みんなの心の「京葉線」が開通しますように。

人はなんのために働くのだろう。

答えは「お金」だ。

というと、流石に単純すぎる。正確に言うと、「自分がやりがいだと思っているモノやコトに対して努力した分の対価」が欲しい。それが尤も目に見えやすい形になったもの、それが「お金」なのだ。

はっきり言って、というか、わたしなぞが言うまでもなく方々で既に言われていることだけれど、「お金」そのもの自体は紙切れ、或いはアルミニウムやら銅やらといった金属の塊だし、価値だって流動的で曖昧だ。

それなのに何故わたしたちがそれを欲しがるかというと、それが「手段」になりえるからだ。

自分が欲しいもの、なりたいものを手に入れられる、その引き換えチケットが「お金」なのだ。そしてその引き換えチケットで、「やりたいこと」がある。

そうなると、結果的にわたしたちは、「自分が成し遂げたいことのため」に「努力した」証として、「お金」が欲しいのかもしれない。最近は、漠然とそんなことを考えている。

正直に言ってわたしはお金が欲しいし、お金が好きだ。別に紙や金属を偏愛しているわけじゃない。先ほども言ったように、それがわたしにとっての「チケット」だからだ。ミッキーマウスに会うためにディズニーランドのチケットを得るように、わたしはわたしの飛び込みたい世界に行くためのチケットとして「お金」が欲しいし、それができる可能性を孕んでいるお金の存在を愛している。

では、わたしの飛び込みたい世界は何なのか。わたしはずっとそれがわからなかった。だから随分と、その「夢の国」のためのチケットを無駄にしてしまった。色々な失敗を繰り返して、漸くわたしにとっての「夢の国」がわかるようになってきた。

今までは、全て自分が悪いのだと思っていた。だからどうにか自分を改善するため、自分を立派に見せるためだけに「お金」を使ってきた。でも、自分の薄暗いところも、汚いところも、見たくなかったところも丸ごとひっくるめて向き合って、たった一人で考える時間を作って、漸く自分が何に囲まれていることがしあわせなのか、何をしているときが幸福なのかがわかってきた。

おしゃれな食事やスイーツが好きだと思っていた。みんながそれを好きだったから。でも、一人で暮らして自分で食事を作っているときに、同じようなものばかり食べているのに全く飽きないことに気がついた。朝はパンと卵と魚もしくは肉類のタンパク質、昼は野菜とタンパク質と炭水化物(米か麺)、夜は納豆と炭水化物(昼に食べなかった方)。そればっかりで、周りには「飽きない?」と言われるけれど、十分満足だった。豪華なフレンチや高級寿司にはさして興味はなかった。フレンチはお招きいただいた結婚式で食べられれば十分だし、寿司は好きだけど普段だったらスーパーで特売だった刺身をご飯に乗せれてわさびと醤油をかければ類似品が出来上がるので、「むしろこっちの方がコスパが良いのでは……?十分美味しいし……」と思ってしまう、非常に安上がりな女である。わたしは自分に必要な栄養が摂れて、味がそこそこ食べられるものであればそれで良いのだなと思った。

ただしこれには前提条件がある。それは「一人の食事である場合」である。外で誰かと食事をするときは、食べログで美味しいお店を探しまくるし(一人で外で食べるときは適当なカフェでできる限り栄養価が高いものを食べる。でもそれはどうしてもお腹が空いているときだけで、大抵は家で特売日に買いだめしたものを食べている)、そこが高くてもお金を出すことは厭わない。何故なら、一緒にいる人に「楽しんで欲しくて」、「その時間を共有したい」からだ。

「人を喜ばせること」「自分の思う楽しいことや喜びをシェアすること」が、結局わたしの中では最優先事項なのだと思う。

あとは健康な身体であること、自分の気分によって適度に清潔に着飾れること(ファッションや美容が好きなので。でも「好きなこと」がわかってスタイルがある程度確立されてきたので、今はそこまで使わないかもしれない)、心地よいと思える街に住めること、時折大好きな京都に行って、日本文化にどっぷり浸かれること、知識を得ることが好きなので興味を持ったことが勉強できたり、好きな本が読めること。

その全てを「成し遂げること」こそがわたしにとっての「夢の国」であり、そのための「チケット」が「お金」なのだ。

そしてそれをどうせ得るのならば、「自分の使命を務めたのと同等」なだけのチケットが欲しい。それを得られれば、さらに自分の幸福度を拡大させられるから。少なくとも、その循環を成り立たせたいがために、わたしはひたすら働くのだと思う。究極のエゴイズムだとも思うし、一方である種の自己犠牲でもある。そんな風に生きていきたいのだと強く思う。

お金が大切か、それともやりがいが大切なのか、ということはしばしば議論される。結論から言うと、わたしは「お金」だけがあればしあわせだとは思わない。でも「やりがい」だけがあっても、それはそれで不満が溜まるだろう。

食べ物に興味がなくて云々、というのはあくまでわたしの場合なので、人によって「成し遂げたいこと」「好きなこと」「やりがい」は違うだろう。でも結局は、誰しもが行き着く先って、この「自分の幸福度を拡大させること」、つまり「自分だけの『夢の国』で遊ぶこと」なんじゃないかなあ、なんてことを思ったりする。

人は、自分の能力や「好き」の気持ちを発揮したくて、その力でそれぞれの「夢の国」に行くためのチケットを手に入れて、さらにしあわせになりたい。そういう欲深い生き物なのだと思う。

でも現実はなかなか厳しくて、一握りの人間の能力しか認められないし、一握りの人しか「夢の国」に行けない。わたしたちがそれぞれの「舞浜」に行くための京葉線は、なかなか見えない。そんなもどかしさで苦しんでいる人がたくさんいる。みんな、それぞれの京葉線を探し求めているのだと思う。

たくさんの京葉線が走って、みんなが自分の「夢の国」に行って、ミッキーマウスみたいな自分にとってのヒーローに会える、そんな世の中になったらいいのに。綺麗事かもしれないけれど、心からそう思う。そう考えながら、わたしも今日はわたしにしかない京葉線を探し求めている。











この記事が参加している募集

お金について考える

サポートは今後の記事のネタ作りにありがたく使わせていただきます。少しでも還元できるように頑張ります!!!!また、「スキ」もしていただけるととても嬉しいです♡