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宗教を学ぶ意義

宗教の始まりという観点から、宗教を学ぶ意義について考える。宗教を学ぶ意義は、「支配を知り、疑うことができる」である。この結論に至るために、まず宗教の始まりを「余剰」という視点から捉えることが必要だ。つまり、経済学における「余剰」という概念が宗教を生んだということだ。具体的には、主人が労働者を働かせると、余剰が生じる。この余剰を蓄積するためには支配体制が必要である。この支配体制を正当化するために宗教が生まれたのだ。また、宗教だけでなく国家も生まれた。つまり、宗教の存在意義は支配の正当化である。したがって、宗教の始まりという観点から、宗教を学ぶ意義は「支配を知り、疑うことができる」である。[1]

 次に、日本の社会という観点から、宗教を学ぶ意義について考える。宗教を学ぶ意義は、「日本の反知性主義に抗える」である。今の日本では反知性主義につながる冷笑主義が蔓延していると考えられる。具体的な例として、若者の間での「宗教」という言葉の使われ方についてである。「宗教」という言葉は、自分の想像を超えた執念を揶揄して使われる。ある先生に感化され、学生同士で勉強をがんばるために、勉強会などを開いた場合にその熱量を見下しながら「宗教」と烙印されるなどである。宗教について学べば、宗教に対する否定的なイメージが払拭され、熱量をもって何かに取り組むことが恥ずかしくなくなるだろう。こうしたことが、冷笑主義や反知性主義を打ち破っていく。

 次に、世界の宗教という観点から、宗教を学ぶ意義について考える。宗教を学ぶ意義は、「外国人と対等に話すことができる」である。多くの外国人がなんらかの宗教を信仰していることを考えると、外国人と対等に話すためには宗教についての知識が必須である。例えば、知識がなければ、神を信じている相手に対し、私は無神論者だと率直に言ってしまうと、相手を不快にさせてしまうことがある。ほかにも、ハラールとハラームの違いがわからなければ、ムスリムの友人に飲食店を紹介することもできない。つまり、宗教に関する知識を持っていることは、対話をする上での前提であり、語学力は二の次である。

 最後は、宗教とビジネスという観点から、宗教を学ぶ意義について考える。宗教を学ぶ意義は、「搾取されないようになる」である。かつて、ローマ教皇がサン・ピエトロ大聖堂を建築するための資金集めとして免罪符を販売した。これは宗教を利用したビジネスであり、搾取でもある。宗教について学んでおくことで、支配者から騙されることが少なくなる。

 以上が、宗教を学ぶ意義である。



[1] ヤニス・バルファキス『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社、2019)当該34ページ。

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