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死ぬまでアート活動をしたい


はじめに


今年の8月から毎週金曜日、必ずnote記事を更新してきたが、気がついたら今年最後の金曜日をむかえた。

大学卒業後すぐに現代アート作家・日比野貴之氏に弟子入りし、2022年8月から活動拠点を名古屋から岐阜県恵那市飯地町へと移した。

今日まで、アートスクール事業の運営に携わらせていただきながら、アート活動を続けてきた。

飯地町からみた景色

ありがたいことに、この一年半、いろんな人に助けられ、わざわざ遠方からお客さんが来てくださるようになり、アートスクール事業も軌道にのってきた。

そんな中、おどろくことに、私自身にも関心をもってくださる方もいて、様々な質問をなげかけていただいた。

なぜ日比野さんに弟子入りしたの?
どうしてアーティストになったの?

そもそも、人様から関心をもってもらえるとはつゆとも思わなかった私は、毎回ちょっと驚いてしまい、きちんとその質問に回答しきれていなかったと反省している。


来年はアートスクール事業も、自分のアート活動も、海外へ展開していく。

今年のお礼と来年からの抱負、そして、ちゃんと皆さんからの質問に答え切れていなかった反省もかねて、「#かなえたい夢プロジェクト」の場をお借りして、自分の思いを表明させていだたこうと思い立った。

ただ、師匠に出会う前後は記憶が前後している部分がある。

それでも、なんとか大学4年生のとき就職活動を始めた話からしていこうと思う。

自分の唯一のとりえ

2年前の秋。大学4年生の私は、就職活動に苦戦していた。とにかく、しんどい。

「良い企業に入るために良い大学に入るんだ。」
そうおもって、苦労して一年浪人までしたというのに…。

まず、いろんな企業説明会にエントリーするため、沢山のエントリーシートを書いていった。エントリーシートは私に問いをなげかけてくる。

あなたの強みはなんですか?
あなたのやりたいことは何ですか?

急に投げかけられた数々の問いに、精一杯答えながら、もう一人の自分が叫んでいた。

「本当に、これでいいのか?」

就職活動を進めていけばいくほど、どんどん気が滅入ってしまい、ついには心身のバランスまでとれなくなっていった。

自分の気持ちが分からない…。完全に「自分迷子」だ。

こまり果てた私は、ネットで就職活動についてやみくもに調べ始めた。
すると、たまたま見つけたYouTube動画で面白いことを言っている人をみつけた。

「今の若者には、就活をうまくいかせるノウハウを知るのではなく、自分の人生をよりよく生きるために『人生の目的』を見つけてほしい。」

「人生の目的」は一生達成されることはないが、生きる上でモチベーションの源泉となる。だから、若いうちに「人生の目的」を設定するのが大事だと…。

就活どころか心までグズグズになっていた私は、わらをも掴む気持ちで、その人の推奨するとおりにやった。

まず、「人生の目的」を設定するために、世の中のことを知るということと、「自分の過去をアーカイブする」ことが必要だといっていた。

過去をアーカイブするとは、自分の過去のことをできるだけ書き出し、分析、整理、検証すること。そして、未来への方向性を決める。

とりあえず、小さいときからの記憶を徹底的にあぶり出し、勧められたとおりに分析してみた。

とはいえ、思い出されるのは、つらい思い出ばかりだった。

周りの子と同じことができずに劣等感で満ち満ちていた幼少期からはじまり、「やべえ、私、人より劣っている!このままでは人間社会で生きていけない!」という焦りから、勉強にかじりついた学生時代…。そして、度重なる受験での敗北…。

「人並み」になるために走り続けていたことばかりが思い出されるなか、唯一、人から褒められたことあった。
それは、自分が「自己表現」をしたときだ。

教科書の音読、発表、作文、踊り、歌など、手段は問わない。自分が何かをして、人に喜んでもらえたのは「自己表現」しかないと気がついた。

思えば、大学時代はポートレートといって人物写真をとる写真家相手に、SNSで独自にモデル活動をはじめるといった、トリッキーな行動に出た。

当時、メンタルもグズグズ、恋愛もダメダメで、このままの自分では世間に出ていけないと焦っていた。
だから、なんとか自分の人生や生き方や課題に向き合おうと、衝動的に「自己表現」という手段をとったのだ。

それなら、「表現者」として生きていくしかないんじゃないか…?

就職という道と迷いながらも、「自己表現」で食っていくにはどうしたらいいのか模索しはじめた。

直面する課題

とはいえ、方法も分からないし、「自己表現」といってもなにをしていいのか分からなかった。

身体表現はやってみたけど苦手だし、工芸も、写真もしっくりこない。とりあえず、片っ端から、気になることを調べたり、話を聞きに行ったりした。

周りの写真家、カメラマン、モデル、作家など、とにかく話を聞きにいったが、正直、一人も納得のいく答えをくれた方はいなかった。

現実的な話はあまりなく、思想や信条を話す人ばかりだった。きっと、自分の活動の方向性が定ってないのだろう。

それだけ表現者の道は大変なのだ。

そんななかで、若い女性の表現者が生きていくのは過酷だ。
若くて女性というだけで、売りたたこうという大人たちが沢山いる。そういうつもりがなくても、「若手育成」と称して若い人を食い物にしようとする人も多い。

とはいえ、最近はあらゆる科学技術が向上し、安く便利なツールやサービスはそろってきている。

Youtuberに代表されるように、ツールを使って自力で稼いでいく人はこれからも増えていくはずだ。

現に、一生懸命表現活動をしている学生はたくさんいる。私の高校時代は、受験勉強をやりぬくことに必死で、自分のやりたいことなんて考えたことがなかった。

だからこそ、私はそうした若い人たちを見ながらうらやましいと思うと同時に、良い時代になったと感心していた。

しかし、問題は、若い人を導く大人がいないということだ。

自分が何をやりたいのか分からなくなっているのなら、次世代のことを真剣に考える余裕はない。

でも、そんな大人ばっかりでいいのか?

私はこのことを無視できなかった。自分がまだ若くて、表現者として、きちんと生活できるようにしたいという切実な思いがあったから、なおさら無視できなかった。

でも、やっぱり方法が分からない。

少なくとも、自分も次の世代の人達も自分なりの自己表現の道を創っていくには、これまでにない方法を探すしかない、ということしか分からなかった。

何かを掴みたくて、思いつく限りのことはやった。それでも、道筋なんてなく、分かったのは、世の中には作り手が損する仕組みがはびこっているということだけだった。

「あなた、アーティストでしょ」

そんなとき、たまたまある起業家がビジネススクールを立ち上げるにあたってオフ会をするという情報を聞きつけて、そこに潜入した。
すると、そこに一風変わった風貌のおじさんに出会った。

その人は「現代アート作家だ」と名乗り、虹色に光る作品を見せてくれた。

フラワー・オブ・ライフ

「ほんとですか!!」

今まで必死になって探していた答えをもっている人がとうとう現れたと思った。オフ会が終わったあと、私はおじさんが帰って行くところを目撃して、あわててあとを追いかけた。

「日比野さん!」

おじさんは驚いていたが、ちゃんと足をとめてくれた。たまたま帰り道が同じだったため、少し話をしながら歩いた。
その後、連絡先を交換し、名古屋に仕事へ行くたびに、お声かけをしてくれた。

会うたびに、たっぷりとアートの話を聞かせてくれた。ありがたいことに日比野さんは、私の質問に対し、すべて丁寧に理路整然と答えてくれた。
びっくりするくらい、いつもちゃんとした答えが返ってくる。これは、今までにないことだった。

そして、インターンシップとしてアートスクールでのワークショップに参加させてもらったり、ミーティングに連れて行ってくださったりもした。

あるとき、日比野さんが私のことについて質問をしてきた。私が今まで何をしてきたのか、これから何を目指しているのか。
日比野さんはこちらが恐縮するくらい、じっくりと話を聞いてくれた。

その日の帰りに「あなた、アーティストでしょ」と言われた。

一瞬ん??と思ったが、私はとっさに「はい、そうです」と答えたのだ。

あれ?今、日比野さんは私に「アート」が向いてるとおっしゃったんだよな…?

「アート」が何なのかすら分からなかったのに、日比野さんの放った一言で、私の人生に「アート」という選択肢が飛び込んできた。

意味は分からなかったが、今までの日比野さんの言動を見ていて、適当なことを言う人ではないと思っていた。

確かに、「アート」の話をたくさん聞かせていただいて楽しかったけど、自分がアーティストになるとは想像していなかった。

日比野さんはこれから展開するアート事業に参加しないかと誘ってくださった。

アーティストかあ…。

後日、どうしようか悩んでいるとき、ふと日比野さんの言葉を思い出した。

「実はnoteを書いたんだよ。よかったら見て。」

普段は人から勧められたものを絶対に見ないのだが、そのときは日比野さんのnoteを調べた。結構な分量があったが、私は丸一日かけて日比野さんの書いたnoteを読み切った。

日比野さんのnoteには、日比野さんのアート活動が記録されていた。日比野さんはもともとアーティストになる気が全くなかった人。それがあることをきっかけに突然アーティストの道を志す話が鮮明に書かれていた。
そして、アート活動を今日まで続けてきた30年の軌跡とこれからの展望。日比野さんの考えがたっぷりと書かれていた。

なにより驚いたのが、日比野さんは自分のアート活動を確立するだけでなく、次世代のアーティストの育成にも取り組んでいたことだ。

出会ってほんのわずかな時間、日比野さんの言動を思い出した。いままで私が会ってきた人とは全く違う受け答えや姿勢、実績。

この人についていけば、自分も次の世代の人達も自分なりの自己表現の道を創っていくためのヒントが分かるかもしれない。

ここで、日比野さんの弟子としてアーティストになることを決意した。

師匠の作品

人生の目標

それから、約2年が経った。大学を卒業し、去年の夏から活動拠点を名古屋から岐阜県恵那市飯地町に移して、アートスクール事業の運営に携わりながら、日比野さん(以下師匠とする)についてアート活動をしている。

現代アート作家になる予定もなければ、アートのことも知らなかった私。
そんな私がこの2年で分かったことは、「この世でアーティストとして生きるのは過酷だ」ということと、「自分は現代アートしかできることがない」ということだ。

「あなたが世間と関わるには、アート以外ない」と師匠に言われたことがある。

アート以外にできることがないだと…!?
当時は驚いたが、今はその事実を受け止められる。

もともと師匠に弟子入りする時点で、「死ぬまでアート活動を続ける」という約束はしているが、辛い2年間を耐えた今は、堂々と言える。

私は死ぬまでアーティストとして生きる、と。

この2年間悔しいことは腐るほどあったが、その分、いろんな人に支えられてきたと実感できる。

困っているときに、助けてくれた人、応援してくれる人、作品を見て喜んでくれる人、いろんな人がいろんな方法で支えてくれた。

アーティストになること自体、全く考えていなかった私は、こんなにも人様が応援してくれるとは思わなかった。
だからこそ、皆さんが応援してくれる分は、自分のアート活動で返そう、どんなに辛くても死ぬまで貫こうと自然と思えた。

アーティストは簡単に食えない。だから、あなたにアーティストなんてできないよと面と向かって言われたこともある。

確かに、アートの道は楽じゃない。でも、難しいからこそ、やる意味がある。

こちらは私の作品。ニホンカモシカの糞を樹脂で固めたもの。

前途多難な世の中。コロナパンデミックから始まり、度重なる戦争と世界情勢も荒れ模様な昨今。日本は比較的穏やかなほうだが、じんわりと世間に不安が広がっていることを感じる。

そんななかで、自分ができることはほんとうに些細なことかもしれないけど、アーティストとしてやるべきことは、前向きな未来を作っていくこと。そして、応援してくれている人に、感謝をきちんと形にして返していくことだ。

だから、生涯の目標として、死ぬまでアート活動を続けることと、若手アーティストの育成を掲げた。

まず、死ぬまでアート活動をするのは大前提として、30年のアート活動の実績をひとつの区切りとして設定している。大学卒業から師匠についたので、自分は53歳になる。
この時を節目に、師匠が私にしてくれたように、若いアーティストを本格的に輩出したいと考えている。

師匠はもっと早く実現するのではないか?とおっしゃっているが、ひと区切りとして、30年という数字は意識していたい。
というのも、師匠が活動歴30年で兄弟子がつき、アートスクールを立ち上げたからだ。そして、30年も経てば、だれも自分のキャリアに文句を言えなくなる。私は日本人で女性という現代アート作家としてはマイノリティなので、次世代の人を育てたいなら、揺るぎない実績は必要だ。

家にやってくるニホンカモシカの親子

来年からの展望

そして、来年は師匠とともに、アート活動を海外へと展開していく。まず、タイのパタヤのギャラリーでアートイベントを行う。もう、日程は決まった。そして、タイが終わったら、バリへ、そして可能ならインドにも展覧会へ行く予定だ。

タイの事業はもともと私のアート活動をメインとしていないが、私もこれを機に、自分の作品を他の国の人にも見てもらいたいと思っている。

しかし、ただ見てもらうだけではない。アート作品の価値をあげていかなくてはいけない。

それには、セカンダリー・マーケットを作っていく必要がある。

まず、アートの市場は、大きく分けてプライマリー(一次市場)とセカンダリー(二次市場)がある。
プライマリー(一次市場)とは、作品が世に出る最初の市場のこと。プライマリーを構成するのは、アーティスト、コマーシャルアートギャラリー、画廊、百貨店、アートフェア等であり、それらが展覧会を企画し作品を世に送り出していく。

そのプライマリーで販売された作品が、購入者の手元を離れて転売され、それらが集まり売買される市場がセカンダリー(二次市場)。

このセカンダリー・マーケットを作っていけるかどうかが肝となる。

セカンダリー・マーケットができるには、どうしたらよいか師匠に聞いたところ、まず、セカンダリー・マーケットに流通させるくらいのたくさんな作品量が必要だといった。そして、美術館が収容するくらいの大きな作品を作れるようにならなければいけない。

それでいうと、私はまだまだ作品量が足りていない。私の作品は現物の自然素材を扱ったり、写真や映像を使ったデジタルの作品もあるが、制作や持ち運びにもコストがかかってしまうという難点がある。

もちろん、今のスタイルの作品は引き続き追求していくが、新たな制作方法を考えていく必要がある。まずは、ペインティングをやろうと考えている。
写真や映像も悪くないが、もっと自分の伝えたいことをより分かりやすくしたい。
ペインティングはやったことがないが、来年の海外展開を機に模索していく。

ヒノキの葉っぱで描いたニホンカモシカ

また、アート活動をしながら、noteも引き続き書いていく。これは、自分の考えを整理するためやアートスクール事業の貢献のためといった直近の目的もあるが、実は、未来で若いアーティストを育てることを見据えて、参考資料を蓄積しておくという目的もある。

私が師匠のnote記事を読んで「この人についていこう」と決意したように、若い人が私が今書いている記事を読んで、なにか発見をするかもしれない。

note記事とは別に、飯地町に来てから毎日記録をつけているが、ちゃんと他の人にも分かるよう整えた文章もコンスタントに書いていきたい。

おわりに

私はまだまだ未熟で、やらなくてはいけないことが沢山ある。それでも、今日まで熱心に指導してくれた師匠や、私のアート活動を応援してくれた方々がいてくれて、本当に感謝している。

おかげで様で、人が喜んでくれるならアートに一生賭けてもいいと、自然に思うことができた。

今年一年、全く予想ができなかったが、来年はもっと予想のつかない未知の世界へ飛び込んでいく。
なにが起こるか分からないが、ベストをつくし、きちんと感謝を目に見える形にしていく。

多くの人が支えてくれたことを忘れずに、来年以降も、アーティストとしてできることを懸命に実行していきたい。


この記事の振り返りをしました。








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