『資本論』のマジックはどこにあるのか?

 ここのところ、個人的な関心と、後には仕事の都合もあって、マルクスの『資本論』及び資本論に関係する書籍を何冊か読んでいる。今回は、資本論のマジックとも言うべき箇所がどこにあるかについて書いてみたい。
 遊園地の幽霊屋敷で、間違って照明のスイッチを入れて「正体を見てしまった」ような心境になったのだ。

 さて、カール・マルクス及びその著書である『資本論』は独特の影響力を後世に及ぼしている。
 偉大な経済学者として、スミス、マルクス、ケインズ、と3人を並べて違和感がない。それぞれに対して、後世の経済学者達が、解説、注釈、解釈、応用などを新たな業績にして糧を得ているが、「後輩を喰わせている」という点にあってナンバーワンは多分マルクスだ。ケインズも相当なものだが、マルクスが一桁上なのではないか。特に日本では、「マル経」と呼ばれた一大ジャンルがあり、1960年代頃までは当時「近代経済学」と呼ばれた今は普通の経済学よりも勢力がはるかに大きかった。また経済学者の外に、社会学者にもマルクス式を方法論とする人が多数いたし、左翼政党の関係者まで加えると「マルクス学経済圏」は驚くほど大きい。
 また、『聖書』、『コーラン』、『資本論』という並びにも違和感がない。こちらは、人々を動かした聖典だ。革命の情熱を支えるためには、難解で解釈に幅のある奥深い書物が権威として必要なのだ。そして、「マルクス教」にも他の宗教と同様に宗派の分派がある。しかも、お互いを異端として攻撃して、しばしば分派同士の内輪もめが凄惨な結果をもたらす悪い癖までが宗教によく似ている。
 このような背景から、『資本論』を語ることは、ある種の地雷を踏むことなので、わが身が粉々にならないように気をつける必要がある。

 『資本論』は様々に読まれ、活用されている。労働価値説と搾取で利潤の発生原理を解明したのだという者があれば、労働に於ける疎外の問題を重視する人があり、資本主義の崩壊を必然と信じて待つ人がいる。近年では、「武器として」勧める人があれば、生産様式を交換様式に置き換えて読み直そうとする人がいるし、マルクスの晩年の研究と併せてエコロジストとしてのマルクスを資本論の中にも見つけようとする人がいる。
 何れも結構なことだ。多様に読まれるのは古典の特権であり、効用でもある。『資本論』にはその資格があるのだろう。
 だが、彼らが『資本論』をそこまで好意的に読むのはなぜなのか。『資本論』の妖しい魅力の源泉は何なのだろうか。

 私の仮説を提示する。
 それは、「資本にはそれ自体の運動法則がある」というアイデアなのではないか。その法則とは、資本は飽くなき利潤追求の主体であり、貪欲に利潤の獲得機会と自らの成長を目指しており、その欲求には際限が無い、というイメージだ。そこでは、個々の資本家はむしろ脇役で、資本という生き物がたまたま背中に乗せている乗り役くらいの存在に過ぎない。そして、人々は、ここに世界の、つまり現代としては資本主義の「原理」を見たと感じて、『資本論』の奥深さに畏怖する。
 拡大再生産を長い文章と共に式にしてみた生産表式の有難味や、貨幣の物神性の概念に伴う一種の霊性など、他にもゴージャスな役者が配置されている。マルクスが仕込んだのではないが、後には資本主義の「エートス」などという怪しい援軍も現れた。だが、圧倒的に魅力的なのは、「資本という怪物」の、人間のコントロールが及ばないまでの、底知れない貪欲さと生命力の、世界を説明する原理性なのではないか。

 さて、ここで、顔を洗うなり、珈琲を淹れるなりして、リセットされた気分で考えてみて欲しい。「資本」とは何だ?
 実は、普通の経済学の世界でも資本とは何なのかが時に問題になる。「生産関数はF(N,K)で、Nは労働、Kは資本とする、……」とモデルを作り始めると、「K」は何で一体どのように計測されるのか、と叱られて立ちすくむような場合がある(正当な問いだと思うが)。
 資本は平たく言うと「商売の元手」ということなのだが、その具体的な姿は典型的には工場などの生産設備であったり、原材料を購入し人を雇う運転資金だったり、技術特許やブランドなどに対する権利であったりするし、株式の形で一纏めに評価されたりもする。マル経の世界だけでなく、経済学全般で「資本」という言葉を多義的に使い回す慣行は、混乱を招いている。
 因みに、「資本主義」という言葉にも、似た問題があって、人はこの言葉を使うと原理的な何かを語ったつもりになって、それぞれに勝手な方向を向いた満足感に浸るのだが、本稿ではこの問題までは手を広げない。

 世界を素直に見直すと、「資本」とは、お金持ちが所有する「ビジネスに使いうる財産」であるに過ぎない。当面の具体的な形は、生産設備だったり、現金だったり、不動産だったりするが、概ね換金可能な「財産」がその実体だ。その財産は、再生産のための資本として再投資されることもあるし、単に消費されて無くなることもある。
 マルクスの物語に魅了された人にとっては、資本は拡大を求めて再投資されなければならないのかも知れないが、持ち主であるお金持ちには消費の欲求もあるし、何よりも将来の損得に対する計算がある。儲かると思える投資機会が無い場合に、それでも資本が設備などに再投資されるというような事はない。例えば株式の配当や自社株買いの形で引き出されて、あえなく消費されてしまうことが少なくない。
 例えば、資本主義の本場とされるアメリカでは企業の自社株買いが盛んで、利益の額を上回る年もあるが、大きな理由の一つは有望な再投資の機会が見つけられないからだ。
 また、自社株買いには、ストック・オプションを持った経営者自身が儲かるからという現実的な理由もある。この場合、ぼんやりした資本家が経営者に価値を搾取されているのだ。よく見ると資本家もカモられて搾取されることがある。
 そして、全体としての「資本」は拡大することもあるし、縮小することもあり得る。成長しなければ生きていけないとして、のたうち回るような、魂を持った「生命体」などではない。動かしているのはあくまでも人だ。資本に人を動かす魔力があるのではない。
 多様な解釈に応じた個性があり、悪さをもしかねない恐ろしさを醸し出している、資本の幽霊たちは、照明のスイッチを入れてしまってよく見ると、「中の人」が動かしていたに過ぎなかった。
 経済遊園地の幽霊屋敷では、中の人が調子づけば、幽霊のアクションは一段と活気づき、仲間が増えることもある。しかし、中の人が疲れてしまったり、被った幽霊の着ぐるみのウケが悪かったりすると、幽霊はそっと退場して、中の人はバイト代を貰って飯を食うのだ。

 では、そのことの何が問題なのか。どうして、幽霊の「中の人」を暴くような無粋なことを私がしなければならないのか。フィクションを、「それは嘘だろう」と嗤うのは、普通は大人がやるべきでないことだ。
 しかし、「資本には成長機会が必要であり、成長がなければ資本は生きていけないので、資本がそれ自体が持つ原理によって悪さをしかねない」という先入観が世の中の理解を歪めている。この点は正す必要がある。
 「成長フロンティアの喪失に伴う資本主義の行き詰まり」のようなチープなフィクションに感化されるのも利口ではないし、内実は単なる取引システムの一つである資本主義を悪者にする物語も正しい解決を生まない。

 マルクス教の信者さん達の中でフラットな議論を許容してくれそうな「いい人」に見える斉藤幸平さんの大ベストセラー「人新生の資本論」を例に挙げる。
 p132の「資本の定義からして、『資本主義』と『脱成長』のペアは両立不可能だからである。【改行】資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である。」の箇所が間違いである。
 理由は上述のように、資本はお金持ちの財産の使われ方の一つに過ぎず、経済全体としても投資機会が不十分なら縮小してバランスを取ることが可能だからだ。全体の「成長」がなくとも、投下される資本は大きさを変えながら、経済システムは継続可能なのだ。
 ここで、投資家のために付記すると、低成長やマイナス成長でも資本に投資する際のリスク・プレミアムは維持可能だ。資本の大きさが調整されて、且つ将来を織り込んでプライシングされてればいい。
 例えば、気候変動のリスクから地球を守るための方法として、資本主義を放棄することは必然ではない。「そこそこに効率的な」資源配分の仕組みを失うことのデメリットを考えるべきだろう。
 例えば、炭素排出税のような仕組みを有効に機能させることが出来たとしよう。環境に対しても適切な資源と活動の配分を行う上で、仕組みとしての資本主義は有効でさえあり得る。コミュニティ単位での熟議のような果てしないものに期待するよりも、まだしも有望なのではないか。
 資本家の横暴を野放しにしておくと、炭素税などは骨抜きにされるという心配は現実的にもっともだ。しかし、それは個々の大金持ちと政治や制度の腐敗や不備の問題であって、「資本」が問題なのではない。「資本」という怪物が原理に則って悪さをするのではない。悪いのは「中の人」なのだ。資本主義を悪者にする議論は、非効率を招きかねないことに加えて、真の悪人を取り逃がしかねない。

 それにしても、多くの知性ある人達が、なぜ『資本論』のマジックに嬉々として騙されるのだろうか。
 マルクスの盟友エンゲルスは、社会主義は宗教ではなく科学だと述べているが、精神に対する作用として、科学は信仰の対象になり得る。現代社会の最も強力な宗教は自然科学だと見て間違いあるまい。
 先ず、科学の立ち位置を取る。次に、運動の法則があるような主体として「資本」を主役にした物語を紡いで世界を解釈する原理を与えた。ここが、マルクスの上手いところでマジックの種だった。このフィクションが、科学を奉じ、経済にも法則を求めた読者のニーズに合致したのだ。
 しかも、難渋に書いておいたおかげで、読者は自分の考えを『資本論』に投影することができた。
 だが、野暮な指摘を繰り返すが、「資本」はお金持ちが持っている財産に過ぎない。独自の意思を持った生命体などではない。

 野暮をもう少し続けると、資本主義の典型的姿のように見える、工場を持った資本家と、単純作業に従事して搾取される労働者は、ある時代の生産技術のある種の条件を背景とした、労働市場の需要独占のケースとして、不完全競争の経済学で説明できるような「一ケース」に過ぎない。労働者が生産手段から引き剥がされて産業予備軍にされたり、取り替え可能な存在として買い叩かれたりするのは、「人」がやったことで、「資本」自体の仕業ではない。
 冷たく聞こえるかも知れないが、この状況で労働者側が一方的に搾取されるのは、一人一人の労働者に工夫がないからだ。「取り替え可能な労働力」として自分を商品化してしまうと、買い叩かれるのは仕方がない。労働者に必要なことは、工夫のないまま団結して「働かないオジサン」を利することではなく、自らを差別化して市場に出ることだ。厳しいアドバイスだが、自分の子供に対してならそう言うしかない。
 現実の経済では、資本設備を持っている側が弱い立場に立つこともある。投資銀行などでよく起こっているように、ある種の労働者が資本家を搾取することが普通にあり得る。また、一方では、労働力がぎりぎり再生産できる水準に賃金が決まると考えたマルクスの想定を遙かに超える、ブラックな労働環境が主に非正規の労働者に対して存在している。これらは、当事者の力のバランスによって生じているものであって、「資本」の原理によるものなどではない。
 現実は多様であり、正しく理解するためには、「生きている資本」のような古いフィクションを捨てる必要がある。『資本論』で原理を語ろうとしない方がいい。「人間」とその経済活動を見るべきだ。

 顔を洗え。照明のスイッチを入れよ。マルクスの幽霊を嗤え。「中の人」を見よ。

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