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諦めてから死ぬまでの空間は楽しく

アウトデラックスでのマツコさんとあのちゃんの会話。

あのちゃん
「私は死ぬまでに何をしたらいいのか。」
「マツコさんは死に向かって歩いている。」
「マツコさんは何かを諦めて生きてる。」
マツコさん
「私はいつ死んでもいいと思って生きてるわよ。」
あのちゃん
「なんか、飽きちゃうかなって。」
マツコさん
「飽きたら人間はお終いです。」
「私は生きることに飽きました。」
あのちゃん
「私も諦めそうになるときがある。」
「諦めて生きてる空間に何があるのかな?」
マツコさん
「親父より先に死なないようにしようとは思ってる。」
「親父が死んだらそのときに何を思うか。」
「いつ死んでもいいと思う人間にしか出せないものはあると思うわよ。」
「あのちゃんはどっちを選んだっていいのよ。私はいつ干されたっていいと思ってやってるから。」

だいたいこんな感じだったと思う。細かいニュアンスはどこかで見てもらえれば。


マツコさんもあのちゃんも大好きなので見ていた。
あのちゃんはマツコさんに同じニオイを嗅ぎ取ったらしい。マツコさんはいろんな人から「私と似てる」と思われている気がする。いろんな経験をしてそれを言葉にして、人々の共感を得て。どれほどの人生経験を積んだのだろう。
私も「いつ死んでもいい」と思っている人間だけど、マツコさんとは違う理由なんだろう。世の中には様々な理由があるんだろうな。

いろんな経験をしてもう十分、とか。
全てに興味がない、とか。
生きる意味がわからない、とか。
みんなを見送ったから、とか。
こんな人生やめたい、とか。
思い残すことがない、とか。
飽きた、とか。

それがネガティブな理由でもポジティブな理由でも、まだ死がやって来るまでに時間がある。
あのちゃんが言うように、諦めてしまったその後の空間に何があるのか。たぶん日々の延長。
あのちゃんはまだ若いから、マツコさんは選択できる未来を提示したんだろう。
「いつ死んでもいいと思う人間にしか出せないものはあると思う」というのは「全てを捨てることができる人間は他のヤツとは違う」という意味なのか、「全てを投げ打って打ち込むことができる」という意味なのか、「思うまま自由に表現することができる」という意味なのか。
何にせよ、あのちゃんへの愛が感じられる。

私はマツコさんとはほぼ同世代で、健康の大切さが身に染みて、人生の先にある「死」がもう皮膚感覚で感じられる。カウントダウンは始まっている。
ここ数年、送られてくる喪中はがきは祖父母の死ではなく両親の死が多くなっている。でも両親の死を見届けてから自分が死ぬまで、それなりに長い時間がある。
「諦めて生きてる空間」が。

あのちゃんの言う「諦め」がどんなものかわからないけど、諦めにもいろいろある。
もう無理、とか。
別れ、とか。
期待しない、とか。
受け入れる、とか。
負ける、とか。
許す、とか。

そういえば、そんなことお構いなしな感じで楽しげに生きているおじさんたちもいる。
ヒロミさん、ノリさん、所さん、タモリさん。
何となく良い「諦め」のニオイがする。頑張ることをやめた、肩の力が抜けた、いい感じの諦め。
「死に向かって生きる」それも諦め。
それならいっそ楽しんで、あれもこれもやりたいことを。カッコつけることは諦めて、恥ずかしがってる暇はない。飽きたらやめて、次から次へと。継続は力とか言ってたら死んじゃうから。

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