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やっぱり「暮らしを照らす」話をしたい

最近、不満の多い記事を書いているのが気がかりでした。

刺々しい言い方を避けるためにフォローは入れているつもりです。
だけど言葉の端々に滲んでいたのは、誰かや世間への「怒り」でした。

ここ一年、「暮らしを照らす」をコンセプトにnoteを書いてきました。
いまはどうでしょう。
みずからカーテンを引いて、愚痴を垂れ流している記事が目立っていないだろうか。
そんな不安に駆られました。

同じ時期に読んだ書籍「三行で撃つ」や、親交のあるnoterさんとのやりとりを交えて、どんなnoteを書いていきたいのかを見つめ直してみます。

「素直に書く」と「好き勝手に書く」は違う

まず言えるのは、「好き勝手に書いている」。
要はバカ正直に書いていたのです。

noteでも多数取り上げられている書籍「三行で撃つ(近藤康太郎・著)には、このように書かれてあります。

書くことの原動力が「怒り」であることは、ある。
(中略)しかし同時に覚えておかなければならない。その義憤にかられた文章を、だれに読ませたいのか、ということだ。

不満を交えた記事は「誰に向けて書くのか」をあまり意識していませんでした。
運営しているWebマガジンでは常に考えていることを、おざなりにしていました。

原稿に、嘲りや、説教、一刀両断にする正義があったとき、その、ほんとうに読んでほしい想定読者は、耳をふさぐ。
(中略)わたしたちが磨くべきは、一刀両断する正義の剣ではない。むしろ読んだ者を恥じ入らせるようなもの。
(中略)そのための武器が、笑いだ。ユーモアだ。

読んでいて、今までの自分が恥ずかしくなりました。
小説「図書館戦争」の「正論は正しい、だが正論を武器にするのは正しくない」という名ゼリフを思い出します。

チョコでくるむ天才・バカリズムと糸井重里

引き続き「三行で撃つ」からの引用です。

言いたいことがあるなら、言ってもいい。しかし、チョコでくるめ。
(中略)チョコレートとは、なんでしょうか。
ユーモアのことです。
わたしたちはなにを書くべきか。
(中略)人間は、笑いがなければ生きていけない。ユーモアがなければ、生きている資格がない。
だから、喜怒哀楽のなかでも、楽を書くのがいちばん難しいんです。

私は尾崎豊の「この支配からの卒業~」の歌い方が大好きなひねくれ者なので、本当は好きなように書きたい。
だけどろくに演説を聞かれないデモや選挙カーにはなりたくありません。

ここで、私が尊敬する「チョコでくるむ天才」を二人挙げてみます。

一人は、お笑い芸人のバカリズムこと升野英知さん。

バカリズムのネタは世間の風潮を強烈に皮肉ったものが多いです。
なかでも「女子×女子」というネタがたまらなく好きで、声が出なくなるくらい笑いました。いままで観てきた全芸人の全ネタ中、私の中で文句なしの1位です。

「女子×女子」は狂気すら感じられるネタなのでさておき、だいたいのネタは、升野さんが世の中のおかしいと思っている部分を題材にしていると感じます。
直接批判するのではなく、コントとして見事に昇華している。
毒気を含みながらも、ユーモアとして成立させている手腕は周知の通りです。

もう一人は、コピーライターの糸井重里さん。

スタジオジブリの映画のキャッチコピーをはじめ、活動は多岐に渡り、Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰。
ロールプレイングゲーム「MOTHER」シリーズを手がけたことでも有名です。

糸井さんの文章はとぼけているようで、物事の本質を的確にとらえている。
ゴムボールのように角のない言い回しで、ハッとさせられることもままあります。

何より、どの取り組みにも遊び心がある
たとえば「MOTHER2」で2時間以上プレイしていると、パパからでんわがかかってきて「そろそろやめたらどうだ」と言われます。
ゲームをプレイしているのに、ゲーム中の親から忠告される。
何ともおかしな現象です。

升野さんと糸井さんは元から一目置いている方々。
お手本にしたい、チョコでくるむ天才です。

とはいえ、何事も面白おかしく書くのは高度な技術です。

私も自分なりにアドリブを入れます。
が、何せ中学生の頃「やべーやべー矢部浩之」というギャグを披露し同級生を極寒の世界に陥れていたので、「無理するな」と頭のどこかで声がしてきます。
スベり芸上等です。

真心のこもった言葉のプレゼント

では、ユーモアのセンスが伴わない人間はどうすればよいのか。

フォローではなく、配慮をする。
私の出した答えはこうです。

そう思えたきっかけは、ある方との交流でした。

先日、noteで親交のあるくーや。さんにタロットカードで占っていただきました。

くーや。さんはイラストや音声配信といった、さまざまな取り組みをされています。
そのひとつが、タロットリーディングを本格的に勉強し、カードから言葉を紡ぐ試みです。

あるとき、くーや。さんが練習に付き合ってくれる方をTwitterで募集されていました。
ほかの方が実際にリーディングしてもらった話を拝読して、私も昔からタロット占いが好きなのもあり興味が湧きました。

Twitterから依頼DMを送ったところ、快く承諾してくださいました。
私の希望で、主に仕事のことをみていただくことに。

二週間も経たずして、PDFで送られてきたリーディング結果。
出先で読み、涙ぐみそうになりました。

何枚ものカードから読み解き、私の不安な気持ちを汲みながら丁寧に紡がれたくーや。さんの言葉の数々。
添えられていたメッセージからは、言葉の一つひとつと真摯に向き合い、私のためを思って選び取ってくださったのが感じられました。

くーや。さんとnoteでやりとりをするようになったのが一年前。
私よりずっと素直で真っすぐ、温かい心を持つ方だと思っています。
それも手伝って、耳を傾けられるのです。

ユーモアや遊び心は性格や気質によるもの。
慣れないうちは不自然に浮いた文章になるのがオチです。

それより大切なのは、真心を込めること。誰かを思いやることなのだと、くーや。さんから学びました。

フォローと配慮の違いは、自分のためか、他人のためかです。

フォローはどちらかというと、自分の保身のためにする印象です。
対し、配慮は誰かへの「思いやり」が込められています。

最近の私には、配慮が足りなかった。
思いやりが足りませんでした。

まずは自分の暮らしを照らす

ネガティブな話を否定したいのではありません。

何をどう話すかはその人が決めることですし、noteにはほかの SNSでは話しづらい話題も受け止めてくれる雰囲気があります。

だけど、「暮らしを照らす話をしたい」のなら、自分の心に温かな光が射しているときがいい。

イライラしていたり、嫌味っぽかったりすると、文章にも必ず現れます。
最近はそんなときにnoteを書いていた気がします。

学生時代や会社員時代に何があったとしても、わざわざその話を引っ張り出している限り、気持ちは過去に向いている。
何かを糾弾するための免罪符にすらしている気がします。

そんなものより、私が大事にしたかったもの。

「いやなことやつらかったことより、もっと楽しいこと、好きなもののこと」。

もっと楽しい話をしていきたい。
そのために時間を使いたい。

100記事目の、青臭い振り返りでした。


※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。


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