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展望台の日なのでタワーについて

10/1は展望台の日らしい。
この情報は全国タワー協議会のホームページで見つけた。全国タワー協議会とは全国にある20の展望塔が加盟している協議会で、加盟タワー限定のナボナを作ったりタワースタンプラリーを行ったりしている。協議会についてそれ以上の情報は知らないが、タワー好きの憧れの組織だ。

私はタワーが好きだ。全国タワー協議会加盟のタワーだけでなく、鉄塔や貯水塔や管制塔や灯台とか、たいていの塔やタワーが好きなんだけど、展望台の日なので展望塔(以下タワー)について書く。

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タワーはシティーボーイ

タワーには景色を眺める用途以外にもいいところがたくさんある。その中でも、とにかく見た目がかっこいい。東京タワーみたいな鉄塔型やあべのハルカスみたいなビル型、函館の五稜郭タワーみたいな独特な造りのもの。タワーには色んな種類があって見ているだけで楽しい。そしてそれらがどんな姿であっても、”大きいことは正義”だと無言で納得させられる美しさがある。東京タワーを真下から見上げてみると、分厚い鉄骨が無限に空へと積み重なっていくみたいで何回見てもクラクラするほどかっこいい。

あともうひとつ鉄塔型のタワーには魅力があって、それはシティボーイなところだ。鉄塔と同じように鉄でできている工場の夜景なんかを眺めていると、ふと自分がジャングルにでもいるような動物の生ぬるい息を感じる瞬間がある。まあそれはそれで好きなんだけど、タワーにはそういう感じがない。破格に大きいくせに何かすかしてるというか妙なこなれ感があって、都市にいい感じに馴染んでいるような気がする。けどそんな気がするだけでやっぱり大きすぎて浮いている感じもいい。

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タワーの余生

つい最近、タワーの中に虚無を感じるようになった。

タワーは大きい。
周囲の縮尺を吹っ飛ばしてべらぼうに大きい。そんなものを地域に作ろうとした場合、計画段階から大勢の人間を巻き込んで進めていくことになる。そして建設が始まったら工事現場からはみ出した鉄骨を見るために人が集まったり、日に日に伸び続ける姿を定点観察したりする人も現れる。そうして長期にわたって盛大に見守られながら育ったタワーは、完成したその日に人生の一度目のピークを迎えるのだ。

もちろんタワーとしてオープンした後が人生のスタート地点であることはわかっている。けどそれは余生としての第二のスタートなのだ。幼かった頃を思い出しながら、隠れることもできず都市の中で客を迎え入れるタワーの余生。そんな風に超絶無駄な想像力を持ってタワーの中をうろついていると、どこからか虚無の匂いが漂ってくる。

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タワーは現代の古墳

この虚無と同じようなものを、古墳で感じたことがある。古墳は墓なので、そこには必ず誰かの死がある。とはいっても遠い昔の知らない人の墓なので感情を強くかき乱すような場所ではなく、ここで生まれる感情は陶酔に近いものじゃないかなと思う。それでも生きている側から死を眺めたとき、多かれ少なかれそこには必ず虚無がある。私たちが古墳の中を覗くとき、意識の有無に関わらず虚無が存在しているのだ。タワーは古墳とは違って誰の墓でもない。けどそこに漂う虚無の匂いが確かに似ている。また大きすぎるという点も似ているからか、虚無を感じて依頼、私にはタワーが現代の古墳に見えてしまう。

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タワーは楽しい

展望台の日なのでタワーの良さを伝えようと思ったのに、虚無とか古墳とか書いてしまった。でもまあ街のシンボルでちょっと影のあるタワーとか、ちょっと惹かれませんか。 家の近くにあるタワーに上って景色眺めるのもたまには楽しいかもしれません。


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*今回は縄文の話題に触れなかったので加曽利貝塚の鉄塔を載せておきます

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