先人から学ぶClimate Justice Week1 ハンス・ヨナスと気候公正

 こんばんは。私は気候変動に興味があり、将来この問題を解決したいと思っている一大学生です。今週から自身のnoteにて、哲学者や思想家とClimate Justiceについて、自分の意見とともに記していこうと思います。まだまだ私の知見は浅く、錯誤した情報や解釈があるかとは思いますが、一読してもらえたら嬉しいです。投稿日は毎週金曜日を基本としようと思っています。

 先日、大学の講義で、私の同級生がマルクス vs ケインズというタイトルでプレゼンしていました。そこでちらっとハンス・ヨナスについて論じられ、彼の言う「責任という原理」が正にClimate Justice(気候公正)に通じるものがあると思ったので、今回はヨナスの意見に焦点を当てたいと思います。

生い立ち

ハンス・ヨナスは20世紀のドイツの実存主義を代表する哲学者です。1903年にドイツで生まれ、ハイデガーやブルトマンといった著名な哲学者の下で学びます。しかしユダヤ系のヨナスはナチスによる迫害を受け、第二次世界大戦では兵士として生き抜いたのでした。戦後はカナダやニューヨークで教鞭を執り、1993年にその生涯を終えました。

画像1https://www.swr.de/swr2/wissen/hans-jonas-und-die-ethik-der-verantwortungswr2-wissen-2020-02-28-100.html

責任という原理

 ヨナスは科学技術の発展とそれによる功罪により、将来の人類の生活や自然環境の存続が脅かされている事について、私たちの言動がその存否を分ける責任を有するのだから、我々は「未来への責任」という新たな倫理の下で営為する必要性があると説きました。私にはこれはヨナスの師ハイデガーの「人間は投企的存在である」という主張に対するジンテーゼだと思います。投企とは、人間は生を受けた地点で地球に放り出された(被投的)存在であるから、常に自分の可能性を追求するという意味です。科学技術の進歩やそれに伴う経済発展は、「自分の暮らしを良くしたい」という人間の欲求の産物ですが、一方で環境を破壊し、地球を傷めてしまっています。このコンフリクトを、ヨナスは「責任という原理」という新たな倫理観で、投企的存在である人間が、持続可能な暮らしをする道を提示したのではないかと思います。

画像2

 ところで、気候公正が俎上に載せている「世代間不平等の是正」に通じるものがあり、この「責任という原理」にその端緒を見ることができます(もちろんヨナス以前にも未来世代に対する責任を被ると主張した哲学者はたくさんいますが)。ただ両者では少なからず差異もあります。なぜなら、現在気候公正を訴えている若者は、ヨナスと同世代の大人によるツケを押し付けられている世代だからです。現在、世界各地で異常気象が具現化した今、気候変動の被害者が息絶え絶えに訴えるClimate Justiceという言葉は一世代前の言葉より強く私たちに訴えかけ、心を掻き立てます。Climate Justiceは、「責任という原理」を無視して経済活動を行ってきた大人たちに対し、改めて、そしてより強力に「新たな倫理観」を求める言葉なのです。

人間は存続するべきか?-自然への配慮-

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 前に少し触れた通り、ヨナスは自然と人間の在り方についても論じています。人間は何らかの目的を持つ生き物ですが、進化の過程を見れば自然そのものにも目的が内在しています。人間は今までの活動により、生物種を絶滅に追いやるなど、特に昨今は苛烈に自然の目的を侵害しています。ゆえに一種の生物として人間が存続すべきか、という問いにはNoを投げかけたくもなります。人間がいない方が、世界はより良い方向に進むのではないか、と。しかしヨナスは「人間は存続すべきだ」と言います。なぜなら未来の(人間を含む)自然に対し責任を有しているのは、現世代の人間に他ならないからです。勿論人間はその義務を恣意的に放棄することも可能ですから、「やはり人間は存続すべきではない」と言う人も多くいます。つまり人間の存在価値は、私たち一人一人の道徳観に依拠するという事です。

私たちは未来に対して責任を負う被投的存在である

 私が所属するFridays For Futureでは、MAPA(Most Affected People and Area、マパ、(特に気候変動により)最も被害を受ける人々や地域)の声を聴くことが最重要であるとされています。彼らの声に呼応してアクションを始めるのも自由である一方、彼らの声に耳を傾けず、対岸の火事だと思ってザッピングするのも自由、そんな事に構っている時間はないと、時計の秒針に急き立てられるように仕事に勤しむのも自由です。ただ私が皆さんに常に抱いてほしいなと思っている事は、皆さんは未来の人々や自然を左右する強力な力を持っていると同時に、その力を持続的な未来のために使う責任があるのだという事です。ハイデガーの言葉を用いれば、私たちは将来の自然や世代に対して責任を負うている被投的存在なのだということになるでしょうか。皆さんもClimate Justiceという現代版の「責任という原理」について志向を巡らせ、自分の行動がどうあるべきかを考えてみてください。


 拙文を読んでいただきありがとうございました。来週は全体主義を分析し、ヨナスの親友でもあったハンナ・アーレントと気候公正を考えていきたいと思います。

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