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自分の好きなものを人におすすめしたくない理由

好きなアーティストのライブのチケットを取った。
屋外のフェスで、子どもと一緒に楽しめるやつ。
巨大遊具が出店したり、ワークショップがあったり、
音楽に飽きたら丘から夕陽を眺められるやつ。


自分が楽しいと感じるものは、誰にでも共有したい、
と思うおせっかいな気持ちはなかなか消せない。
友人はもちろん、自分の家族に対しても。
とりわけ子どもたちには、自分の価値観を共有したうえで、
最終的には、その良い・悪いは各自で判断してもらって、
個々の価値観を作ってもらいたい。

・・・と、思ってはいた。



ライブの日が近づく。
子どもたちにも楽しんでもらえるか心配だから、
アーティストの予習のため、
TVからYouTubeに接続して、楽曲を流した。


上の長女は晩御飯のたこ焼きに熱中。
鉄板をつついていて、音楽には知らん顔だ。
下の長男に関しては、普段夕食時はTVを消しているだろう、と
日々のルーティーンが崩されたことを怒っている。
意図を伝えたが納得できなった様子で猶更怒り、
火が付いたように泣き出した。


僕は静かにTVの電源を消した。
と、ともに、僕のおせっかいも、一気に冷や水をかぶせられ、
あっという間にしぼんでしまった。

ああ、だから自分の好きなものを人に勧めたい、
という気持ちを隠してきたのだ。


スネオヘアーを敬愛していた中学時代。
ちょっとニッチなアーティスト好き、という天邪鬼中学生にありがちな思想もあったが、
田舎の純朴少年であった当時、垢抜け方を知らなかった自分にとって、
「おかっぱ頭のファッションアイコン」として、
同じおかっぱ頭族の自分の道標として、足元を照らしてくれている感じがしたのはすごく精神的に大きかった。

小学生時代はキノコ呼ばわりで馬鹿にされていた髪型も、スネオヘアーのファンになってからは自分のトレードマークとして自信になったし、
彼のファッションを参考にしてYシャツばかり着ていた。
単なる楽曲のファン、というレベルを超えて、
自らのシンボルとしてスネオヘアーの存在は神格化していた。


当然友達にもスネオヘアーを布教していたのは言うまでもない。
「おかっぱ」を抜きにしても、楽曲の疾走感や、メロのキャッチーさも、
同世代の友人にきっと刺さる、と信じていた。
しかし、おかっぱ頭というキャラが立ちすぎるあまり、みんなの認識は
「おかっぱのアイツが好きなおかっぱのミュージシャン」どまりで、
楽曲の良さまで共感してくれた友達は皆無だった。
僕は次第に彼のファンと自称することが恥ずかしくなり、
友人との会話で彼の名前を出すことはなくなっていった。




自分の価値観を理解されなかったことが嫌なのではない。腹立っているのではない。
自分の大好きな彼らのプロデュースを失敗したことが
無性に申し訳ないのだ。

もしかしたら、もっと良い出会い方をしていたら、
「僕のおススメ」というバイアスを介さなかったら、
彼らの作品に対する印象は大きく変わっていたかもしれない。
そう思うと、どうもやりきれない気持ちになる。


TSUTAYAでCDを借りた帰りに出くわした友人に、
貸出用の青い袋を見られないよう、
自転車の前カゴをヘルメットで隠しながら別れた帰り道を今でも思い出す。

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