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下村観山の大作『鵜(う)』がドドーン! と展示されています @東京国立博物館

東京国立博物館(トーハク)に展示中の、1915年に横山大観や下村観山42歳、今村紫紅、小杉未醒が描いた《東海道五十三次絵巻 巻7》を、先日のnoteで記しました。

横山大観や下村観山、今村紫紅は、岡倉天心が主催していた頃の日本美術院の同門です(小杉未醒だけは再興された日本美術院から参加)。菱田春草などを加え、谷中から移転した先の茨城県五浦(いずら)では、家族以上の時間を一緒に過ごしたはずです。


■下村観山の『鵜(う)』とは?(9月1日まで展示)

トーハクには、日本美術院のメンバーによる作品が多く残されています。現在展示されている《東海道五十三次絵巻 巻7》の隣にも、下村観山、横山大観、その弟子の大智勝観が観られるのですが、その中でも今回のメインを張っているのが、明治45年(1912)に下村観山が描いた屏風絵《鵜(う)》です。

下村観山《鵜》明治45年(1912)

右隻には、海を見つめる鵜が、羽を広げて立っています。その視線の先にあるのが、左隻にポツンと描かれている、飛翔する一羽の鳥。トーハクの公式Facebookでは、同画を次のように解釈しています。

無限の空間に飛び去ろうとする鳥と絶叫するかのように岩上で見送る鵜。そこには38歳の若さで他界した学友の菱田春草(ひしだしゅんそう)に対する観山の悲痛なる哀悼の辞が込められいます

トーハクの公式Facebook
下村観山《鵜》右隻
下村観山《鵜》右隻

東京藝術大学の「藝大アートプラザ」公式Webの記事でも、下のように亡き菱田春草に捧げた絵だとしています。

(菱田春草が亡くなった)翌年に開催された菱田春草追悼展では、観山は「鵜」を発表して亡き友の霊を送ります。次第に遠ざかる一羽の鵜(春草)を見送る、岩頭でひときわ高く哀惜の叫びをあげる鵜(観山自身)。すべては省略され、悲しみの絶叫だけが伝わるこの絵には、もはや技巧に走って描きすぎる観山はなく(中略)これほど鮮やかで新しい空間の創造があるだろうかと周囲を感嘆させました。

「藝大アートプラザ」公式Web
下村観山《鵜》左隻
下村観山《鵜》左隻

ところでわたしは、鵜(う)という鳥を間近で見たことがありません。鵜のイメージといえば、岐阜・長良川の「鵜飼(うかい)」。潜って魚を捕ってくる鵜を、ニュース映像では見たことがある程度です。

だからということもあり、下村観山《鵜》を見て「鵜って、こんな岩の上に立っているものなんだ」と思いました。なにせ上記のようなイメージしかないので、鴨のように、たいていは水の上にいるものとばかり思っていたからです。

インターネットで下村観山の《鵜》を調べていたら、トーハクには、下村観山が鵜を描いた作品が、もう1作ありました。また岡山の両備檉(てい)園記念財団には、トーハクの《鵜》に似た、下村観山が大正5年頃(1916)に描いた屏風絵《鵜(う)》が所蔵されているそうです(以下に小さい画像で見られます)。

これをもって「下村観山は鵜が好きな画家だった」とは言えませんが、「なんで鵜だったんだろう?」とは思います。

そうしてインターネットをさまよっていたら、岡倉天心や下村観山などの弟子たちが日本美術院の移転先として選んだ、茨城県の五浦(いづら)からクルマで30分くらいの場所に、国民宿舎「鵜の岬」があることを知りました。そして国民宿舎の隣には、「ウミウ捕獲場」というのがあるじゃないですか。日立市の観光物産協会のサイトには、次のように記されています。

全国唯一のウミウ捕獲・供給地であり、ここで捕獲したウミウは岐阜長良川鵜飼いなど全国11箇所の鵜飼地へ供給しています。

日立市観光物産協会

えぇ!? あの長良川の鵜って、長良川で育っていたんじゃないんですねw ずっと、鵜は、川に棲んでいるものとばかり思っていました。

その日立の「ウミウ捕獲場」が、次のようなところです。

ここは、下村観山の《鵜》のイメージに近い、大きな岩がありそうな気がします。なにより鵜がいますからね。ということで、かつて過ごした五浦(いづら)からも遠くない、この地を思い起こして描いたのかもしれないなぁと思ったのでした。

■横山大観と竹内栖鳳(せいほう)が並ぶ

横山大観と竹内栖鳳の絵が並んでいました。横山大観の《松並木》と、竹内栖鳳の《保津川》です。

下村観山の大作の隣に配置されているせいか、2人の巨匠の作品が、かわいそうなくらいに目立たない気がしました。

しかも横山大観《松並木》は、これ一幅だけで完成されたものでしょうか? なんとなく十幅くらいある連作のなかの一幅……なんじゃないかという気すらします。

左:横山大観《松並木》大正2年(1913)
右:竹内栖鳳《保津川》明治時代・19世紀
竹内栖鳳《保津川》

西洋画っぽい陰影をつけつつ、画題は日本の風景というか水墨画で描かれそうな構図ではないでしょうか。

こちらはなんとなく、殿の松平定信の命によって西洋画を学び、殿といっしょに回った日本各地の景勝地を描いた、谷文晁と似たような作風になっているような気がしました。

■横山大観の弟子・大智おおち勝観の優作

暑い日だったこともあって、大智おおち勝観の《聴幽(ちょうゆう)》を観た時には、涼し気な感じが心地よかったです。近くに展示されている師匠の作品よりも良いですね……暑かったからかな。

大智おおち勝観《聴幽(ちょうゆう)》大正3年(1914)

■平櫛 田中(ひらくし[1]〈又は ひらぐし〉でんちゅう

明治末期から大正初期にかけて、東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。東京藝大構内の六角堂に、田中作の「岡倉天心像」が安置されており、天心を敬愛していた田中は藝大勤務時代には登校のたびに、この自作の像に最敬礼していた。


平櫛田中は岡山県生まれ。 高村光雲らの影響を受けながら独学し、 明治40年(1907)岡倉天心の意向を受けて米原雲海・山崎朝雲らと日本彫刻会を結成しました。本作は、大正3年の再興第一回院展への出品作。写実的な表現が高く評価されました。

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