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金曜日一首評:手袋を植えた場所からさよならが生えてきてそよそよ戦いでいる /九螺ささら

手袋を植えた場所からさよならが生えてきてそよそよそよいでいる /九螺ささら

歌集『ゆめのほとり鳥』より。


この歌には初読のときから、じっさいに手袋を湿った土の地面に植えて(埋めて)いる人物の視覚的イメージを持っていた。

短歌を読むときにその内容が虚構なのか現実なのか、比喩なのかどうなのか、それを意識することは少なくとも自分にとってはあまりない。だから実際に「そうした」かどうかはどちらでもよくて、ただそのような絵が浮かんだよ、というだけなのだけど。

あたかも“種子を植えたら芽が出て花が咲いた”というように、「手袋を植えた場所からさよならが生えて」きた。
「さよなら」を生やす手袋は、どんな手袋だろうか。手袋の持ち主はもう現実では会うことのできない人物、あるいは過去の自分じしんなのかもしれない。「戦ぐ」を漢字にしてさらにルビを振っているのは、すなおに受けとれば戦禍の背景をにおわせているようで、やはりだれかとの別離についての歌という印象を受ける。

「植えた場所から」という一歩引いた視点からは、「さよなら」が生えるまでの少しの時間の経過が感じられる。そうして今度は、生えたさよならが戦ぐのを見ているという。
植える・生える・戦いでいるという三つの状態が経時的に、俯瞰的に描かれたこの歌を読んだとき、「死の受容過程」のことを思い出した。
(精神科医・キューブラー・ロスの提唱した概念で、死を迎える人の感情の動きを段階化した考え方。
<否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容>の5つの段階。

この考え方は自分の死に対してのひとの心の動きについてなのだけど、大切なひととの別離や死に関しても概ね近いものがあると思っている。)



仮の住まいにも関わらず書籍が増えてきて、もしかして本買い過ぎなのでは……それで最近は以前読んでいる歌集を読み返したりしています。

九螺ささらさんの短歌は、なんとなくわたしの好きな歌手の谷山浩子さんの楽曲と親和性がある気がして、よく聴きながら読んでいます。

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