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人間とはどんな存在なのか?『現実を生きるサル 空想を語るヒト』試し読み

 私たちは日々、明日の予定や昨日の出来事を思い浮かべながら生活しています。ですが、ヒト以外の動物にも、そうした想像力を働かせることは可能なのでしょうか?
 本書『現実を生きるサル 空想を語るヒト』の原題は『THE GAP』とあるように、ヒトと動物の違い(ギャップ)を心理学から動物行動学、はては言語学や遺伝学といった広範な研究成果を基に探ることで、「人間とはどんな存在なのか?」という根源的な問いに迫ります。
 誰しも一度は疑問に思う、私たち人間の意外な正体について思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
 本書一章から一部抜粋して試し読みをお届けします。

現実を生きるサル 空想を語るヒト―人間と動物をへだてる、たった2つの違い

1.最後の人類


 本書は、あなたにかんすること、つまりあなたが何者であり、どのようにしてここにたどり着いたのかを語るものだ。

 生物学では、あなたは紛れもなく生物に分類される。すべての生物と同じく、人間は代謝をおこない、次の世代を作る。あなたのゲノムはチューリップと同じ遺伝暗号を用いているし、酵母やバナナ、マウスの遺伝子構造とかなり重なっている。あなたは動物だ。すべての動物と同じく、あなたは生命を維持するために、植物か真菌か動物かはともかく、ほかの生物を食べなくてはならない。あなたはクモと同様に、食べたいものに近づきたがる一方で、あなたを食べようとするものを避けたがる。あなたは脊椎動物だ。すべての脊椎動物と同じく、あなたの体には脳へとつながる脊髄がある。あなたの骨格は、クロコダイルと同じように、手足が四本、指が五本という青写真が下敷きになっている。あなたは哺乳類だ。すべての有胎盤哺乳類と同じく、あなたは母親の体内で育ち、生まれてから母(またはほかの誰か)の乳を飲んだ。あなたの体は、プードルと同じように太く硬い毛(終毛)を備えている。あなたは霊長類(霊長目)だ。すべての霊長類と同じく、あなたの手には、ほかの指と向かい合わせにできる非常に便利な親指がある。あなたの目は、ヒヒと同じ色覚に基づいて世界を見ている。あなたはヒト科に属する。すべてのヒト科動物と同じく、あなたには腕を360度回転させられる肩関節がある。あなたにとって、現存する動物で最も近縁な種はチンパンジーだ。だが、近いからといって、あなたを「サル」などと呼ぶのは、ぶん殴られないように離れた場所からだけにしたほうが賢明だろう。

 人間は、自分たちがこの惑星ほしに棲むほかのすべての種より優れている、あるいは少なくともほかの種とは一線を画していると思いたがる。しかし、どの種もほかに類を見ない存在であり、その点で人間も例外ではない。どの種も系統樹でそれぞれ別個の枝であり、ほかの種とは違う数々の特徴を持っている。人間はチンパンジーなどの霊長類とは、次に挙げるようないくつかの点で著しく異なる。私たちは膝をまっすぐに伸ばすことができ、腕より脚が長く、習慣的に直立して歩く。そのため、手で体重を支える必要はなく、両手が自由になる。私たちには、おとがい〔下顎の出っ張り〕がある。人間の体表には全身にわたって汗腺があるおかげで、ほかの霊長類に比べて効果的に体温を下げることができる。人間は、犬歯や、体を保護する体毛のほとんどを失った。そして、どうやら無意味だが、しつこく生え続けているのは、男性の髭くらいだ。私たちの目の虹彩は比較的小さく、白い強膜〔いわゆる白目。チンパンジーでは黒っぽい〕に囲まれているため、他者の視線の方向をたやすく特定できる。人間の女性は見た目では発情期がわからず、男性のペニスには骨がない。

 ここに挙げたことは、たとえば鳥類で生じた翼と比較すると、革新的な特性というわけではない。翼は、言うまでもなく、その持ち主を新たな可能性の領域に進出させた。だが、ほかの動物とはっきり異なる肉体的特徴がわずかしかないにもかかわらず、人間はこの惑星の大部分で采配を振るってきた。それは、私たちの並外れた力が、筋肉や骨ではなく心に由来するからだ。

 人間が火を手なずけたり車輪を発明したりすることができたのは、心の力、つまり知的能力のおかげだ。人間は、その力によって道具を作ることができ、道具によってほかの動物よりも強く、猛々しく、速く、適応力に豊み、多才になれる。私たちは、一つの場所から別の場所に、そして宇宙にさえもすばやく行ける機械を作る。自然を詳細に調べ、知識をすみやかに蓄積して共有する。人工的で複雑な世界を創造し、それらのなかでかつてない力――未来を形作る力と、未来を破壊し滅ぼす力――を行使する。また私たちは、自分たちの現状や歴史、運命について、じっくり考えたり話し合ったりする。調和の取れたすばらしい世界を構想するが、それと同じくらい容易に恐ろしい独裁国家をも心に思い描く。私たちの力はよいことにも悪いことにも用いられ、どちらが善か悪かという議論は絶えることがない。私たちの心は文明やテクノロジーを生み出し、それらはこの地上を変えてきた一方、現存する動物でヒトに最も近縁の種は、残された森で遠慮がちに暮らしている。人間と動物の心には、計り知れない「ギャップ」があるように見える。このギャップの正体とは何か、そしてそれはどこから生じたのかというのが本書の主題だ。

■ ■ ■

 なぜ私たちの種だけが、人類の多くの種のなかで、唯一の生き残りなのだろう? なぜほかの種は死に絶えたのだろう? 氷河期や火山の噴火といった環境の急激な変化が、絶滅の原因になることはよくある。そのような不測の事態が、私たちの近縁種の歴史でも重要な役割を演じたのは疑いない。絶滅はみなそれぞれに、おそらく多くの要因が絡んだ複雑なプロセスを経ただろうし、絶滅をもたらしたこれら一連の要因は、ホミニンの種によって違ったと思われる。だが、私たちに近い種が絶滅した要因としては、別の可能性を考えてしかるべきだ。それは私たちの祖先である。

 人間は近年、多くの種の絶滅を引き起こしている。そして、直接的な証拠はないが、ネアンデルタール人などの近縁種の絶滅に関与した可能性もある。私たちの祖先が、大型のネコ科動物やクマに捕食されることをはじめ、自然環境下で生活していくうえでの典型的な困難のほとんどを克服してしまうと、自然界で彼らに敵対するおもな脅威になったのは、おそらくほかの人類だろう。人間は、どんな動物よりも、ほかの人間によって脅されたり支配されたり殺されたりすることが多い。集団間での侵略や衝突が、ホミニンの進化に大きな影響を及ぼした可能性がある。

 技術的に進んだ集団は、ほかの集団に破壊的な影響を及ぼしうる。人間の集団が、殺害ばかりでなく、競争や居住環境の破壊、あるいは新奇な病原菌の持ち込みといった間接的な方法によって全滅することもある。進化生物学者にして地理学者のジャレド・ダイアモンドは著書『銃・病原菌・鉄(草思社)』のなかで、1532年にわずか168人のスペイン人征服者コンキスタドールがインカ帝国を荒らし回った驚くべき事例を鮮やかに語っている。このとき、インカ人のほとんどは天然痘にかかって死亡した。この致死的な病気は征服者たちによって持ち込まれ、彼らが侵略を進めるよりも早くインカ人を襲ったのだ。大勢の死は、スペイン人にとって都合のよい副次的な影響だった。ヨーロッパが何百年ものあいだ天然痘に苦しめられたことから生じた結果だったのだ。しかし、征服者のなかには、そのような因果連鎖に気づいてこのプロセスを積極的に促進し、大量死を確実に引き起こそうとした者もいたかもしれない。たとえば、イギリス人の入植者は、天然痘ウイルスで汚染された毛布をアメリカの先住民にわざと与えたとして非難されてきた。そうした無情な仕業がどれほど広くおこなわれたのかは、はっきりしない。しかし、人間がそのようなことをしかねないのは明らかだ。

 その一方で、人間はすばらしい協力関係を築いたり、共感や思いやりを示したりすることもできる。取り急ぎ言わせてもらえば、私たちは、ほかの人間集団や種が絶滅しないように道徳的な選択をおこなうこともできる。スティーヴン・ピンカーが最近、『The Better Angels of Our Nature(暴力の人類史:青土社)』で示したように、歴史を通じて暴力は徐々に減少してきた。言い換えれば、戦争、血の復讐、殺人、レイプ、奴隷制度、拷問は、現代よりも過去のほうがありふれていた。暴力を伴う衝突があったことを示す証拠は、有史以前の狩猟採集民にまでさかのぼるが、このような暗い側面がいつ初めて現れたのかはわからない。霊長類種では、ヒト以外にチンパンジーだけが、仲間と協力して同じ種のほかのメンバーを殺すことが知られている。したがって、そうした共同でおこなう攻撃の起源は、太古の昔にあるのかもしれない。

 もちろん、私たちの祖先は近縁種との交配も試みただろうし、うまく子孫を残せた相手を吸収したかもしれない。現生人類とネアンデルタール人が交雑したことを示す解剖学的な証拠がいくつかある。また、2010年には遺伝的証拠によって、ヨーロッパ人やアジア人はアフリカ人とは違い、今でもネアンデルタール人の遺産であるDNAを推定で1~4パーセント引き継いでいることが初めて示された※。つまり、私は部分的にネアンデルタール人なのだ。2010年12月には、3万年前の指の骨や歯が、それまで知られていなかった人類の種のものであることが報告された。遺伝子解析により、このいわゆるデニソワ人が、現生人類ともネアンデルタール人とも異なることが示された。デニソワ人は、現在のメラネシア人のゲノムに約五パーセント寄与している。

※この論理は単純だ。ネアンデルタール人のDNAをアフリカ人のさまざまな集団と比較すると、互いに同じくらい異なっている。だが、ネアンデルタール人のDNAをヨーロッパ人やアフリカ人と比較すると、アフリカ人よりもヨーロッパ人のDNAとよく一致する。同じことが、中国人のDNAとの比較にも当てはまる。このことから、現生人類はアフリカを出たあとに、ネアンデルタール人とおそらく中東で交雑したことが示唆される。化石証拠から、現生人類とネアンデルタール人が中東で長期間にわたり共存しており、その後、ネアンデルタール人のゲノムの構成要素がアフリカ以外の世界に運ばれたことが示されている。

 愛を交わすことと戦いを交えることは、二者択一のものとして表されることもあるが、互いに相容れないとは限らない。戦時にはレイプもあれば恋愛もあるし、対立の結果としてロマンスが生まれることもある。いずれにせよ、私たちの祖先が、いくつかの近縁種を絶滅させる大きな要因となった可能性は高いようだ。したがって、今日、動物と人間の心のギャップがずいぶん大きくて不可解に見えるのは、現生人類が失われた環を破壊したからということもありうる。私たちは、ホミニンのいとこたちに取って代わったり彼らを吸収したりして、人間と動物のギャップに架かる橋を燃やしてしまったあげく、境界の片側に自分たちがいることに気づき、どうやってここにたどり着いたのかと不思議に思っているのかもしれない。この意味で、地球上における人間のとかく謎めいた特異な地位は、神ではなくもっぱら自分たちが作り出した可能性がある。

 本書ではこれから、目下、人間と動物の心を隔てるこの深い裂け目をめぐる物語を紡いでいく。第2章と第3章ではまず、私たちに最も近縁の現存する動物について何が知られているのか、そしてどうやって動物の知的能力を明らかにできるかについてくわしく見る。第4章から第9章では、人間の心を無類のものとする特性についてのおもな主張を検討する。具体的には、言語、先見性、心の読み取り、知能、文化、道徳性の領域を見よう。そこで、人間の能力の本質やその発達についてわかっていることを説明し、それらについて動物では何がわかっているかについても検討する。動物種のなかには、コミュニケーションシステムを持っていたり、今後何が起こるかを予測することができたり、ある種の社会的問題や物理的問題を解決することができたり、伝統を持っていたり、さらには共感を示したりするものもいるが、人間の心はいくつかの理由によって動物とまったく異なること、そしてそれらの理由が繰り返し登場することが見えてくるだろう。第10章では、これらの領域でのギャップで共通することは何か、またなぜそうなっているのかについて要点を抽出する。有史以前の私たちの祖先や、私たちの心の進化にかんする手がかりについては、第11章で焦点を当てる。そして最終の第12章では、人間とほかの動物を分かつものを研究する科学の将来と、ギャップ自体の今後について考察したい。

目次

第1章 最後の人類
第2章 生き残っている親類たち
第3章 心と心の比較
第4章 話す類人猿たち
第5章 時間旅行者
第6章 心を読む者
第7章 より賢い類人猿
第8章 新しい遺産
第9章 善と悪
第10章 ギャップにご注意
第11章 現実のなかつ国
第12章 どこに行くのかクオ・ヴァディス?

謝辞
訳者あとがき
参考文献
原註

詳しい目次など紹介ページはこちら

著者プロフィール

トーマス・ズデンドルフ
クイーンズランド大学の心理学教授。人間の心の進化に関する謎の解明に取り組んでおり、これまでにアメリカ心理学会や科学的心理学会、オーストラリア社会科学学術会議などの賞を受賞したほか、研究成果は『ニューヨーク・タイムズ』紙や『ディスカバー』誌、『サイエンス』誌、『ニュー・サイエンティスト』誌などでも取り上げられている。現在、オーストラリアのブリスベーンに在住。

訳者プロフィール

寺町朋子
翻訳家。京都大学薬学部卒業。企業で医薬品の研究開発に携わり、科学書出版社勤務を経て現在に至る。訳書に、ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』、スティップ『長寿回路をONにせよ!』、ブレイ『ウェットウェア』(共訳)、ロビンソン『図説アインシュタイン大全』、ラスロー『柑橘類の文化誌』、クラムバッカー『数のはなし̶̶ゼロから∞まで』(共訳)ほか多数。

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