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【車に轢かれて詩集を出すことにした話】3/3

詩の同人誌の編集長である筆者の事故体験談を書いてます。全3テキスト中の3番目。この章のみで約4,500文字・平均所要時間9分程度です。

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人生でISBN付きの書籍を出版する人は、どれくらいいるのだろう。

ご存知のかたもあろうと思うが、ISBNとは、国際標準図書番号と言って、本の裏表紙などに表示されるバーコードの基になる文字列である。

これを取得していると、その本が国会図書館に保存されたり、書店の機械で在庫を調べてもらえたり、Amazonで販売できたりする。


普通、本を読む人は、筆者が調べて調べて調べ抜き、考えに考えに考え抜いた知識や知恵や感動を、筆者の苦労の何分の1かの消費カロリーで得たいと無意識に思って本を手に取る。

それに対して、著者の方は、愛着のある情報や表現(もしくは必要に迫られたアウトプット)を繊細にコントロールし、作者であると同時に読者として、順番やら正確性やら文量やら音韻やら新鮮さやらetcetcと対峙しなければならない。当たり前と言えば当たり前だが、使用エネルギーにとても大きな偏りが存在するのである。

それでも、自費で出版したがる猛者というのは、実はいつの世も存在する。(なんならコロナ禍の巣籠もり時間で自費による出版物の部数が3割ほど増えたらしい)

本の装丁と部数次第で、ゆうに3桁万円コースであるというのに。さらに流通まで考えると、かなりのリソースが割かれることになる。


しかし、かく言う僕も、かねてからその勇者たちの仲間入りを果たしたい、と願っていた。このままでは自己顕示欲が炸裂してどうにかなっちゃう、というところまで来ていた。

昨今は、Kindle ダイレクトパブリッシング等で電子書籍を手軽に出版したり、僕が編集させていただいている同人誌のように(幸い同人の中に印刷会社に勤めているメンバーがいらっしゃる)、自分でPCで編集して印刷所にデータを提出し、冊子状の詩集を作り、ウェブや即売会で展開する方法もある。

が!やはり、本、それも願わくば、ハードカバーである。

しかし、あと数ヶ月もせずに子どもが生まれる。はじめての子だから何があるか分からず、出来るだけお金は温存したい。

そんな中での今回の事故であった。まあ、普通、詩を書いている場合ではない!となるだろう。

どっこい、僕はショックなことがあったら、詩にして記録しておくタイプの人間であった。

捗る。ここ最近、すごく捗る。

そして僕は事故の丁度1ヶ月後、轢かれる直前に散髪してもらっていた美容院で再び髪を切ってもらいながら、事の顛末を美容師さんに話した。

なんと彼は、僕の事故の一部始終を目撃していた。

その交差点は見晴らしが良いのに事故の多いいわくつきの場所で、その日もたまたま往来が視界に入る状況で仕事をしていたら、車が僕に突っ込んで行くのが見えたのだと言う。

そしてその美容師さんは素晴らしい情報を与えてくれた。それは、保険金について、である。

今回僕は、人生ではじめて交通事故を体験した。100%相手が悪い状況である。そのシチュエーションであれば、怪我の経過(通院回数や期間)によっては、詩集が出せちゃうくらい保険会社から慰謝料がいただけるというのだ。

幸い、と言おうかなんと言おうか、事故後1ヶ月経過してから、首が激烈に痛くなった。後から来るって本当なんだなあ、、としみじみ思った(痛レベル10)。あと、右の太股に押すとふにふにする内出血の浮腫(痛レベル2)。引き続き右の肋骨も呼吸や腹筋を使う度に痛む(痛レベル8)。

僕は早速かかり付けの大病院の先生に「整骨院行って良いですか!」と聞くと、(何故かしぶしぶ)了承してくれた。整体は医療行為ではなくて云々、という説明を受けたが、体が痛すぎてろくに聞いていなかった。

それから僕は早速近所の整骨院に電話して、事情を説明し、診てもらうことにした。

院長の柔道整復師さんは「詩を書かれるんですか?僕、本読むと眠くなるんですよ!ガハハ」みたいなタイプの人で、とても好感が持てた。

それから僕は治療と詩集のために、せっせと接骨院に通った。そこで僕は「自分のお尻の筋肉がすごく固い」という、とてもトリビアルな知見を得た。いままで柔らかい方だと思っていたから、正直ショックであった。

通い始めてひと月。無事に妻が珠のような女の子を生んでくれた。母子ともに健康で、胸に熱いものが激しく込み上げた。安産も勿論そうだが、事故が大したこと無くて、本当に良かった。

ただ、感染症対策のために、生まれた翌日にガラス越しに10分間面会できただけで、生後1週間は娘を抱くことが出来なかった。

1週間後、妻と赤ちゃんが帰ってきた。一緒に住んでいない家族は2週間は赤ちゃんに会わせてはいけないというので、僕・妻どちらの両親の助けも借りず、初めてづくしの中、なんとかふたりだけで頑張った。きっと娘も頑張ってくれたのだと思う。

そんな折り、娘を抱っこするとひたすら肩と首が痛いことに気が付いた。たしかに接骨院のマッサージで、徐々に痛みは和らいで来ていた。しかし、いざ絶対に落とせない存在を抱き抱えると、その命の重さも相まって、一際みしみしと痛むのであった。


僕は治療の回数を増やした。出勤の日は出社前に整体、休みの日はしっかり時間を取って電気治療と超音波とマッサージ、というコースで3日に1回程度のペースで通った。

その接骨院は柔道整復師さん(整骨院・接骨院でマッサージしてくれる人)が5人くらいいらっしゃって、皆さんそれぞれ個性的で、治療中も話が弾んで楽しかった。


そんなある日、仕事中の僕に珍しく院長さんから電話が掛かってきた。普段凄く明るい声なのに今日はめちゃめちゃに低い。嫌な予感がする。


「あの、、実は、、スタッフのひとりにコロナウィルスの感染が確認されまして、、」


おおぉ、、


どうしてこう、詩にしてください、みたいなことばかり起こるのよ、、

「これから、スタッフ全員のPCR検査が行われます。結果が終わって全員陰性でしたら、またご予約を受け付けられるようになりますので、改めて連絡させていてだきます、、そんなわけで、申し訳ありませんが明日のご予約はキャンセルさせてください、、」


僕は出来るだけ優しく了承の旨を伝えて、冬の空を見上げた。

妻にこの事を言うべきか脳が千切れるほど悩んだが、無駄に不安を煽るのは得策では無いと考え、スタッフさんに陽性の反応が出るまでは、僕のうがい手荒い消毒をさりげ無く強化するにとどめ、何も言わないでおこうと決めた。赤ちゃんの事を思うと、正直凄く怖いが。

数日後、院長さんから、最初のスタッフ以外、従業員全員PCR検査陰性でした、と連絡が来た。明日からまた施術可能という。

口から霊魂が出るくらい安心した僕は、その後整骨院に通うペースを、3日に1回から3日に2回に増やした。

理由はふたつ。

ひとつ目は今回の件がきっかけで、その診療所に最も安全と言って良いレベルの感染症対策がなされるだろうから。

もうひとつは、風評被害で患者さん(特にご老人)が減って、その診療所の経営が大変になることが予測されたから。

(保険会社のお金だけど)僕が1回でも多く通うことで、少しでも助けになれば、と思ったのである。

そして予想は的中した。

その日から、妻と交互に赤ちゃんの面倒を見つつ、可能な限り整骨院に通いながら通勤する暮らしがはじまり、続いた。

その間、休みの日にNPO法人の登記をしたり(これは本当に大変だったけれど、為になるインプットが多かったので、後日note投稿します)、同人誌の新刊が無事発売されたり、それを文学フリマ東京で仲間たちと販売したりと、かなり充実した日々を過ごした。

整骨院の院長さんとは、ラーメン好きという共通項も手伝って、なんとなく「同志」という空気が生まれた。税理士さんを紹介してもらったり、子育てについて、たくさん相談に乗ってもらったりした。感謝。

そして、その院は僕みたいな事故患者も多いらしく、弁護士さんを斡旋してくれて、示談に関してもアドバイスをいただいた。

保険会社には恨みは無いけれど、僕を轢きたおしたおば(あ)ちゃんのことは少し根に持っていたので、院長さんと相談して、後遺症認定を受けない範囲で、出来るだけ慰謝料が高額になるように動いた。(後遺症があると認定されると慰謝料や治療費が跳ね上がるらしい)

そして、同人誌のメンバーのひとりが勤める印刷会社に、希望の装丁の詩集の見積もりを取ってもらった。いける。計算通りならいけるはず。


発売日については、最初は僕の誕生日の10月3日にしようと思ったのだが、その日は事故1周年記念日の丁度1週間前で、大変だった日々を彷彿とさせるのもアレなので、後厄の明けた2022年初頭と決めた。ISBNも取った。タイトルも決めた。

(現在着々と構想を練っています。発売されたらnoteでも告知しますので、是非読んでみてくださいね。)

そして。

整体治療を受けるようになってから半年が過ぎた。それ以上治療が続くと後遺症が残ったということになってしまうと考えた僕は、整骨院の院長さんに治療終了の意思を告げた。

院長さんは「こういう場所は、もう来ないに越したことは無いですが、何かあったらいつでも相談してくださいね」と言ってくれた。スタッフの皆さんにもお世話になったので、お礼のお菓子を差し入れた。ちゃんとアルコールの入っていないやつだ。

それから、心配をかけてしまったのに、健気に支えてくれた嫁にお礼をしようと思った。

コロナと妊娠出産のどたばたで式も挙げていなかった僕たちは、まだ結婚指輪を購入していなかった。

そうだ。この機会に、ちょっと良いのを買おう。そして僕たちは赤ちゃんを連れて待ち切れず午前中から宝石屋さんへ向った。

それは、すぐに見つかった。

素敵だ。ペアリングというやつだ。妻には、きらきらと輝くダイヤモンドが良い感じにあしらってあるものを。楽器販売員の僕のは石があると商品に傷がついてしまうかも知れないのでリングだけのシンプルなものを。

少しだけ緩いけれど、嵌めてみて、とうしても合わないようならお直ししようということにして、持ち帰った。

その日は二人で写真を撮ったり、ちょっと良いご飯を食べたり、ノンアルコールビールで乾杯したりした。

次の日は出勤だった。指輪をきらきら光らせながら、悲喜交々の複雑な気持ちで事故現場の交差点を通りすぎ、電車に乗って出社し、念のため1日指輪はケースはロッカーにしまって働いた。

終業後、タイムカードを切って、わくわくしながら指輪を嵌めて、電車に乗って、駅前の駐輪場から例の交差点を通って帰宅する。

その交差点で僕は後ろポケットの中の携帯が飛び出さないように、お尻に手を当てた。

その時、音もなく、指輪が落ちた。

落下音が全くしない。と言うことはポケットに入ったのかと思い、すぐに自転車を止め、お尻のポケットを探ってみたが、無い。地面に這う。夜23時。深夜と言っても良い。車通りはほとんど無い。人通りはもっと無い。

僕は自転車を安全な場所に停め、携帯のライトを頼りに交差点を端から端まで舐めるように見つめた。

無い。

なんで?

30分くらい探した後、妻に心配をかけるといけないので一旦帰宅し、またすぐに現場に戻って、捜索を続けた。

そのうち、親切な通りがかりのお兄さんが、僕の姿を気にして、一緒に捜してくれた。

しかし、無い。

かなりの時間が経ったが見つからない。とっくに日付は変わっている。そのお兄さんに申し訳ないので、厚くお礼を言い、また明日、日が昇ったら捜してみますので、、と伝えて解散した。

しょんぼりして帰ると、妻は、指輪より僕の体の方が大事だから、と慰めてくれたが、眉間から「どうして?」という気を放っていた。完全にチャクラが開いている。

次の日、早起きして捜したが、やはり見付からなかった。側溝にでも落ちてしまったのかも知れない。

宝石屋さんに「買った次の日に無くしました!どうにかなりませんか!」と相談したが、無限増殖できてしまうのでどうにもならないという。そりゃあそうだろう。

観念して次のボーナスでもう1回買うことに決めた。ちなみに、午前中の方が指が浮腫むのと、夜仕事後で疲れて指が細くなってたので、するっと指輪が抜けてしまったのではないか、と言うのが宝石屋さんの見解だった。

固いお尻のせいか、魔の交差点のせいか、かくして、僕の詩の種がひとつ増えた。

爾後、妻には完全に頭が上がらない。

これからもあの交差点を通る度に、僕はこうべを垂れるだろう。

しかし、詩集ができ上がる頃には、新しい指輪を嵌めているはずである。

娘の成長と詩集の出来(しゅったい)を楽しみに、僕は生きていこうと思う。

おばちゃん、ありがとう。これからは、気を付けるんだよ。

僕ももう2度と指輪を無くさないように、気を付けるから。





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お読みいただきありがとうございました!

そんなわけで、来年年明け早々詩集を上梓する予定です。ご声援いただけましたら幸いです。


ではではまた。皆様、車にお気をつけて、健やかにお過ごしください!

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