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「ととのう」について考える

僕は銭湯が好きだ。
仲の良い友達、とりわけ「一緒にいること自体が心地よい」友達と、大学近くの銭湯に通い詰めていたことを思い出す。
基本的には無口でコミュ障気味な僕にとっては、一緒にお風呂に行ける、要するに、お酒やイベントの力を使わずともただただ居心地よく過ごせる人というのが、僕が相手を「友達」として認識するための大きな要素であるのだと思う。


銭湯の中でもとりわけサウナが好きだ。「ととのう」というワードに集約されるように、みんなが同じ目的・想いで、過度に熱された部屋を出入りする行為、これはまさに「同じ空間を共有している丁度良い狭さ」なのだ。

…と、言っておきながらだが、僕は「ととのう」というみんなの共感覚がいまいちよくわかってない。
言葉の多義性に文句を言っているわけではない。曖昧さを解明したいと誰かを詰めようとしているわけでもない。
僕の中で、サウナを出入りすることで得られる「ととのう」という感覚にいくつか覚えがあり、その中でみんなと共有できる「ととのう」がどれなのか、皆目検討がついてないだけなのだ。

一体「ととのう」という素晴らしい感覚は、どれを指すのが適当なのだろうか。
それを確かめるために、今日も今日とて銭湯に向かうことにした。

とりあえず銭湯に向かう

僕の銭湯ルーティンは、まずはシャワーで頭体を清めるところから。そして40℃ぐらいの湯に浸かって、フーッとその日一番大きい一息をつく。銭湯に行く行為自体が素晴らしいことなので、ある種ここで「ととのっている」と言っても差し支えない気もするのだが、まだサウナを介してないのでこれはノーカンとする。

ひとしきりお湯に浸かった後は、いよいよサウナタイムだ。お湯に浸かってしっかり温まっているのと、実は熱さ自体には弱めな僕にとっては、サウナの1回目は5分もあれば十分だ。というか無理。耐えられない。
少なくともここで整いの感覚を味わうことはまずない。

HAKIM的「ととのう」考

1セット目が終わると、間髪入れずに水風呂に直行。風呂桶で冷水を浴びて、汗をしっかり流してから水風呂にin。
僕にとっては14-15℃が最適。それ以上だと物足りないし、シングルの水風呂は冷たすぎてものの数十秒も入っていられない。ましてや1セット目では体の表面と内側の温度に差がありすぎるから、丁度ぐーっと冷える感じのする10℃代中盤が最適だ。

ここから、僕が想定している「ととのう」最右翼の瞬間。しっかり、しっかりと体を冷やす作業だ。
じっくりと肩まで浸かり「その時」を待つ。

まず、手足の感覚があやふやになってくる。あまりにも冷たいので、どこまでが自分の手足で、どこからが水風呂なのかわからなくてなってくるぐらいまでかひとつの目安だ。時間にして5分ぐらいだろうか。
途中から、自分の息が冷たくなってくるのを感じる。吐く息が歯の裏を満遍なく冷やしていく。内側から冷え始めている証拠だ。今アイスでも食べようものなら僕の歯肉はあっさりと根を上げるだろうし、アイスが喉を通ってるのかどうかもわからない状態に、体内も仕上がってくる。

そうこうしているうちに目の焦点が合わなくなってくる。
脳の意思とは裏腹に、黒目がどうしても上を向いてしまう。すぐさま黒目を正面に向き直すが、またすぐ上を剥き始める。
脳と眼球が戦っている。まるで大シケの海原にでも放り込まれたかのように視線が上下を繰り返す。生きたい自分と逝きたい自分が交互に入り乱れるダンスセッションさらながらだ。

※その時に流れる曲は、こんな感じ。
僕の目線の動きに合わせるなら、倍速視聴をオススメする。


楽しい時間にも終わりが来る。段々と生きたい自分が勝ってきて、自らを律することができるようになってくる。
完全に真っ直ぐを向けるようになると、手足だけでなく体全体の全ての感覚が僕の元に戻ってきて、視力も通常の2倍ぐらいになる。
僕調べでは、5mほど向こうにある檜風呂の看板に書いてある「リウマチ」あたりが読めるようになったら頃合いだ。僕の体はこれを「ととのう」とみなしている。
しかし、友人にこの体験を話すとサウナからの引退を申告されるので、どうやらこれが「ととのう」ではないらしい。。。

さらなる高みへ

と、いうことで僕の「ととのう」探求は続く。
軽い足取りで水風呂を出て、しっかりと水を拭いて再度サウナ室に向かう。室内の12分計から推察するに、約15分は水風呂に入っていた計算にはなる。

ここから、さらなる最高潮を目指すために30分はサウナに居座り続けることになる。最初の10分ほどでは汗も全く出ず、徐々に手足が痺れる感覚に襲われるのが恒例だ。調子が良いとピリピリを通り越してバチバチ痛む。
ロングスパーを終えたボクサーのように、真っ白になった状態で、指一つ動かさず5分ほど過ごす。強烈なサウナドランク状態だ。

これか?ととのうは。


30分コースが終わると、汗も大量に出てきて、サウナ室に留まるのが難しくなってくる。
ここで選択に迫られる。まだ自らの体が言うことを聞くようであれば、再度水風呂15分コースだ。
この日は体が全力で「違う」と言ってきたので外気浴に移行することにした。

このお店の外風呂は完全な吹き抜け状態。1月下旬の雲ひとつない青空。まさに「天色」と呼べる爽やかな青さだ。
この頃には脳みそはからっぽになっていて、手足を動かすのも、空を眺めるのも、物思いに耽るのも、脳を介さず脊髄に直接やってもらっている状態だ。

…これか?


新たな仮説

ふと空に目をやると、天色の空の中心に、銭湯のTVに繋がるUHFアンテナとBSアンテナが浮かんでいるように取り付けられているのが目に入った。
彼らは今日もせっせと電波をテレビ塔や衛星から受け取り、銭湯のみんなに娯楽を提供すべくTVに運んでいる。店一番の働き者だ。

最近のアンテナは性能も良い。5Gや、ラジオ波など様々な電波が流れるなか、自分が受信すべき電波をしっかりと見分けている。殊勝なことだ。

それにしても今日は空が青すぎる。彼らは広角で電波を探してくれているあまり、こうも空が青いと心配になってくる。
「もし、僕が彼らのジャマをしていたら」という懸念だ。
今日の僕はあまりにもととのいすぎていて、外気と一体化してしまっている。いや、一体化しすぎている。仮に俺がBSの電波とまでも一体化してしまっていたら、俺が彼らに自らを「送信」してしまっているのだとしたら?
急激な不安に襲われる。

とりあえず、彼らからは見えにくい壁際に移動してみる。
しかし、最近の性能の良い彼らであれば、その程度の遮蔽物の下にいる俺すらもビンカンに電波を感じてしまっているのではないのか?
確かめたい。どうしても確かめたい。俺のナニかしらを受像してしまってないか確認したい。急いで俺は外風呂を離れ、TVのあるサウナ室に戻ることにした。

幸い、TVに写っているのは沢口靖子が衣類の繊維から犯人の足取りを追っている場面だった。
しかし、それだけでは安心できない。
俺が外風呂からサウナ室に入るまでに10秒そこらのタイムラグが発生している。その間に沢口靖子が「大変なことだわ!」となってしまっていたら…
事件の解決に大きなしこりを残してしまう。。。俺は居ても立っても居られず、外風呂とサウナを高速で行ったり来たりしていた。

…どうやらだが、俺が科捜研に出入りしているという事実は無さそうだ。ストーリーの前後の状況でしか判断しようがないが、致し方なくそう結論づけることで自分を納得させた。


ただ、それでも安心は出来ない。
TVのチャンネルの選択権はお店側にあり、他のチャンネルに俺の電波が流れている可能性は否定できないからだ。
QVCならまだしも、カートゥーンチャンネルを無防備な中年男性がジャックしてしまっているのだとしたら、店主の気まぐれで、チャンネルを合わせてしまうのだとしたら…
果たしてTVの自動音声読み上げ機能は俺をみてちゃんと「中肉中背の男の裸」と読み上げてくれるのだろうか…


そんなことを考えながら、これまでになく自分の脳が素早く回転し、様々な可能性を敏感に感じ取って思考を巡らせていることに気づいた。
つまり、今おれは「ととのって」いるのか…?
可能性をひとつ増やす結果になってしまった。

探求は続く


結局、世間一般がいう「ととのう」に関する決定的な考察を得ることは、今日はできなかった。
失意のまま、銭湯を後にすることにした。


冷たい北風が例年以上に肌身に染みる2024年1月下旬、
その風を感じさせないほどぽかぽかとした体。
不要な汗、脂を出してしっとりとなった肌ツヤを、小鼻を右手で触り確かめながら、サウナ後特有、ふわふわと心の荷が取れたような軽い足取りで、ゆっくりと家路に着こうとしている。

「ととのい」の探求は続く。

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