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「心配」と「不安」の分岐点

うちの娘がもうすぐ受験。
年末年始はかなりのんびりと過ごしてて、いったいいつやる気になるのか・・と思っていたら、直前でお尻に火がつきだした。
まあ、最悪落ちても行くところはあるので、そんなに切羽詰まって受験勉強しなくてもいいか、とは思っていたけれど、実は他にも理由がある。

娘は極度の心配性なのだ。

学校がある日には、寝る頃になると慌てだして明日の予定はどうだ、忘れ物はないか、宿題はやったかなどを2度確認しないと寝れないらしい。
そのくせ忘れっぽくて、朝になってお箸を洗っていなかったなんてことはしょっちゅうある。

そんな娘だから、受験の日が近づくにつれ心配で寝れなくなるんじゃないかとか、気弱になってお腹を壊すんじゃないか、などと考えるとヘタに「受験受験!」と煽ることもできなかった。
かといって、放っておいたらいつまでもスマホで音楽聴いたりYoutube見たりして、なかなかさじ加減が難しい。

どうも娘のこととなると、「心配」が高速で「不安」に変化してしまう。
毎日車の運転をする夫のことは、たいして心配もしないし不安にもならないのに。

心を配る、と書いて心配。
不安は、安心ではない、ということ。

不安ってやつは、乾いた森におちた火種みたいで、どんどん周りに広がっていく。
私が不安になることで、敏感な娘もそれを察するだろうから、なるべく考えないようにはしていた。

心配といえば、私の母親が昔からたいそうな心配性。
幼稚園のときは、友だちの家に遊びにいけなかったし
小学校1年のプール授業は「風邪をひくから」という理由で常に見学だった。

母の心配は、私が結婚してからも続いていたようで、「いつでも帰ってこれるように」という言葉を会うたび使われた。縁起でもないこと言う、と思ったけど、多分親という生き物は、一生子どもの心配をし続けるものなんだろう。

ただ、心配と不安はまた別物なのだ。
ただの「心配」を「不安」に変えちゃうのは、境界線の曖昧さ、が関係してるのように思う。娘の失敗を自分のことのように思ってしまう、とか、傷ついたら自分も傷つく、みたいな。

「不安」には必ず「恐れ」がついてまわる。
わたしが不安なのは、自分が「恥をかく」とか「傷つく」という恐れを持っているからだろうな、と気づいた。

それって、わたし自身の感情。失敗したからといって、必ずしもみんなが恥ずかしく思ったり傷つくわけではない。
私が過去の経験から自分に刻み込んだ感情を、これから起こる未来のことと結びつけて勝手に先回りしている。ましてや、娘も自分と同じ感情を持つ、だなんて、勝手な思い込みもいいところだ。


彼女には彼女だけの、経験から学べる感情がある。
それがどんなものだろうと、妨害しちゃいけない。
失敗すら、相手から奪うことは許されない。
だって、わたしの人生も失敗だらけで、でもそれがなかったら今のわたしはいないのだから。

なんで子どもを産んだか、って考えると、この世のすべての事を、イチから体験してもらいたいから、じゃないかと思う。その体験に、わたしの過去はいらない。子どもが経験する失敗や成功、悲しみや喜び。それは、わたしの体験した感情で待ち伏せできるような、あるいはトレースさせるようなことではない。

どんな経験から、なにを感じてもいい。

「不安」を乗り越えた先には「尊重」があるのかなあ、と思う。
「心配」と「尊重」は並び立つけど、「不安」からは相手への尊重がちょっと抜け落ちている。そんな気がしています。


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