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「書く」暴力

先日、ある本のエピローグを読んでドキリとした。

 物語にするときにはいつもある種の暴力が働きます。
 こう解釈したいと私が思った彼/彼女は、本当にそのストーリーを必要としていたのだろうか。本当はそこに静かに置かれただけの言葉を、勝手に線でつなぎデザイン処理しちゃってないだろうか。

佐藤友美(2021).書く仕事がしたい CCCメディアハウス(p.330-331より引用)

章の見出しは『「物語」という暴力。「書く」という加害』。
書き物を仕事にする、あらゆる人に向けられた問いだと感じた。

言葉は檻である

著者曰く、言葉にすることは「経験の固定化」とも呼べる。

ある日見た朝焼けの色。感じてきながらあえて言葉にしなかった経験。
そうしたものを書く、もしくはそれが誰かによって書かれることは、経験やものの感じ方を定義することにほかならない。

人間は社会発生以来、言葉による定義で意思疎通を図ってきた。

赤く、ずしりと大きい実はりんご。ちいさく艶やかなものはさくらんぼ。
品種や個体差のあるものもすべて、言葉にすれば同じ括りの中に入る。

言語化のプロセスの中で、書く行為は話すよりも「記録される」点において、より厳格な定義をもたらしやすい。

仮にそれが取材だったなら、インタビュー記事があがることで「この人はこういう体験をした」という共通認識が形成されることになる。

檻が悪さをする二つの事例

話を読んでドキリとしたのは、私の脳内に二つの事例が浮かんだからだ。

性被害にあった女優たちが連帯して加害者と闘う、現在公開中の映画「ブルーイマジン」。読んだ記事が見つからず正確には思い出せないが、主人公が被害のインタビューを受ける中で、男性インタビュアーの「よくある事だから」的な心ない発言に再度傷つくシーンがあったと記憶している(性的二次被害、いわゆるセカンド……問題だ)。

これは果たして、言葉の暴力性を自覚しないインタビュアーだからこそ起こり得た問題だろうか? 仮にポジティブな声かけでも、本人がネガティブに捉えていることを「よかったね」と評価することで、相手は自己と他者の認識のギャップに苦しみはしないだろうか。

取材においては慎重になれても、現実の私たちは相手の言葉を待たずに反応することが多い。おたがい無自覚で気にならない程度のレベルで、経験の固定化は発生している。

それと同じ温度感で、言葉の刃に無自覚なまま、書き記すことは正しい行いだろうか。他愛のない冗談で流せていた話が誰かに「読まれる」ことで、苦しむ人が出てくる可能性は心に留めたい。

もう一方は、記憶に新しい電子作品販売サイト「DLSite」の表現をめぐる論争だ。この事件に関する仔細や私の意見は省くが、クレジットカード会社からの要求をかわすべく運営会社は言葉の言い換えを提案し、その対応が賛否両論を巻き起こすこととなった。

これは本来一般的な語彙で何の含意もなかったところに、ある種猥雑な意味が付与されてしまった事例だ。表現の自由を守ろうとする姿勢に賛美の声をあげる人もいたが、他方に「大衆の用いる言葉をまっすぐ見れなくした」ことへの戸惑いや不快感をあらわにする人もいた。
個人的にも、もっともな感覚だと思う。

人は概念を檻で捉え、その中に含まれる意味の範疇で事物を考える。
ひとたび檻に囚われれば概念はしばらく固定されることになり、脱することを困難にする。
面白い話を聞いたとして、それはいま、記事にすべきか? 自分が書くべきことか? 書く行為に酔いしれる前に、問わねばならないと感じた。

ときには言葉を持たぬ選択を

ここまで偉そうに述べた上で申し訳ないが、それでも私は書くことをやめないと思う。
こればかりは生まれもった性や業のようなもので、息をするように書いている。やめれば窒息して川面に浮かぶだろう。

だから、書くことの罪から逃げてはならないと思った。
たとえば誰かに取材をするとして、相手の自発的な言葉が出るまで待つ。無理に言語化せず、行間も含めて未決定のことは未決定のまま真摯に描く。
その辛抱が必要だと感じた。

人間は本質的にわかりやすいものを好み、言葉は物事をわかりやすく捉える便利なツールだ。それゆえ多用され、時に無自覚なまま人を傷つける。

だから堪えなくてはならない。体験が明確な言葉にならずとも、相手の意思を尊重する。そして「言葉にできぬ」葛藤を保持したまま、この先の未来を歩む。そうした姿勢も、書き手には必要ではなかろうか。

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