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速水御舟←今村紫紅←俵屋宗達……つながっていく楽しさを味わえる東京国立博物館

現在、東京国立博物館の近代絵画の部屋では、下村観山かんざんが推しメンのようです。その下村観山の『白狐』と『修羅道絵巻』が素晴らしかったという話は、以前のnoteで紹介しました。

今回は、そんな下村観山に激賞されたことがあるという、速水御舟ぎょしゅうの話をします。

話をすると言っても、速水御舟ぎょしゅうのことは、先週まで全く知りませんでした。ただ、以前のnoteに記した通り、逃げるようにトーハクの近代絵画の部屋(18室)へ入り、下村観山などの絵を見つつ、実は速水御舟ぎょしゅうの『比叡山』という作品にも「え? これもいいじゃん」と歩を止めたのが、初めての出会いです。

近代美術の部屋は「18室」です

■速水御舟ぎょしゅう『比叡山』

速水御舟ぎょしゅう『比叡山』大正9年(1920)・絹本着色

その時に撮ったのが上の写真です。急いで撮っていることもあって、ちょっと斜めになってしまっていますね。場所のせいと暗めの藍色メインの絵なのとで、やたらと映り込みが多いです。ただ、ちょうど後ろに、ほぼ常設されている高村さんのおじいさんの『老猿』があるんですよね。それが真ん中に映り込んでいるのが、個人的には気に入っています。

速水御舟ぎょしゅう『比叡山』大正9年(1920)・絹本着色

わたしは、やわらかい輪郭の絵が好みのようで、この絵をパッと見た時にも「いいね」と思ったのは、このモヤッとした感じなんだと思います。タイトルに比叡山とあるので、比叡山なんでしょうけど、別にタイトルは『裏山』とかでも良かったですよね。あと、朝なのか夕方なのかも分かりませんが、わたしは朝の絵なんだろうなと勝手に思っています。

で、そのパッと見た時に「これって(わたしの好きな)東山魁夷じゃない?」って思ったんですよね。このモヤ感が、小学生の頃に教科書の表紙で慣れ親しんだ、東山魁夷っぽいなと。

速水御舟ぎょしゅう『比叡山』大正9年(1920)・絹本着色

この林を描いたところとか、“っぽい”じゃないですか。それで「速水御舟ぎょしゅうって知らないなぁ」って思いつつ、さっきWikipediaで「東山魁夷と関連していないのかな?」と、調べてみました。そうしたら東山魁夷との関係は記されていませんでしたが、今村紫紅しこうさんが兄弟子で仲が良かったようです。

■速水御舟ぎょしゅうの「青の時代」

速水御舟ぎょしゅうさんは浅草橋で生まれて、1908年に近所にあった、松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門したそうです。そこで大和絵や俵屋宗達、尾形光琳などを模写しまくっていたんですね。

さらに同じ画塾の仲間と団栗会(どんぐりかい)を結成して、近郊を写生散歩して回ったと、Wikiに記してあります。

『比叡山』からは、その写実性をあまり見受けられませんが、異なる時期や作品によっては、存分に表現されているのかもしれません。大和絵や琳派の先達の作品などを経て、西洋画に刺激を受けた速水御舟ぎょしゅうですが、きっと西洋に触れつつ、葛飾北斎などの浮世絵にも影響を受けたことでしょう。

『比叡山』の色合いを、わたしは藍色っぽいと感じましたが、速水御舟ぎょしゅう自身は「群青色」と表現していました。同じくWikiには、どこかの書籍からの引用でしょうが、次のように言っています。

1918年(大正7年)頃の作品には、青を基調とした作品が多い。御舟はこの頃の自分を「群青中毒にかかった」という言葉で表現している。

この群青色は、やっぱり藍色で、藍色といえば葛飾でしょう……と思うのは短絡的でしょうかね。もしかするとピカソがそうだったように、青の時代は誰にでもあるのかもしれません。

■画塾の先輩は今村紫紅しこうさん

速水御舟ぎょしゅうさんが通っていた安雅堂画塾ですが、この時の先輩に今村紫紅しこうさんがいました。画技の部分でどれだけの影響を受けたか分かりませんし、もしかすると影響を与える方だったかもしれませんが、今村紫紅しこうさんとは後々まで関係が続いていきます。

今村紫紅しこうさんと言えば、わたしの中では最近見た『熱国之巻(朝之巻)』が印象深かったです。

今村紫紅『熱国之巻(朝之巻)』(部分)・大正3年(1914)・紙本着色・東京国立博物館

今村紫紅しこうさんも同じ画塾に通っていたということで、大和絵や琳派の作品を模写しまくったことでしょう。それを意識してなのか、この『熱国之巻(朝之巻)』の解説パネルには、次のように記しています。

紫紅は新しい日本画の創出をめざし、この絵巻によって、単純化されたモチーフや明瞭な色彩と金による光の表現で、日本画の表現方法がもつ可能性をふくらませたといえます。

解説パネルより
今村紫紅『熱国之巻(朝之巻)』(部分)・大正3年(1914)・紙本着色・東京国立博物館

またWikipediaからの引用になりますが、今村紫紅しこうさんが(茨城県)五浦(の岡倉天心の元)に着いた晩のエピソードが記されています。

岡倉に「君は古人では誰が好きですか」と訊ねられると、即座に「宗達です」と答え、岡倉に認められるきっかけとなった。当時、宗達は光琳の影に隠れて余り知られておらず、紫江の日本画への造詣の深さを窺わせる。またこの逸話は、宗達が再評価されるきっかけとなった逸話としても知られる。

Wikipediaより

いずれにしても明治から大正にいたる時代の美術界では、西洋画に憧れるトレンドと、逆に日本画……特に琳派がすげえよという流れがぶつかりあっていたのかもしれません。

今村紫紅『熱国之巻(朝之巻)』(部分)・大正3年(1914)・紙本着色・東京国立博物館

■俵屋宗達などの琳派からの影響

速水御舟ぎょしゅうさんや今村紫紅しこうさんの若い頃に、模写した作品は、正確には分かっていません。もしかすると両名の模写作品が残っていて、知っている人は知っているのかもしれませんが、ネットを調べた限りは、出てきませんでした。

そうした正確性は置いておき、東京国立博物館トーハクには、琳派の作品も多く収蔵されていて、いつ行っても、琳派と呼ばれる人たちの秀作が飾られています。

例えば2022年12月上旬現在は、本館2階に上がると、俵屋宗達の『龍樹りゅうじゅ菩薩ぼさつ像』が展示されています。わたしからすると、彼の代表作……というか良く知られている作品『風神雷神図屏風』(トーハク蔵)とは印象が全く異なる作品です。

龍樹りゅうじゅ菩薩ぼさつ像(部分)』江戸時代・17世紀・紙本墨画・広田松繁氏寄贈・東京国立博物館

宗達一派の水墨人物画には、中国の版本『仙仏奇踪』万暦30年(1602刊)に図様を求めたものが多く、本図もその一つです。同書は成立後まもなく舶載され、いち早く宗達らに取り上げられました。 蓮華上に座す2世紀のインドの高僧を親しみやすい筆で描いています。

解説パネルより

そのほか今年の夏には、『兎と桔梗図』が展示されていました。いずれも水墨画なので、地味な感じですが、よく見れば植物の描き方などが宗達っぽいのかもしれません(分かりません)。

ただし、白黒ならではなのでしょうが、兎の目がかわいく描かれていますよね。解説パネルには「兎の見上げる視線の先には明るい月が暗示されています」とありましたが、現代の漫画家などが描く、ちょっと擬人化された……感情を有しているような、ちょっとかわいい感じに描かれています。

『兎桔梗図』俵屋宗達筆 | 江戸時代・17世紀 | 紙本墨画・川合玉堂氏贈・東京国立博物館

シルエットの桔梗と淡墨に包まれて白く浮かび上がる兎。月に照らし出された秋の野辺を思わせ、兎の見上げる視線の先には明るい月が暗示されています。俵屋宗達は、兎と月を組み合わせた作品を他にも描いており、月下の兎は得意のテーマでした。

解説パネルより
『兎桔梗図』俵屋宗達筆 | 江戸時代・17世紀 | 紙本墨画・川合玉堂氏贈・東京国立博物館

■原富太郎や井上馨にもつながっていきます

速水御舟ぎょしゅうさん、今村紫紅さん、俵屋宗達さんなどの“つながり”を辿っていきましたが、今回メインで紹介している速水御舟ぎょしゅうさんについては、もう一つのつながりを記しておきたいんです。

これもWikipediaネタなのですが、トーハクには速水御舟ぎょしゅうさんの『萌芽』という作品が所蔵されています。

速水御舟ぎょしゅう『萌芽』

まだ実際には見たことがありませんが、この『萌芽』を、最初に購入したのが、美術家のパトロン・コレクターとしても知られる実業家の原富太郎(三渓)さんなんだそうです。Wikipediaには「これを契機として原から援助を受けるようになり、原は以後、御舟の最大の後援者となる」と記されています。

そして、この富岡製糸工場などを経営していたこともある原富太郎さんは、こちらもトーハク所蔵の国宝の『孔雀明王像』があるんです。

『孔雀明王像』(複製)

実物も見たことがあるのですが、上の写真は複製品です。これを個人で所蔵していたって……すごいな、って思いますよ。どこに飾るのか? 飾らないのか? さらにこの『孔雀明王像』は、井上馨から買い求めたものだと言います。

まぁこうして、美術の系譜を具体的な作品を見ながら辿れるのが、トーハクの魅力の一つだと思います。はじめは作者の名前を見ても、知らない人だらけでしたが、徐々に「ほほぉ〜……今村紫紅さんですか……宗達さんの影響を受けた方ですねぇ」なんて、いっぱしの美術愛好家になるまでに、そう時間はかからないかもしれません。そんなヤツになりたいのか? というのは置いておいて。

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