一人称の転倒による価値観の破壊

最近よく感じることなのだが、一人称が「俺」や「僕」の女の子が増えてきている。一昔前なら「ボクっ娘」という名称が与えられ周りから特別視され、アニメ作品にしか登場しない、現実にはほぼいない存在だと認識されていた。”男”勝りな性格で、負けん気が強く、”男性”性が強い女性が稀に使う一人称が、”本来”は男性の一人称である「俺」や「僕」だったのである。実際に私が小学生のときに出会った「ボクっ娘」はそんな性格だった。そして実際に男子に混ざって毎昼休みはドッジボールをし、男子よりも足が速い…。昼休みにドッジボールに参戦してくる女の子はその子しかいなかったので今でも鮮明に覚えている。『名探偵コナン』に登場する世良真純をイメージしてもらっても構わない。
ところが昨今「俺」や「僕」(いちいち列挙するのが面倒なので以下「男性的一人称」と呼称する)は、”男性”性が強くない、”女の子”の間にさえ広まっている。この現象は一体何なのだろうか。

「何なのだろうか」と風呂敷を良い感じに広げたはいいが、別に私は現象自体を紐解くつもりはない。「男性的一人称を使う女の子が目に付く」というところが大事なのであり、この意義について思うところをつらつらと述べるだけである。
昨今の女の子の一人称の男性化は、旧来の男女観の転倒に繋がる良い兆候である。私は全面的にこれを肯定する。そもそも人が使う言葉というのは、その人の立場性を明確に示すものだ。意味内容としての言葉はもちろん表象としての言葉も、人の立場性を示す(シニフィアンとかシニフィエがどうの…みたいな言語学・哲学的議論はここではしない。私の言葉は万人に開かれるべきものなので、前提とする知識を極限まで削るべきだと考えているからだ。高校生くらいの知識あれば読めるように心掛けている、つもり)。
例えば、英語を国際共通語として利用することは、過去の列強の帝国主義的政策に肯う立場を示すことである。方言を使うことは、東京一極集中化・東京至上主義的価値観に反対する立場を表明することである。言葉で「東京至上主義粉砕」と唱えなくても、方言を使うこと自体が、暗黙のうちにその自身の立場性を示すことに繋がるのである。沖縄方言などがそんな議論の際、よく具体例として挙げられる。
言葉は人の(国籍)アイデンティティの中の大きな要素を占める。私は日本人だと自認しているので、芭蕉の句に感動を覚えるし、「祇園精舎の鐘の声」と聴けば「諸行無常の響きあり」と続けたくなる。方言を使うことによって、私はどこどこ地方の出身だという自認を得ている人は多いだろう。関西弁話者の中に「俺は関西人だ」と”東京人”に異常な対抗心を燃やしている人間がいたりするのはその極致である。
日本語は一人称が多い言語だと言われる。確かに「私」「俺」「僕」「うち」等々。そしてそれぞれの一人称によってその人の属性・立場性・置かれた社会的状況が見て取れる。例えば「朕」と言っていれば間違いなく天皇が発言しているのだとわかるし、「あっし」と言ってるなら江戸時代の商人なんだなあ、とわかるわけだ。こんな極端な具体例は置いといて、もう少し卑近な話をすると、「俺」や「僕」と言っていれば発話者は男性である可能性が高いし、「私」や「うち」と言ってるなら女性である可能性が高い。逆に男性が「私」という一人称を使っていると、その人がフォーマルな環境に置かれていることがなんとなく想像されるのではないだろうか。国会答弁とか会社の会議とか…。

昨今の女性による男性的一人称の使用は『「俺」や「僕」と言っていれば発話者は男性である』という旧来の固定観念を打ち破るものなのである。私は(自由主義者なので、原義フェミニストなので…、まあここに入る「理由」はなんでもいいが)旧来の価値観が転倒し新たな価値観が生まれる変革が好きなので、全面的にこの潮流について支持を表明する。

私自身、(身体的性、性自認ともに)男性であるにも関わらず、女性的一人称である「私」を常に使っている。これは高校三年生くらいから使い始めた一人称だ。それまでは基本的に「俺」と呼んでいた。これは、言葉による性別規定への自覚的な反抗であり、男女価値観の転倒を目指してのものである。…という言語化ができるようになったのは、最近のことだが。当初はそこまで考えていなかった。文章を書くときに「私」って書く方が偉そうな(頭の良さそうな)文章になると思っていたから、くらいのものである。とはいえその時点で言葉が相手に与える印象について自覚的だった訳だが。最初は書き言葉のみに用いていた一人称が次第に話し言葉に侵食していったのである。
私の一人称が「私」であることは私と少しでも喋ったことがある人なら知っているだろう。また、一人称が「私」であることについて疑問を差し挟む人も少ない。「お前の一人称が私なのは自然なんよな」とよく言われる。これは余談なのだが、私と喋った後に何故か一人称が「私」になる男が少なからずいる。使い慣れていないせいだろうがすぐに「俺」や「僕」に戻るが。これはやはり、私(男性)が「私」という女性的一人称を使っているという違和感に起因するものだろう。違和感は人の心に影響を与える。この影響(インプット)は発話(アウトプット)として一人称に現れるのだ。
逆説的に私は男性性を殊更強調したいときに「俺」という一人称を用いる。主にTwitter(現X)上においてだが。というのも、対面のコミュニケーションにおいては私が男性であることが自明なのに対し、文面のみのコミュニケーションでは性別がわかりにくいからだ。以下例示。

上のツイートから”男性性”についての解説
1番目「黒人にフィジカルで(物理的に)勝つ」という男性性に基づく暴力性の強調
2番目4番目について:自身が男性であることを強調することによる他者の「女性」を強調
3番目:男性性の強調による戦闘性・競争性の強調

以上の議論を一度ふわっとまとめるに当たって、私が最近(と言っても一年くらい)よく聞いているHIP-HOPアーティストについて参照したい。Awichという女性アーティストである。沖縄出身の未亡人シングルマザーで30歳を過ぎた”オバサン”(本人談)である。日本社会における弱者属性詰め合わせセットみたいな人だ。そんな彼女はHIP-HOPドリームに乗り、武道館ライブを敢行するなどスターダムに駆け上った(Awich論についてはまたまとめようと思っている)。そんな彼女の書くリリックからは、「沖縄」や「女性」の強調が読み取れる。「あいつのハートが真っ赤に咲いた まるで島のデイゴの花みたいだ」(Revengeより)、「死ぬほど憧れたフェンスの向こう 大嫌いだったOkinawa is my home」「飛び交うヘリコプター ここから飛び立ちたかった 重くしがらむこの島のカルマ」(Queendomより)、「艦砲射撃抜けて繋いだLife」(琉球愛歌Remixより)、「スケジュールもpussyもめちゃタイト」(Bad Bitchより)等。歌詞からも曲名からもその拘りが見えると思う。この拘りこそが彼女の立場性なのだ。沖縄をアイデンティティとする立場性、女性が劣位に置かれる日本社会に声をあげる立場性の表明である。”pussy”(女性器を指す。女性に対する蔑称)、”Bitch”(言わずと知れた蔑称)といった女性蔑視的な言葉を自らのアイデンティティとしてあえて使うことで示す男性優位社会に対する反対姿勢、沖縄の自然についてうたうことでOkinawaに対する帰属意識を示している。前者の蔑称を自らのアイデンティティを表す言葉として使用するのは黒人差別反対運動において「Black」を殊更強調するのに似ている。
このAwichの引用から私が言いたいのは、言葉(その言葉を使うこと自体、その言葉の持つ意味)が人の立場性をよく表象するということと、差別的に用いられていた言葉を反抗・(マイノリティの)団結の象徴として逆説的に使う事があるということである。

”反抗”とは”価値観の転倒”と読み替えてもよい。社会はある支配的な価値観が蔓延している。この支配的な価値観を転倒させんとする試みはそのまま社会に対する反抗に他ならないからだ。”「俺」や「僕」という一人称は男性が使うものだ”(=女性が男性的一人称を使うとおかしい)という価値観がこれまでの社会には蔓延していた。一人称による社会の規定価値観はそのまま男性優位社会価値観を下支えするものであった。昨今の男性優位社会を打破しようとするムーブメントは一人称の転倒という細部にまで行き渡り始めている。そのことに自覚的な人間がどれほどいるか、それはどうでもいい。自覚的である必要はない。女性がこれまで男性的とされてきた「俺」や「僕」という一人称を使うことは男性優位社会を打破するための大きな一歩なのだ。変革は一夜にしてならない。日々、雨垂れがいつしか石を穿つように、一歩ずつ進んでいく。
私は現状の男性優位の日本社会について憂慮しているし、改善されるべきだと考えている。この立場性を示すために私は太字部分の言葉を文面に起こした。これが言葉の意味が持つ立場性。また、太字部分は日本語で書かれている。これは私が「日本という国にアイデンティティを持っている」という暗黙の立場性の表明である。
これと同じように女性の男性的一人称の使用は「一人称による性別規定への反抗」「一人称による男女価値観の転倒」という立場性の表明なのである。

”何故”女性の間で、男性的一人称の使用例が増えているのかはわからない。気にはなるが、その理由を追求することに私は特段の意味を感じない。しかし、その現象が社会に与える影響は非常に大きなものになっていくことを私は確信している。日々使う言葉は知らず知らずのうちに人々の間に根を張り、影響を与えていくからだ(伊藤計劃「虐殺器官」的発想)。

ここから少し話はズレるが、補論。
「言葉は立場性を示す」とここまで述べてきたが、「人の属性が言葉に立場性を付与する」という側面についても触れておきたい。大前提私に付与された属性として大きいと感じているのは「京大(文学部)生」(これは非京大生から見たとき私に見出すもの)、「熊野寮生」(これは京大生が私に対してよく見出す属性)の二つであろう。「京大(文学部)生」という属性は私が多少思考を吐露すると「京大生は難しいこと考えるねえ」という反応を引き起こすことがある。「熊野寮生」という属性はどうも私の言葉に左寄りのイメージを付与するようだ。思想自認は仏教徒かつアナキストなのだが…。左翼的と評されることが多い。まあこのことについて根拠を示して論理立てて論じることができない(考えがまとまってない)のでまたの機会に詳細言及を任せる。

思ってたことをなんとなーく吐き出せたので、いい感じのラフなまとめ。
貴方も自身の言葉に現れる立場性について自覚的になろう。その自覚は一人称から始まるのだ。

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