭の中に、「右にならえ」の同調圧力に抗うというテーマが現れた。
 これは、18才の若者が、初めて感じたもやもや感が「同調圧力に対する忌避感なのだ」と自覚する話なのだ。
 ただ、実際に起立した女子生徒が、「何故起立したのか」は作者の想像の産物である。また、当時の歴史の授業では56年の大統領選挙など習っていない。それこそが「フィクション」なのだ。

 同じような「相対化」では、映画「福田村事件」の中で、朝鮮人に間違えられて殺されてしまう被差別部落の行商人が、さらに朝鮮人やハンセン病患者と思しき人々を差別視していたなどがある。
 この映画のさらに優れたところは、「青春を過ごした軍隊を懐かしむ在郷軍人会の軍人OBが嬉嬉として自警団を組織して虐殺にまで暴走する」という事象が、「青春を過ごした学生運動を懐かしんで、嬉嬉として抗議デモに参加して、テロリストを賞賛する」という、「戦前の在郷軍人会」と「現代の団塊世代」の暗喩にも繋がりうるところ。
 これも相対化である。

 誰しも似たような印象的な思い出があると思う。そんなネタを書くときに頭の中で一度「相対化」して考えると面白い。お勧めする。すごく勉強になるから。

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