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映画日記『ボヘミアン・ラプソディー』なにはともあれ曲が抜群にいいのだけどの恨みやつらみのジタバタ

ネットフリックスで『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。今回は二回目だ。ロードショーの際、映画館で大いに感動し、フレディー・マーキュリーとロジャー・テイラーはいまいちだけど、ブライアン・メイとジョン・ディーコンは本人と瓜二つだと思ったのだったが、今回見たら、みんなあんまり似ていなかった。

四人ともカツラを被っているような、どこか浮いた感じに見えた。特にフレディは、日本のモノマネ芸人がやる谷村新司みたいで、せっかくの熱演なのに、どうにもおちゃらけて見えるのだった。

公開から5年くらいしか経っていないのに、変われば変わるものだ。って、変わったのは私の方なのだが。

ジェンダーや少数民族とか、友情や家族愛とか、バンドでの成功と挫折と復活とエイズとかって、いろいろとてんこ盛りの映画なのだが、今回は、何も頭に入ってこなかった。どこかとってつけたような印象を受けたのだった。自宅のテレビ画面で見ているせいだろうか?

暑いからだろうか? 昨日と今日はやけに暑いのだ。公称の気温は36度だけど、私の部屋の温度計は39度を越えている。エアコンはつけているのだが…。

一度見た映画だったが、退屈しないで最期まで見られた。それは、慣れ親しんだクィーンの曲が、絶えず流れていたからだと思う。陳腐なシーン(とても失礼だけど、今回はそう見えてしまった…)でも、曲を聴くことで、目をそらさずに見ることが出来たのだ。

前回もそうだったが、この映画を見ながら、絶えず自分のクィーン体験を思い出しながら、あの時はあーだった、この時はこーだった、などと反芻するように噛みしめながら見ていた。そうやって見ることがこの映画の、正しい見方で、この映画のあの異常な人気は、そういったことの相乗効果でもたらされたのだと、今なら思える。

映画の中身よりも、なんだったら自分の思い出の方が大事だったりするのだ。あの時は、そういうファンが、映画館に押し寄せたのだ。


「キラー・クィーン」が日本でヒットしたのは、私が中学一年のときだ。私はすぐにクィーンが大好きになった。音楽も見た目も画期的に見えたのだ。しかし、当時の日本のロック・ファンからは、クィーンはバカにされ、排撃されたのだった。

クィーンは、ハードロックではないし、グラムロックでもないし、プログレでもない。まして、アイドルポップでもないと、こき下ろされたのだった。特にやり玉に挙がったのが、フレディやブライアンが着ていた王子様のようなひらひらの衣装だった。音楽面も詰め込み過ぎだと散々な評価だった。

よく言われたのが、ルックスもメロディーラインも、少女マンガのようだという言い方だ。少女マンガみたいという表現は、何かを小馬鹿にするときの当時の常套句だった。

学年でもクィーンがいいと公言した男は、私も含めて、数人もいなかったと思う。私は、クィーンの曲は大好きだけど、フレディの胸毛はちょっとと、些細な違和感を表明したのだが、目の付け所がおかしい、お前は変態だと、罵倒されて終わった。ちなみに「お前は変態だ」とか「お前は変態好みだからな」という評価が、その後、10年くらい私についてまわった。

女の子ならともかく、男でクィーンがいいなどと言えば、蔑みの対象となった。しかし、クィーンは大ヒットして、日本では確固たる地位を築いた。それでも、クィーンをバカにしていた連中は、私の知っている限り、最後までクィーンがいいとは言わなかった。

そのクィーンをいいと言わなかった奴らが、急にがクィーンをいいと言い出したのは、この映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしてからだった。この間、約40年もの隔たりがあるのだが、奴らに一体何があって意見を変えるようになったのだろうか? 多分、何もなかったのだと思う。

その点、女性陣はまったくぶれていない。あの頃も、今も、一貫してクィーンがいい、大好きだと言い続けている。

だから許せないのは、意見を変えたオヤジ連中だ。映画がヒットしてた数年前、50代前半ばより上だった連中だ。現在は60を軽く越えているから、オヤジと言うよりジジイだ。そいつらは、さも昔からクィーンのファンだったように、クィーンを語っているのだ。あの頃、クィーンを小馬鹿にしていた連中が、この映画を期に、自分たちのクィーンみたいに語っているのだ。それを見ると、殺意が蘇ってくる。

40年も経っているのだから、普通に考えれば時効が成立しているだろう。でも、私は狭小な人間なので許せないのだ。私は中学生だった時にクィーンをけなした奴の顔と名前を、いまでもはっきりと覚えている。そいつらが、ブログやtwitterでクィーン最高などと書いているのだ。


そんな風に怒りがメラメラと湧いてくるのだが、私だって、クィーンの熱狂的なファンをずうっとやり続けていたわけではない。私は7枚目のアルバムである『ジャズ』まで、クィーンを追いかけて、その後は熱が冷めて、距離をとるようになった。それはちょうどフレディが髪を切り、イメージチェンジを始めた時期と重なる。

その後、1982年にデビッド・ボウイとの共作「アンダー・プレッシャー」を出した時に、少し興味が戻ったものの、やっぱりそんなでもなく、やっぱりクィーンは、過去のバンドだという認識だった。

そんな時期を過ごして、1985年に、特に期待もせずに見たライブ・エイドでクィーンを目撃して、やっぱり最高のライブバンドだと再認識したのだった。

私の場合、ライブ・エイドは、デビッド・ボウイとブライアン・フェリーを見るために、徹夜でテレビの前に陣取っていたのだった。

その頃のクィーンは、解散も噂されていて、私もそうだが、誰も期待していなかったと思う。しかし、その圧巻のステージは、解散の噂をふっとばして、クィーンがまだまた現役のトップバンドであることを印象付けたのだと思う。とにかくクィーンってすごい!って思ったのだ。私だけではない、周囲もみんなクィーンはすごかったねと言っていた。


だからといって私は以前のような熱狂的なクィーンファンに戻ったわけではな。せいぜい、昔のレコードをひっぱり出して、聞き直した程度だった。それでもライブ・エイドの後は、暫くの間、クィーンは、結構、聞いていた。

それから数年してフレディが亡くなった。それまで知らなかった情報が解禁になって、気色が悪いけどフレディ最高!と能天気に思っていた自分を少し反省した。それからベスト盤を中心に、クィーンの音源を初めてCDで買いだしたのだった。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観ていると、そういう個人的な思い出が感情とともに、なまなまと蘇って来るのだった。何かしゃべったり、書いたりしたくて我慢が出来なくなるのだった。そういうふうにこの映画は、往年のクィーン・ファンを突き動かすのだ。


ライブ・エイドの最後、かなりの数の出演者が集まって、「Do They Know It's Christmas?」を歌うシーンがある。1985年のテレビ中継では放送されなかった気がするが、私が憶えていないだけかもしれない。今はYouTubeで見ることが出来る。この中に、ピンクのタンクトップ姿のフレディ・マーキュリーもいる。マイクを持ってソロを歌うこともなく、脇役に徹しているかのような、珍しい光景だ。

フレディ・マーキュリーが死んで、30年以上が経過している。彼はわずか45歳で亡くなってしまった。私は45歳ところか、とっくに60歳を越え、今でもジタバタしている。


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