見出し画像

オルフェ(1950)ジャン・コクトー

(halske.jp 2021年2月12日 バックアップ記事)

スイスのオーディオメーカーにORPHEUSがあります。「オルフェウス」なんて、知的なメーカーのオーディオ機器で音楽を聴きたいものですが、高価で手を出すことはできません。

ジャン・コクトーの“オルフェ”はギリシャ神話を元にしているので、オルフェは吟遊詩人であり、冥府下りのシーンもあります。

ジャン・コクトーのかつての弟子であり元恋人でもあるジャン・マレーが主演しています。王女はスペイン生まれのマリア・カザレスで「氷のように燃える」ような、厳しさと情熱が入り混じった魅力的な表情を見せます。

ジャン・マレー(右)とジャン・コクトー(左)

意外なことにこの映画は非常にロマンティックな結末をむかえます。王女がオルフェウスを生者の世界に戻すための代償を支払うときですが、実際はあまりに唐突で説得力がなく人工的なのでわたしたちは「急いで」感動しなければならない印象もあります。

しかし唐突で人工的な結末でも、芸術や流行や性別や物語や規則を超越したこの側面こそが、『オルフェ』の新鮮さと情緒的な印象を与えているといえます。詩人オルフェは、理由を完全に知ることなく、彼女を探し求め、自分の永遠の時を迎えるまで、そしてその時になっても彼女を見つけることはできない・・・・とてもロマンティックな映画です。

死の世界のシーン

これを書きながらマリア・カザレスを検索してみると“天井桟敷の人々”の出演者とありました。ナタリー役・・・。ずいぶん昔に見たのでナタリーは思い出すことはできません。それよりも、1944年からマリア・カザレスはカミュの愛人であったということのほうが興味が引かれます。なぜなら“オルフェ”での王女はカミュにぴったり合うような気がしたからです。

新型コロナウィルスの流行でカミュの『ペスト』が流行ったらしいことは聞きました。何冊かカミュの本は読んでいるものの“異邦人”が最高だという感想はずっと変わらないと思います。世の中の思いがけない不運な出来事はすべて「太陽がまぶしすぎて」起きるのだと僕は信じているのです。

夏のにおい、私の愛していた界隈、夕暮れの空、マリイの笑い声、その服。この場で私のした一切のことのくだらなさがそのとき、喉もとまでこみあげて来て私はたっった一つ、これが早く終り、そして独房に帰って眠りたいということ、これだけしか願わなかった。

 ギリシャ神話の『オルフェウス』で有名な冥府下りがあり、日本神話のイザナギの黄泉下りと似ているといわれます。いずれも「決して見てはいけない、と言われたのにもかかわらず見てしまう」というものですが、日本神話のほうは恐ろしい印象があります。

思い出すのは夏目漱石の『夢十夜』の第一夜で「百年、私の墓の傍そばに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」というところです。またロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』の“待機”のなかに「中国の高官と歌姫」のたとえ話が出てきます。これは冥府下りのエピソードとは本質的に別の話をしているのですが、構成と展開はほぼ似ているので、連鎖的に思い出されます。

『ニューシネマパラダイス』でも映画技師アルフレードがトトに語るエピソードが「中国の高官と歌姫」のエピソードと酷似しています。もっとも、『ニューシネマパラダイス』は、そのシーン自体を好きだという人が多いようです。

いつまでも、いつまでも、いつまでも連鎖的に思い出していくことがたのしいです。

ジャン・マレー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?