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リーガルリリーの歌詞についてのノート——タイムカプセルが媒介する生の複数/唯一性

いままでのノートでは、リーガルリリーの『東京』と『overture』の歌詞について、それぞれ「逸脱」と「物語性」という観点から軽く論じた。本稿では、それらを手がかりに『セイントアンガー』について述べていく。

『セイントアンガー』は、複数の登場人物たちの生を、つぎつぎに入れ替わる場面のなかで描出していく。「私」「君(あなた)」「少女」「少年」「ホームレスのおじさん」「野球選手」が登場し、それぞれが現実と向き合っている。ここでは、「ホームレスのおじさん」と「野球選手」の対比を中心に論じていく。該当の歌詞は以下のようなものである。

ホームレスのおじさんは
レーシックできるお金持ってない
野球選手は割れないように優しく
(・・・)
ホームレスのおじさんは
タイムカプセルの場所を思い出す
野球選手は割れない恋を知った

リーガルリリー『セイントアンガー』

「ホームレスのおじさん」と「野球選手」はそれぞれ社会的弱者・強者として対比されている。この対比は自明のように思えるが、これを整理することで「レーシック」や「タイムカプセル」というモチーフがより立体的な意味を持つ。

まず、引用した歌詞の上段から分析する。
さて、社会的弱者とはどういった点でそう判断されるのか。ひとつは「資本主義」である。ホームレスとは、「路上生活者」とも呼ばれるが、彼らあるいは彼女らは当然ながら好んでそうした状況に身を置いているのではない。多くの場合、経済的な苦境からやむなく住居を失うことになったはずだ。それに対し、日本において人気の野球やサッカーの選手は、その年俸がニュースになるなど経済的・社会的な「成功者」のアイコンとして認識されている。端的に、お金を持っている人・いない人という対比であるといえる。

また、もうひとつのフレームとして「社会保障」が挙げられる。ホームレスはしばしば、社会的に透明化された存在となる。「わが街にはホームレスは一人もいません」という場合、それは発話者が認知していないだけだ、ということはままあるだろう。その要因として、彼ら彼女らが、さまざまな事情から適切に行政や福祉にリーチできないことが考えられる。そうした「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されない状況では、気軽に医療を利用することは難しいだろう(そうした人びと向けに医療を提供する場もあるだろうが)。
それに対し、スポーツ選手は身体のささいな「違和感」で専門の医療にかかる。また日々の食事や、「仕事」たる運動も万全の体制で管理されている。つまり、社会に守られている人・いない人という対比である。

このふたつの基準を一筆書きで表現するのが「レーシック」である。レーシックは、手術によって視力をあげる保険適用外の手術であるが、たいてい数十万円の費用がかかるとされている。そこには、ホームレスが得られない「最低限度」の生活と、「保険適用外」の医療の間に横たわる絶望的な溝が凝縮されている。
また「割れないように優しく」という一節は、野球選手の繊細な身体管理だけでなく、眼球に手術をおこなう医者の手付きをも思わせる。

こうした弱者への視点は、リーガルリリーの歌詞全般にみられる。『overture』で無邪気に回顧した「戦闘機の爆音」は、『うつくしいひと』や『ハナヒカリ』では、戦争のを悲劇として描くことによって乗り越えようとした。『セイントアンガー』においては、ホームレスというより身近で、みずからがその悲劇に加担しているかもしれないような、目を背けたくなるような問題を扱っている。これをどう乗り越えるのか。

「野球選手」とは常に、それがどこのだれであるか、という名前を持った固有の存在として扱われる。しかしホームレスは、上述したようにしばしば「透明化」される。それは、名前を剥奪された存在になるということである。戦争や災害などの被害者もまた、その尊厳は「名前」を記憶されることによって回復される。沖縄の平和祈念公園にある平和の礎も、なくなった方々の「名前」の碑である。また、満州で人体実験を繰り返したとされる日本軍の研究機関「731部隊」では、実験体となる人びとを「マルタ(丸太)」と呼んだという。このエピソードは人を人とも思わぬ所業に肌があわだつが、つまり「名前を奪うこと」は、人間の尊厳を奪うことなのである。

歌詞の下段では、「ホームレスのおじさんはタイムカプセルの場所を思い出す」となっている。タイムカプセルは、少年時代に将来を思い描きながら、「カプセル」や埋める「場所」という物質的な基盤に託して未来へと送られる。それを媒介とすることで、未来に不安と期待を抱いていた少年と「ホームレスのおじさん」が時間的・空間的に連続した存在として立ち上がる。彼はこの瞬間、剥奪されていた名前を取り戻す。それは、路上からぼやけた視界を超えてリスナーを見すえるまなざしとなって、ひとりひとりの個別の生をとらえる。

また、弱者としての属性にこだわるのであれば「ホームレスのおばさん」がより「弱い」存在と言えるが、「おじさん」であることにより「野球選手」という言葉がまとう男性性に近接し、両者の対比、またありし日の「少年」のありえた未来として提示されている。

最後に「割れないように優しく」されていた野球選手は、「割れない恋を知」ることになる。これは、ささいな「違和感」すら自らの存亡にかかわるフィジカル的な脆弱性から、けっして「割れ」ることのない強靭なメンタリティ、すなわち恋へと歩を進めることなのである。

交わることのないふたつの生は、それぞれの現実である種の困難を抱えている。しかし、それぞれありえたかもしれない「未来」であり、かくも容易に希望へ反転しうる。それは、時空をこえるタイムカプセルが運んだ物語であり、恋なのだ。

『セイントアンガー』は、この箇所のほかにも嘆息するほかない見事な歌詞が散りばめられている。本稿はここで筆を置くが、読者諸氏におかれてはぜひそうした歌詞を見つけてみていただきたい。

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