映画『シン・仮面ライダー』を観た日記
※映画をできるだけ観て、できるだけ感想などをメモしておこうというものです。
だからたぶん、評価する、とか、批評する、とかいうことではなくて(そんな分際ではないし)
それを見たときどんな感じだったか? 何を考えたか? を、できるだけ正直に書こう。
2023年4月1日(土)『シン・仮面ライダー』を観た。
土曜日、春休み、さらにファーストデイ割引1200円、という混む条件がそろうなかだったけれど、20:45開始回はそれなりで、真ん中らへんのスクリーン正面席で両隣ナシで鑑賞。
『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』につづいて、これで庵野さんを筆頭とするチームでの、特撮リメイク三部作の締めとなる本作。
観る前は「面白いんだろうな」と思いながら、「面白かったら困るなあ」という思いもありながら。。。
わたしと仮面ライダー
自分は幼稚園時代に仮面ライダー好きになり、友達のしゅんくんの(※名前出す必要は全くない)お父さんがダビングしてくれた
『12ライダー 決戦!大幹部』
なるビデオ、
初代ライダー ~ 当時最新作だった『仮面ライダーBLACK RX』(1988~89年)の、いっこ前の『仮面ライダーBLACK』までの、
ボス戦をダイジェストにした30分ビデオを擦り切れるほど見た。
何度も何度も観るとその映像と身体は脳裏に焼き付いて、幼少期なんてのは焼き付くだけではなく自分の身体でそれを再生するから、
『BLACK』で倒れゆくシャドームーン(主人公の親友だけど敵側)が、振り向きながら重心が崩れ、ヒザ、腰、肩、クビ、とカクンカクン揺れながら倒れていくスローモーション、を、
カッチョいいー
と思いながら真似したり、ほかにもあれやこれやマネしつつ、
ただその決戦に至るまでのストーリーとかは知らない、みたいな感じだった。
『RX』が平成元年に終わり、しばらくは仮面ライダーのTVシリーズはお休みとなる。
お休みというか、誰もやらなければそのまま終焉を迎えていたんだろう。クウガが生まれなければ。
その間、’92年にはオリジナルビデオで『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』という、あんまり子供が見るもんじゃないガチハード路線、人造人間を現実にやったらこんなことにという暗い作品があったり、
こども映画まつり枠で’93年『仮面ライダーZO(ゼットオー)』、
翌’94年『仮面ライダーJ(ジェイ)』(史上初、巨大化するライダー)
があった。2年連続だったので次も、と思っていたら95年はなかったので、失望は大きかった。
小学生ながら。
この頃に、NHK-BSで「仮面ライダー」歴代振り返り特番があった。
石ノ森章太郎先生もゲストで出ていたり、仮面ライダースナックとカードの紹介が挟まれていて
「ほ、欲しい!」
ここで私のオタクは極まったと言ってさしつかえない。擦り切れるほどみた。
同時に、たぶんNHK-BSで初代仮面ライダーの再放送もしていたし、ウルトラマンのシリーズも、エースとかタロウとかレオとか、再放送していて、見た見た見た。
NHKは昔からオタクにやさしかったのだ。
そこからの数年間は覚えてない。
ニュー・ミレニアム、2000年の初頭から『仮面ライダークウガ』(オダギリジョー!)が放送され、それが大評判、「平成仮面ライダーシリーズ」となって毎年新ライダーが生まれるようになり、もう令和になってもまだまだ続いている。
って、自動的に続いてるかのように言ってはいけなくて、毎年新たな路線を探して、ものすごい知恵を絞っているんでしょうが・・・。
『クウガ』はいまも心のバイブル。
観た感想(ネタバレ)
「面白い!サイコー!」と、「う~んこれはどうだろう」を行ったり来たりしながら、もういい歳してやっぱりオタクである自分を顧みつつ、ただそこに全身をかけられない、もっと一般人と同じ趣味や生きがいをもちたいよ、という思いに引き裂かれている我が身に染みる体験になるのだろうなあ、
と思っていたら違った。
アバンタイトルたる怒涛のアクションののち、『シン・仮面ライダー』と表示され、一同はセーフハウスに入る。
そこで待っていたのは、説明台詞の嵐だった。
が、が、学生が書いたのか!? という、説明台詞の嵐!
それを、あの塚本晋也監督にやらせている、狂気!!
そこで、私は映画を降りてしまったので、もうそれ以降はよくわかりません。
121分、たしかに座席に座ってはいたのでしょう。
「もっと面白いと思うと思っていた」。自分が、そういう人間だと思っていた。でも、おもんなかった。
だって映画っていうのは、、、、、、
それは間違いなく『シン・仮面ライダー』は分類としては「映画」である。だけども、作品の、フィクションが流れる時間は、あの説明台詞によって分断された。あれは「手続き」の時間であって、劇映画としてのストーリーの時間ではない・・・
(『シン・ウルトラマン』で冒頭、地球は怪獣が出現する場所になった、ということをまとめたシーンは、うまかったんだなあ、と振り返って思う)
まだしも説明中は、
「これで”物語”は語り終わったんだから、あとはカッコいいシーンが延々続くに違いない」
と、希望的観測をしていた。
そしたら、けっこう、まだ語るんだ、説明を。
まるで、口にすれば作品の中にそれが実在として生まれるかのように、説明、説明、説明。
概念も何もかもは「それを感じさせるためにどう撮るか?」の問題なのに、ひたすら、言う、言う、言う・・・。
だから、映画ではなくて、
「創意工夫のたっぷり詰まったカットを連続して見せていく動画」
を、わたしは見た。
蜷川実花監督。
の映画を、自分は、
「バーとかのモニターで流しておくのが一番、作品のためになる」
と常々思っているのだけど、これはポスト蜷川実花さんなのではないか。
カッコいいカットの創意工夫は、見て楽しめる人には楽しめるだろう。あれを成し遂げる難しさ、技術の高さ、特撮の様々な歴史の引用・参照、それはそれは情報量も密度も高く、お祭り状態だ。
だけど、編集の「飽きる前に次へ」というつなぎからは、カットとカットの間で意味を生み出す運動ができてない。
だから、ひたすら浜辺美波が綺麗で、アップのカット多いなあ~~~、綺麗だなあ~~~、と思うことはあっても、
あの長いビデオレターがやってきても、感情が動くことはない。それまでの人物像の積み重ねがない。
あいかわらず「人物描写」を、「癖をもたせる」こと止まりにしている・・・。
「私は用意周到なの」
NARUTOだって、「だってばよ」だけで愛されたわけじゃない。
クモオーグ→コウモリオーグ→サソリオーグ→ハチオーグ、という前半の決戦の順序も、てんで意味ないやんか、構成がないやんか。戦いは、ただやっつけていけばいいわけじゃない、ドラマとして、本郷とルリ子の関係性に何か意味のある変化はもたらされているか? ない。
だから「映画」的にはあの4つの戦いは入れ替え可能であって、『ロックマン』みたいなステージ選択型ゲーム的、オムニバスになってるじゃないの・・・
と思っていたら本当にロックマン的展開があった。笑った。
でも、それで構成ができたというわけにはいかない。
構成なんていらないじゃない、と思うのは、頭で補完できる人だ。
わたしはもう置いてかれたオタクで、オタク原理よりも、映画原理に魂を売ってしまったのかもしれない。断片から文脈を、ストーリーを補完できる脳力はわたしにはない。
1シーン1シーンで登場人物のドラマをつないでいってもらわないと、映画のなかの時間はとぎれてしまう。
3月31日にNHK-BSでメイキングのドキュメンタリーが放送され、ツイッターでは「庵野監督」がトレンド入り。おおむねは、技術部や俳優の努力を無に帰すような、妥協を許さなすぎる・・・というかそんなこと言いだすなら最初からその方向性を自分で見据えて、伝えておけよ・・・。
という、ような様子が映っていたらしい。わたしは見のがしたので、4月15日の地上波放送を楽しみに待っている。
そんな撮影現場の様子を小耳にはさんでから読むパンフレットは・・・
池松さんの「願い」と「祈り」が、叶うとは、わたしには思えない。
詰め込まれたカットは、面白いものとして・・・『シン・ウルトラマン』につづいてCGは技術遅れだけど・・・
だけれど、映画としてパッケージできてない、ドラマがつなげてないのだから、
それは、もうバーで流して ながら見 しかないと思うのだ。
優しすぎるヒーロー、という今回の本郷猛像。
やっぱりそれは、2000年にあらわれた五代雄介=クウガを思い出す。49話かけて描いたテーマ。毎回のすべての人物描写から、人を大切にしているライダーだったと思う。
第48話の、オダギリジョーと浦井健治の戦い、1年間の思いが爆発するあのシーン・・・。
設計図から、映画になれなかった映画だったと思う。
この日は映画をハシゴしていて、『生きる LIVING』のあとに観た。
『生きる LIVING』より、人生を考えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?