古墳時代はキラキラしていた! 『(勝手に)アクセサリー展』@東京国立博物館
縄文時代から弥生時代を経て、日本の歴史は古墳時代へと突入していきます。円墳や前方後円墳などが、日本中にボコボコと作られた時代です。弥生時代から考えたら貧富の差が大きくなり、“王”が権力を握り始め、当時は中国から“倭”と呼ばれていた日本列島中で、領土拡大の抗争が絶えなかった“かも”しれない時代です。
考古学での古墳時代は、3世紀の半ばから飛鳥時代を含む7世紀頃まで続いたとされています。「ずいぶん昔の話だなぁ」と思ってしまいますが、東京国立博物館の平成館の考古展示室へ行くと、「こんなものが4〜5世紀に作られていたのか!?」と驚くような、精巧に作られた様々なアクセサリーが観られます。
各地の古墳から出土している、そうしたアクセサリーですが、実は倭=日本列島と古代朝鮮のつながりを示すもの……という指摘を、国立歴史民俗博物館の高田寛太博士がされています。
そんな古墳出土のアクセサリーを観覧しつつ、「それじゃあ、その頃の朝鮮のアクセサリーも観てみたい!」ということで、同じくトーハクの東洋館へも足を伸ばして、日本の古墳時代と同時期に、どんなアクセサリーが朝鮮半島で出土しているかを観てきました。
■日本各地の古墳出土のアクセサリー
考古展示室では江田船山古墳の出土品が、ほぼ常設で、室内のかなり広いスペースを割いて紹介されています。九州の熊本にある江田船山古墳は、5〜6世紀の古墳と推定されていて、銀象嵌大刀を筆頭に、その出土品の多くが一括して国宝に指定されています。
そんな江田船山古墳のほか、様々な場所から出土した遺品の中から、古墳時代のアクセサリーだけをピックアップして観ていきます。個々の大きさは、数センチと、かなり小さいものです。写真は展示物の大きさに合わせてトリミングしているので、大きさを感じたい場合には、背景の布地(生地の縦横の間隔)を観てもらうと、なんとなく分かると思います。
歴博の高田寛太博士は、昔から百済第25代の王の墓、公州武寧王陵から出土した耳飾りと似ていると、昔から言われてきたといいます。そこで、この江田船山古墳の出土品も、百済から贈られたものと推測できます。
そうなのですが、高田博士によれば「その形状や製作技術は、むしろ新羅の耳飾りに系譜を求められる」とし、耳飾りを贈ったのが、百済なのか新羅なのかかについては、もう少し検討が必要とのことです。
解説パネルには「東アジアで広く見られる亀甲文を施し、外面・底面に歩揺とスパイクが付けられます」と記されています。亀甲文……つまりはハニカムですね。金銅を亀甲形に抜いて、それを縫い合わせていったんでしょうか? 作り方は、今後、調べてみたいと思います。
朝鮮半島伝来の葬送儀礼用の沓で、日本列島で独自に大型化する金銅製の先駆けなのだといいます。百済の武寧王陵も、似たような沓が棺台と足坐と合わせて出土しているそうです。
歴博の高田寛太博士によれば、朝鮮半島の百済の古墳から類似の冠帽が出土しているそうです。「全体的な形状や透かし彫りの文様、伏鉢装飾からみて、百済から贈られた可能性が高い」としています。
以下は新沢千塚126号墳の出土品です。新沢千塚126号墳からの出土品も多く、一つの展示ケースにまとめられています。
ここからは、古墳時代装身具の代表である玉類です。古墳時代には、硬玉(ヒスイ)をはじめ、碧玉・水晶・瑪瑙・滑石・ガラス製など様々な玉を使っていました。
もっと、古墳時代の日本=倭と朝鮮半島との関わりを詳しく知りたい人は、以下のYouTubeを観ると面白いです。また、同じく高田寛太博士の論文も公開(PDF)されているので、あわせて読んでみてください。
■古墳時代の朝鮮半島のアクセサリー
トーハクの平成館・考古展示室でアクセサリーを観覧したあとで「そういえば、東洋館にも同じようなアクセサリーがあったな……」と思い出しました。日本の古墳時代、5〜6世紀の古代朝鮮の墳墓から出土したものです。
色鮮やかなガラス玉のビーズと、ヒスイ……硬玉製の勾玉で作られたネックレス(頭飾)です。解説パネルでは、多彩なガラスは、朝鮮半島だけでなく、アジア各地からもたらされたとあります。
このネックレスが出土した居昌は、慶尚南道の西北にあり、加耶(加羅)諸国の一つ「子他(コタとも)」と呼ばれていました。
↑ 解説パネルは「太い耳環に細い環を介し、 歩揺が垂下された2段の装飾が付けられる耳飾り」とし、「比斯伐 (昌寧)の首長を飾った装身具だとしている。
解説パネルでは「古代朝鮮では、金の冠は王の証」だったとします。それら冠のなかでも加耶のは、正面中央に立飾を設けているだけなのですが、トーハク所蔵の本作ではさらに、両側にも草の葉のような立飾が大きく弧を描き、さらに王にのみ許された、葉っぱのような歩揺という小さな金の板を、金糸でぶら下げています。
小倉コレクションを少し調べてみると、中央日報などの韓国メディアの記事が多くみられます。韓国からすれば小倉コレクションは、韓国が日本に併合されていた時代に、小倉武之助さんが、墳墓の盗掘を含む方法で手に入れたもの……という認識のようです。
トーハクには、小倉コレクションが約1,000点……1,000件?……収蔵されているそうです。その中には「朝鮮大元帥兜」高宗(コジョン)が使ったとも言われる「翼善冠」などが含まれているのですが……おそらく上記の問題があって、あまり目立つような遺物は展示されないでしょうね。特に現在は、いわゆる徴用工の問題や、韓国人が対馬の観音寺から盗んでいった仏像が返還されずにいる問題などがあるので、難しいところです。
■古代中国のアクセサリー
トーハクの東洋館には、中国の文物も多いのですが、日本の古墳時代(4〜5世紀)の頃のアクセサリーは見当たりませんでした。その代わり、前4〜前3世紀の中国戦国時代の『蓋弓帽』というものがありました。
『蓋弓帽』は、中国の前漢(紀元前200年 くらい頃)の時代に、位の高い人が乗る馬車のひざ上に付けた傘の飾りに使われていました』と国立歴史民俗博物館では説明しています。
その頃の中国の高官が乗っていた馬車には、日除けなどのために大きな傘が取り付けられていました。その傘の、蛇骨の先に装飾として取り付けられていたのが蓋弓帽のようです。今の傘で言えば「露先」の場所に取り付けられていたようです。そう言われてみると、蓋弓帽の胴の中間に尖った突起があります。ここに傘の生地を引っ掛けていたのかもしれません。ということで、蓋弓帽は、「装飾された露先」ということになります。
日本では、4〜5世紀の古墳時代に、きらびやかなアクセサリーが見られるようになりましたが……さすがというべきか、中国は紀元前の時代から、傘のパーツでさえ、これだけ技工を凝らした装飾がつけられていたんですねぇ。4〜5世紀になったら、どれだけのアクセサリーがあったんでしょうか。ちょっと気になるところです。
■その他の地域の古代アクセサリー
日本、朝鮮、中国と見てきましたが、東洋館にあった他地域の他時代のアクセサリーも見て回ってきました。
今回は整理が間に合わなかったので、今回は写真のみ貼り付けておきます。おいおい整理していきたいと思います。
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