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肩書きに縛り付けられている自分がいた。

自分を表す肩書きが欲しいと思った時期があった。

自分と言えば、「地方創生に関心があり、地方で活動するのが好きな人」。自分と言えば、「カメラで人の写真を撮るのが好きな人」。

これらのような肩書きがあれば、自己紹介をした時、誰かに印象に残してもらいやすいと思ったから。肩書きが自分軸となり、それに従って生きれば良いと感じられ、生きやすくなると思ったから。

でも今は肩書きは取っ払って生きている。自分の特性を見つめ直した時に、色々と不都合が生じたから。そう、逆に生きづらくなった。確かに自己紹介はしやすくなったのだが、全体的に生きづらくなった。

僕は人と比べて、興味の対象が変化するスピードが物凄く早いと感じている。なおかつ常に複数の物事に対して関心を抱いている。
だから例えば、春は地方で活動しまくりつつ、傍では写真撮影に没頭してるとか、夏はガラッと代わり、コーチングに取り組みつつ、傍で麻雀のプロ目指すために引きこもってずっとオンライン麻雀で戦っているとか。そして、秋はまた違うことをして・・・みたいなことがざらにある。1年の間に本当に色々な自分に変化する。

となると、「地方創生の人」とか「カメラの人」って自分を固定してしまうと、特定の物事に対するブームが過ぎ去ってしまった時に、また「また自分の肩書きを変えることになるのか・・・」と個人的に若干のストレスを抱えることとなる。人によっては、この切替えを何も感じることなくナチュラルにできるのだろうが、自分はちょっとモヤつく。

あとは、肩書きを設けることで、特定の物事に対する義務感が生まれてしまうことも分かった。
Twitterやnoteでちょこちょこ特定のジャンルに対して発信活動を行っていた時期があったが、テーマを決めてしまっているが故に、「◎◎に関係ある事『だけ』を書いていかなきゃ」と謎の固定観念を生み出してしまったのだ。ネタが切れた時とか、テーマから逸れたことを文章で伝えたいと思った時に、発信ハードルが爆上がりしてしまい、長続きしなかった。

自分が気持ちよくいられるためには、今は自分を表す一言とか、肩書きとかはいらない。ひとまずは、その時の興味赴くままに、流動的に生きていく。
「そんな自分を象徴した肩書きをつければいいのでは?」といった考え方もできるが、それもまた自分の中で大きな変化が起きた時に取っ替えるのが嫌なので、無し。

と、『機嫌のデザイン』を読んでド共感する自分がいた。

自分を「こういう人だ」と決めないほうがよいかと思います。
まずいえば誰もそこに関心がありません。
自分を勝手に不自由にするだけです。

秋田道夫,『機嫌のデザイン』,p.241


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