見出し画像

読書日記 学習参考書のような中川右介の本


中川右介という、本をたくさん出している人がいる。ウィキペディアにはこんなふうに紹介されている。

作家だと私は思っていたが、ウィキでは作家ではなく、評論家で編集者となっている。

中川右介をジャンルでくくるとすると、多分、ノンフィクションなのだと思う。思う、と書いたのは、確証が持てないからだ。

資料を駆使して再構成するという手法に新しさを感じてしまった


中川右介は、それまで誰もやっていなかった手法を用いて、本を書いている。それは、膨大な量の既出本や雑誌の記事から、情報を取り出し、俯瞰するような視線で再編集して提示するという手法だ。

人物取材は、滅多にしない。というより、人物取材をしないで本を成り立たせているのだ。そこが際立っている。

その手法は、明治とか大正時代の作家をテーマにした文学評論に、近いと言えば、近い。その時代の作家だと、当人もその時代を知る関係者もみんな死んでいるので、直接の人物取材は出来ない。だから、何かを書こうと思ったら、文献やそのほかの記録を駆使して書くしかない。そして、そこから、それまでにない新しい像を見つけ出して、新しい本が書かれる。

中川右介も、そんなふうに、資料を駆使して、本を書いている。ただ文学評論と違うのは、俯瞰して提示はするけれど、解釈はほとんどしない。

例えば、『昭和45年11月25日−三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(2010年、幻冬舎新書)という本がある。

三島由紀夫が自決した日に、有名人や一般の人がどのように過ごしていたかを、既出の本や雑誌、記録などを渉猟して、該当部分を抜き出して、注釈のような文で本にまとめたものだ。

かつてのその日が立体的に浮かび上がって来る画期的な試みの本だ。ただ残念なことに、写真も図録もない活字だけの新書だから、年表の中の一日限定のコメント集みたいな素っ気のない印象の本になっている。

また、データーベースソフトで一発検索して、出てきたものに手を加えたような、軽い印象も拭えない。実は中川右介の本には、いつも、このような軽さ、というか、お手軽さがつきまとう。

しかも、中川の場合は、対象となっている本人はまだ健在だし、関係者もみんな元気なことが多い。だから、あえて人物取材をしないことを選んでいるのだ。

芸能がテーマの本が多いせいもあるが、利用する文献も、週刊誌やスポーツ新聞の記事、そしてタレント本が圧倒的に多い。

資料として信頼出来るのか疑わしい気がするが、中川右介は、あえてなのか、気にしていないのか、それらを資料として普通に活用している。

さらに独特なのは、その情報の、ウラトリをしないことだ。引用する前の時点、ウラトリは終了していると見なすのだ。スポーツ新聞やタレント本を全面的に信用している、のかどうかは、わからないが、積極的に採用しているのだ。

中川右介は、そういう本を量産している。中川右介はときどき新しいノンフィクションを開拓した人などと言われることもある。

私は古臭い人間なので、ノンフィクションの基礎には、足で歩いた調査報道みたいな人物取材が必要だ、という考えから抜け出せない。

そういう私から見ると、中川右介の本は、ノンフィクションなのだろうかと、疑問に感じるのだ。人物取材をしないし、ウラトリもしない。それで書かれたものは、虚の上に立てられた簡易住宅みたいに、胡散臭く感じるのだ。

そういう本は、ノンフィクションと言えないのではないか? はたしてこれは新しいノンフィクションなのか? といつも疑問に感じるのだ。


知っていることしか書いてないつまらない本だと思ってしまった


例えば、歌謡曲やマンガをテーマにした本などは、私が知っていることしか書いていないから、面白くもなんともない。

『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』(角川マガジンズ、2014年/角川文庫、2016年)、『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書、2020年)、最近のものでは、『沢田研二』(朝日新書、2023年)などがそれにあたる。

この3冊は、1970年代のサブカルチャーを扱っている。その当時を体験しているコアなファンは、好きな対象に関しては、みんな頑張って情報を収集していた。だから、中川本に書いてあることは、ほぼ知っていることばかりで、改めて本で読むまでもないのだ。

当時を体験した者が読みたいのは、新たな証言や、今だから見えてくること、当時から疑問に思っていたことの答えだ。

特に疑問は、みんなが感じていたことだから、著者の中川右介も、同じことを疑問に思っている。だから、本文の中で、これはどうなのだろうと疑問を表していることが多々ある。

その時点で、関係者はまだ健在なことが多い。だから、取材をして、質問をすれば、答えは出せると思うのだが、中川右介は、基本的に人物取材をしないのだ。だからあの時のあれはどうだったのか?といった疑問は、疑問のまま放置されることになる。

そんなものを読まされた私は、ものすごく欲求不満になる。70年代のアーチストたちは、年齢的にどんどん故人になっていく。日に日に手遅れになって、取り返しがつかなくなっていく。誰かに明らかにして欲しいと思うのだが、中川右介にはそういう危機感も感じられなければ、使命感も感じられないのだ。

だから、中川右介は、70年代に思春期を送った私のような者たちの期待に応える本は書かないのだ。

例によって、私は、中川右介に対して、不満タラタラと、否定的なことばかり書いている。しかし、本屋さんで中川右介の新刊を見つけると、つい買ってしまうのだ。


知らないことが書かれた本は面白く読めてしまった


実は、私が知らないこと、体験していないことに関して書かれた中川右介の本は、抜群に面白かったりするのだ。

中川右介の本は、クラシック音楽、歌舞伎、文学、マンガ、歌謡曲、野球、映画、俳優、と多岐にわたっている。

私は、クラシックには疎いので、クラシック音楽に関する本ならば、とても面白く読めたのだ。『戦争交響楽 音楽家たちの第二次世界大戦』(朝日新書、2016年)や『ロマン派の音楽家たち-恋と友情と革命の青春譜』(ちくま新書、2017年)のような本だ。中川右介の本は、トリビアのような小ネタに満ちているので、クラシックを知らない門外漢でも楽しく読めるのだ。

そして、中川右介の本を読んだ後に、CDを買ってみたり、YouTubeで探したりして、クラシックを聴き始めている。オタク心をそそられるとでも言おうか、中川右介の本は、そういうきっかけになるのだ。

クラシック以外でも、『江戸川乱歩と横溝正史』(集英社、2017年/集英社文庫、2020年)、『松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち』(光文社新書、2018年)や『プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡』(日本実業出版社、2021年)などは、とんでもなく面白かった。

これらの本は、芸能本と違って、もとにした資料も信用が置けそうなものばかりだから、胡散臭さがぜんぜんない。よくそんなことまで調べたなと、感動もするのだ。

読書の醍醐味は、知らないことを知ることだ。その読書の楽しみに、これらの本は、十分、こたえてくれる。読むと、知ることが出来て、それこそためになったなあとか、得をしたなあ、と思うのだ。

だから、私がつまらないと思った『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』や『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』、『沢田研二』なども、70年代を体験していない若い人が読んだら、もすごく面白いと感じるかもしれない。

結論は、中川右介の本は、自分が体験していない時代のことや、関心がなかったテーマを扱った本を読むに限る、ということだ。それらの本は、そのテーマに関することが、網羅されていて、ほとんど入門書のように読むことが出来る。

中川右介の本は、新しいノンフィクションというよりは、新種の教養本とか、学習参考書なのではないか。学習参考書だから、知っていることは読む必要がないし、知らないこと、必要なテーマは、取り入れればいいのだ。と考えながらも、新刊を見つけたら、やっぱり読んでしまうのだっだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?