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ペットボトルは、輝いている。

鳥籠の鳥は、外では生きていけないものなのですよ

NHK大河ドラマ「光る君へ」


小学生のころ「エコロジー」という言葉がはやっていたように思う。
廃油から石鹸をつくったり、着古した服を都合しあうフリーマーケットなんかもよくPTA主導で行われていた。

ある日の放課後活動で「ペットボトルで花壇をつくろう」というプログラムがあった。各家庭でゴミになったペットボトルを持ち寄り、上半分を切り取って小さな鉢植えのようにしたり、2Lのボトルをサークル上につなぎ合わせて一つの大きな花壇スペースをつくったり。
子供たちがマッキーを手に取り、ペットボトルに思い思いの絵やマークを描いたり、女子なんかは100均にあるようなスパンコールでデコレーションしたり。そして学校の裏庭に置き、パンジーなんかを植えた。


正直、僕はそれがあまり好きではなかった。
あまりキレイだとは思えなかった。
手元が器用ではなかったので、ペットボトルの口先を切り取るのも一苦労だったし、絵に関しても、夏休みの宿題で書いた自画像を「漫画チックすぎる」という理由で担任の先生から軽く茶化されてから、人前で絵を見せることが苦手になってしまったから、こういった工作の類に苦手意識があったからかもしれない。
ただ、それ以上に「ペットボトルでできた花壇」そのものにキレイさを見いだせなかった。
ある種、親から見ればあんなに"キレイ"な物はなかったのだろうけども。

子供が作ったゆえの不器用さ、とかではない。花壇に置いたときはまだよいのだが、あっという間に色褪せるのだ。くすむのだ。
再利用、なんて聞こえはよいのだが、ものの2-3か月ほどすれば夏の強い日差しに負けて、マッキーの筆圧の弱い部分から薄くなっていき、デザインはあっという間に崩壊していく。
次第に、透き通っていたペットボトルも、まるで着なりのリネンのようにくすんだ色をしていく。土に交じり、薄茶色が沈着していく。
あの「あはれ」さに心を馳せられるほど、小学生の僕には(いや、今でも)感受性豊かな子ではなかった。

シズル感のある果物や、爽快感あふれるデザインが施され、キレイに仕切られたスーパーマーケットの冷蔵庫で、照明に照らされてキンキンに冷えているペットボトル、あれはまさに輝いていた。
物事があるべき姿であることが一番美しい、と子供ながらに感じていたのだと、今は思い返す。



鳥籠の鳥もやがてくすんでしまうのだろうか、
自らの心地よい空間から外風に放たれ、やがて過酷な生存環境に適応できなくなり、サバイブできなくなってしまうのだろうか。
整えられていたツヤのある羽も色を失い、毛並みは荒れ、まるでベッドと壁の隙間に忘れ去られた鼻噛みティッシュのように、木の洞にたたずみ、自然に還っていく命なのだろうか。
果たして彼らにとって輝ける場所とは、環境とは、外とのつながりを持ち、様々なモノコトに晒された先に生まれるものなのだろうか。




心療内科の先生からも、仕事復帰の許可が出た。
睡眠も食事もよくとれるようになり、人とのかかわりは減ったがよく出歩くようになり、妻からも「目に色が戻ってきた」と言われる。

僕の心は、ラベルをはがされ、小学校に連れていかれる直前のペットボトルのように、丸裸のまま、薄らぼんやりと輝いている。

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