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家業を継ぐ、ということ

わたしの実家は手芸店だった。

過去形なのはもう存在しないから。長男であるわたしが家業を継がず、弟もまるでその意思を持っていなかったため廃業したのである。

名古屋の南部を走る名鉄常滑線。その起点となる神宮前駅からひとつ目、豊田本町駅の西にそびえ立つトスカショッピングセンター。いまでは好事家たちの間では廃墟モールとして愛でられている。失礼な話だ。

いまのトスカからは考えられないが、かつて1階は専門店街だった。その一画を借りて店を出していたのがわたしの実家の手芸店である。

主力商品はボタンと毛糸。ここに編み針、刺繍用品、ミシン用品、各種生地、パンヤ、ハサミやアイロンなどかなり幅広い商品が加わる。

昭和の40年代から50年代にかけて、町の人はいまよりも衣類や物を大切にしていた。破れれば縫い、壊れれば直し、ひとつの商品をできるだけ長く使うことが普通であった。

また「手作り」と「既製品」の線引きがはっきりとしていた。

手作りといえば当時の女子高生はおでんが似合う季節になるとこぞって毛糸を買い込み、やれクリスマスだ、やれバレンタインデーだと心浮き立つイベントの度にすきぴにプレゼントするセーターなどをせっせと編んでいた。

一方で既製品のズボンやセーターのボタンが取れたといってはご来店されるお客様はひきもきらずだったが、あいすいません既製品のボタンは流通していないんですよといいながらできるだけ近い色やサイズのボタンを探すのがもはや伝統芸の域に達していた。

わたしの実家の手芸店も順調に売上を伸ばし、最初1店舗だったがどんどん手狭となり、とうとう「手芸毛糸」と「コットン・ボタン」の2店舗展開へと成長を果たした。

それに伴いハヤカワ家の暮らしぶりにも変化が訪れることになる。公団住まいはマンションに、日産ローレルはトヨタマークⅡグランデに、お弁当のおかずは鯨肉からサイコロステーキに変わっていった。

店員さんを2人も雇った。2人とも幼いわたしをたいそう可愛がってくれた。出入りの問屋はわたしのことを「若」あるいは「三代目」と呼んで時折帝王学のようなことを吹き込んだ。

晩ごはんの食卓では父がその問屋の癖のある口調を真似てしゃべり、母が大笑いし、つられてわたしも弟も笑った。

父も母も幸せそうだった。

その頃のトスカは地域にとってなくてはならない商業施設だった。人が集い、憩い、買い物をし、明日の活力を養う場所であった。

夏になれば盆踊り、正月は凧上げと餅つき大会。地域の人々はトスカの店内に流れるBGMで季節の訪れを知ったものだ。

まさしく豊田本町のランドマーク。新しい暮らしの提案も、最先端のカルチャーも、生活に欠かせない食料品や医薬品も、ないものはないといっても過言ではない。

トスカは地域の夢であり希望だった、とは言い過ぎのように思われるかもしれないが、間違いなくそういう時期はあったのである。


高校生になったわたしは暇を見つけては店に立つようになった。決して向かいのレコード屋でバイトをはじめたジュンコが目当てではなく、ほしいものがたくさんあったからだ。

エレキギターもほしい、原付バイクもほしい。ディスコにも行くしタバコも吸う。免許を取ったらクルマに乗るからガソリン代も。その頃のわたしの物欲はおそらくいまの30倍はあるだろう。とにかく金がいる。

いま思えばバブル前夜。世の中全体の景気は悪くなかったはずだ。しかし店頭に立つと幼い頃のような勢いは感じられなくなっていた。

特に年末。昔は昼間に母が店の上にあった公団の部屋に戻ってくるなり倒れ込み、ただひと言「戦争だ…」といったきり意識を失うほど忙しかった。忙しすぎて膀胱炎にもなった。

仲良くしていた店員さんも「朝、一人目にいらっしゃいませといってから閉店の音楽が流れるまでまばたき3回ぐらい」というほどである。

そしてたった3日の年末年始休暇を楽しむのが慣習だった。

それがどうだ。店舗拡張の際に父が東京まで行って仕入れてきたクリスマスのオーナメントにほこりがかかっている。日中のお客さんは二桁いくか、行かないか。たまに賑わいを見せるのはワゴンセールだけだ。

「チッ、ただ同然になると群がりやがって」と毒づくわたしを「ただ同然のときに来るお客さんほど大事にせないかん」と父はたしなめた。

ある大晦日の夜。所用で早めにあがった父の代わりにレジを締めたわたしは愕然とした。

一日の売上が1300円なのだ。

大晦日の日に毛糸玉を大量に買う客がいないことぐらいわかっている。単価の高いサテンの裏地を何メートルも所望する客だっていないだろう。しかし、それにしてもである。

テナント代として支払っている金額の中の電気代にもならないんじゃないか。

わたしは恐ろしくなって、なぜこうなったかを足りない頭で考えた。ひとつはDCブランドブームである。80年代初頭に日本を席巻したDCブランドブームは、東京から遅れることほぼ1年半で名古屋にもやってきた。

わたしが通う高校は比較的裕福な家庭の子息が多く、ボンボンの中には高校生の癖にCOMME CA DU MODEやNICOLE、Y's、MEN'S MELROSE、arrston volajuなどを着て夜な夜なMAHARAJAに出没する輩もいた。

こうなるといくら太番手の毛糸でざっくり編んだオイルセーターを風間トオルあたりが着こなしたところで太刀打ちできない。

そしてもうひとつ。東急ハンズという黒船の襲来である。圧倒的な品揃えと集客力を誇る東急ハンズが名古屋屈指の繁華街、栄に店舗をオープンさせたのは1986年11月のこと。

当然、手芸用品などお手のものである。しかも東京からやってくる最先端の、最新の商品をフルラインナップで揃えている。

それまでうちの店の商品を時にありがたがったり、時に仕方ないという表情で購入してくれていたお客さんがこぞってハンズに流れていってしまった。

その結果の、1300円なのである。

これを地方で小売店を運営する経営者の怠慢と決めつけるのは簡単だ。勉強不足と罵ることもできる。時代遅れと鼻で笑われても仕方ない。

しかしわたしは、決してそうではないことを知っている。父は父なりに企業努力を重ねていた。できる限りの品揃えや価格面での工夫を凝らしていた。

その姿を横で見ていたわたしは、地方の小さな商店をかくもたやすく無力化する東京発の流行のようなものを憎んだ。抗うことのできない大きな力に違和感を覚えた。

憎んだのち、違和感を覚えたのち、それもまた違うな、と思い直した。

同時にわたしは、もしかしたらこの店を継いではいけないのではないか、そんなふうに思った。ごく自然に、ごく当たり前に。

代がわたしに変わったところで、状況が好転するとは思えなかったし、なにか妙案があるわけでもなかった。

この店を継がないということは、すなわち地下食料品売場乾物屋の娘で幼なじみの美奈子ちゃんと結婚できる確率は小数点以下になるだろう。しかしそんなことは言ってられない。

わたしは、この店を継ぐ、という人生のオプションをその時に捨てる決意をした。そして翌々年の春、何をするかも決めないまま上京し、東京発の流行のようなものの栄枯盛衰を追いかけながら、37年の月日をただ茫漠と過ごしたのである。

家を出てから父も母も一度も「帰ってきて店を継いでほしい」とは言わなかった。帰ってこいとは言っても店を継げとは言わなかった。本当は言いたかったのかもしれないが、ついに聞く機会はあらわれなかった。

上京して20年と少し経った頃、店を畳むという連絡を受けた。ネットベンチャーで忙しく働くわたしは「そうか」としか言えなかった。

わたしは常に、傍観者であった。


なぜこんな話を書いたかというとネタがなかったからではなく、先日、フォローしている木村石鹸の木村社長のnoteを読んだからだ。

めちゃくちゃいい話なのでみなさんにも読んでほしい。

木村社長は四代目である。
いわゆる家業を継いだわけだ。

noteにも書いてあるが子どもの頃から後を継ぐように言われ続けてきたらしい。いまから100年ぐらい前なら抗う意識すら持たずに家系によって敷かれたレールを走っただろう。しかし木村社長が物心ついた頃は、もうそんな時代ではなかった。

当然のように抵抗し、大学進学とともに家を出て、あろうことかベンチャー企業を立ち上げた。しかし数年の後、さまざまな事情があって実家に戻り、四代目の代表に就任することになる。

その後の木村石鹸の快進撃たるや。もともといいものを持っていた社員たちを四代目はさらに素晴らしい人材へと磨き上げ、組織を活性化し、自社ブランド立ち上げまで果たした。これは木村社長の経営手腕によるものだ。

こういうわたしも、木村石鹸のシャンプー『12/JU-NI』のヘビーユーザーである。きっかけは牧野圭太さんの著書『広告がなくなる日』。この書籍の中で『12/JU-NI』がブランド活動の参考事例として取り上げられていた。

その感想文もよかったらぜひ

それはさておき、木村社長のnoteを読み終えたとき、いい話だった…という感想とともに、もし俺が名古屋に帰って家業を継いだらどうなっていたかな、と妄想を膨らませた。

当然ながらわたしには木村社長のような才覚はない。きっととんでもないことになっていただろうな、と苦笑いしつつ、そういう人生がもしあれば、という妄想は決してつまらないものではない。

ただしこれはあくまで妄想にとどめておくべきだろう。当事者として覚悟を持ってコトにあたった木村社長に対して、わたしは傍観者にすぎないからである。

おさまるところに物事はおさまる。世の中はあんがいうまくできているのである。

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