幕末の外交官が、野菜や果実を描いた理由とは? @東京国立博物館
東京国立博物館で絵画などを見ていると、まったく聞いたことがない名前の人の作品が飾ってあることがあります。もちろんわたしが知らないだけで、トーハクに所蔵され展示されているということは、それらの人たちも、かなりの才能を持った人…もしくは作品だということです。
2022年11月13日現在に、トーハクの本館2階に展示されている、岩瀬鴎所という人が描いた『雑花果蓏図』も、そんな作品の一つです。
花や瓜やとうもろこし、えんどう豆などの野菜や果実が一緒に描かれています。「雑花果蓏図」は、作品名というよりも、野菜や果物をたくさん描いた絵のカテゴリー名と言っていいでしょう。トーハクにも、今回の岩瀬鴎所のほか、椿椿山や浅野梅堂などの「雑花果蓏図」があります。
なぜ、こうした果物や野菜を描いたかと言えば、江戸時代の絵画の系譜を、分かりやすく解説しているサイトを見つけたので、そちらを読んでもらえればと思います。伊藤若冲や呉春、狩野探幽などの流れが分かります。
さて、冒頭の岩瀬鴎所の『雑花果蓏図』に話を戻します。
トーハクで作品を目の前にしたときは、「岩瀬鴎所って何者ですか? 有名なんスカ?」という感じで見ていました。ただし、解説パネルには、歴史好きの興味を惹く、気になる言葉が散見されました。
解説パネルでは、まず「鴎所は幕末に活躍した政治家」だと言います。ほほぉ……岩瀬鴎所? なんて人、いたかなぁ……と思いながら読んでいくと、「安政の大獄で蟄居中だった万延元年(1860)に描いた作品」とあります。え? 安政の大獄で謹慎していたって?
安政の大獄と言えば、大老の井伊直弼が、反対派を徹底的に弾圧した事件ですよね。尾張藩主・徳川慶勝や福井藩主・松平慶永、水戸藩の徳川斉昭と慶篤、一橋慶喜などの大名級の人たちは隠居または謹慎、尊王攘夷派の吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内などの大名の家臣レベルの人たちは死罪になりました。
その大獄で連座したのが、岩瀬鴎所こと旗本(幕臣)の岩瀬忠震です。日露和親条約や日米修好通商条約を締結した、実務側のトップと言えます。条約締結の話だけを聞くと、「大老・井伊直弼の意向通りに仕事してるじゃん」という感じです。そうなのですが、一方で岩瀬忠震は、将軍の継嗣問題では、井伊直弼の南紀派と異なる、一橋派だったんですね。
安政6年(1859年)には蟄居を命じられて、隅田川の東側の、向島の岐雲園という場所で書画の生活を始めることになります。
冒頭の『雑花果蓏図』は、そんな岩瀬忠震……岩瀬鴎所が、翌年の万延元年(1860年)に、親友で同僚だった楷堂君(旗本の木村芥舟)の求めに応じて描いたものです。
■なぜ岩瀬忠震は、絵が上手になったか?
岩瀬忠震こと岩瀬鴎所が、絵が上手になった理由は明白です。その理由は、実父の設楽貞丈、の影響がありました。
設楽貞丈(直之助、市左衛門)は家禄1400石の旗本で、妻は大学頭・林述斎の娘。同時に妍芳(研芳)という号で、当時の本草家の間では著名でした。文政12年(1829年・忠震11歳の頃)には、果樹の蒲桃をまとめた『蒲桃図説』、ほかに『龍骨図説』(巻子本)を著しています。
上の写真は、岩瀬忠震の父である妍芳が著した『蒲桃図説』です。トーハクのデジタルアーカイブで見つけたときは驚きました。残念ながら数ページしかありませんでしたが、図譜または図鑑とも言えるもので、蒲桃が写実的に描かれていますね。
江戸時代の後期とはいえ、まだカメラで撮る写真は伝来していない、もしくは一般的ではありませんでした。そこで、植物やその他の自然物を研究する本草学においては、リアルに絵を描く写生技術が必須でした。
本草学の第一人者である妍芳は、自身は絵が不得手だと自認していたため、息子の三郎(忠震)に絵を学ばせました。そのことは、日本初の理学博士である伊藤圭介が、『博物学起源沿革説続』で次のように記しています。
「翁(研芳)自ラ其絵事二疎キヲ以テ次子三郎ヲシテ画学二従事セシメ、本草会アル毎二伴ヒ往テ写生セシム。後終二巧画二至ル。是レ幕末ノ名臣ト称スル岩瀬肥後守ニシテ……(後略)」
忠震は、若い頃から勉強だけでなく絵も学んでいて、妍芳が参加していた、本草学のサークルというかサロンへ一緒に通っていたようです。そうした集まりでは、毎回のお題が設定されていて、お題に即した植物などを持ち寄りました。忠震は、父に連れられていき、そうした持ち寄られたものを記録していったのでしょう。
その父・妍芳に伴われて行っただろうサロンの一つ、「賭鞭会」の参加者には、富山藩主の前田利保(万香亭)、福岡藩主の黒田斉清(楽書堂)をはじめ、佐橋兵三郎(四季園)、馬場大助(資生)、飯室庄左衛門などの旗本、薬種商の大坂屋四郎兵衛(清雅)などがいました。
江戸時代といえば、封建制度のもと、士農工商のガッチリと階級ごとに分断された社会をイメージしがちです。でも、妍芳父子が参加していた「賭鞭会」のように、アカデミックで、かなり自由な雰囲気が流れていたのも事実ですよね。
ちなみに前回のnoteでは、沼津の原宿にある「帯笑園」について記しました。歴代の植松家の当主・が、植物や鉢植えを集めた、東海道で随一の名園と言われたところです。
「賭鞭会」に関連する一人、福岡藩主の黒田斉清(楽書堂)は、「駿府原駅ノ植松与右衛門」のところへ行って……つまり帯笑園へ行って……ある植物を見せてもらってきた、ということを仲間たちに報告しています。
もう士農工商とかに引きづられていない、互いを、本草という一つのことを追求する「仲間」みたいな雰囲気が、とても良いですね。
そうしたアカデミックな環境で、岩瀬忠震は育ったということ。その後の岩瀬忠震は、先述のとおり外交官として活躍します。そして安政の大獄により左遷され、さらに蟄居を命じられるのです。
岩瀬忠震は鴎所と号して、今の墨田区墨田一丁目の「岐雲園」で謹慎生活をはじめます。わたしは、その場所へ行ったことはありませんが、その近くは何度も通りかかったことがあります。ことに、近くを流れる隅田川には、ユリカモメがたくさんいるんです。岐雲園跡を示す案内板には、鴎所という号(ニックネーム)は「隅田川に翔ぶ 都島にちなんでつけたといい」とあります。岐雲園のあるあたりは、一面が田畑といった鄙びた場所で、伊勢物語で在原業平が以下の歌を歌った場所として有名です(いや、場所的には少し異なるのですが……当時の距離感で言えば、同じ場所だったでしょう)。
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥
わが思う人は ありやなしやと
号とした鴎所は、カモメの住処といったような意味でしょうか。鴎所はここで風雅な生活を楽しみ、文久元年(1861年)に44歳の障害を閉じます。
蟄居して2年で亡くなっているので、もしかすると「失意のうちに…」というのが実際だったかもしれません。それでも、重責から解放されて、父と一緒に学究的な雰囲気で過ごした若い頃を思い出しながら、穏やかな最期を迎えたと思いたいものです。
参考文献
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1647/1/sundaishigaku_98_1.pdf
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