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短編小説 温泉

私がたどり着いたのは、山深い峡谷にぽつんと建っている温泉宿だった。
家を出てずいぶんと時間が掛かったが、なにしろ評判の宿だ。
予約も何年待ちだったか、ようやく順番が回ってきたんだから、思い切り楽しまなきゃな。
私は、私自身にそう言い聞かせ、宿の門をくぐった。
- そうだよ、思い切り楽しまなきゃ -
そうは思ったものの、宿の周りには納屋のような建物があるくらいで、他の宿はおろか土産物屋もなかった。自動販売機すら見当たらなかったから、宿に入ればもう外に出ることもないだろう。せいぜい川に降りてみるくらいか。
宿の建物自体は古民家の風情たっぷりといったところだが、そういう宿は全国にあるから、別に珍しいものではない。ただこの宿は本当に人気で、何の雑誌だったか、テレビの旅番組だったか忘れたが、一度は訪れるべき宿ナンバーワン!らしい。
しかし、古民家の風情ながらこの建物は大きい。玄関の正面に立ってみても、屋根がどれほど高いのか分からない。てっぺんが見えないのだ。建物の奥行きも、どこまで続いているのか見当がつかなかった。
「遠いところ、ようこそいらっしゃいました」
玄関に突っ立っている私に気づいて、和服の女性が話しかけてきた。
「本日よりご予約のお客様、わたくし、女将のきさらぎでございます」
「あ、女将さん、お世話になります。えっと東京の、えっと」
「承知しております。さ、お上がりになってください」
女将のきさらぎ、若い。二十歳前後だろうか、予想外のことにちょっと慌ててしまった。ほかの従業員は見当たらないが、女将は丁寧にお辞儀をして、私を招き入れてくれた。
宿の廊下は薄暗くて長く、はるか奥の突き当たりで左右に分かれているようだ。部屋は廊下の両側に並んでいるから、やはりとてつもなく大きな建物であることに間違いはない。部屋にはそれぞれ名前が付いていた。
「女将さん、私の部屋というのは、和室でしたよね」
私は女将の後ろを歩きながら聞いてみた。
「はい、そう承っております」
「洋室っていうのもあるんですか?」
「ええ、ございますよ? もちろんこのような宿ですから、洋風のインテリアにしてある和室、という感じですが」
「なるほど、人気の宿だから外国の人も来るでしょうしね」
「えぇ、でも外国の方は逆に和室がお好みなんですよ? 洋風を好まれるのは日本の方が多いですね」
「はぁ、そういうもんですか」
「さぁ、このお部屋でございます」
女将と話しているうちに部屋に付いたようだ。
「あぁ、ありがとうございます。えっと、部屋の名前は」
「渓水の間でございます」
「ケイスイ、ですか」
部屋に入ると、畳間が二間、窓は大きく、開け放すとサラサラと流れる水音が聞こえてきた。なるほど、この部屋は宿の外で見た川が、すぐ目の前に流れているのだ。
「気持ちのいい水音、空気も爽やかに感じます」
私は正直な感想を述べた。
「左様ですか、それは私どもも喜ばしいことです」
女将はにっこりと笑いながら部屋の説明をしてくれた。
「お風呂はお部屋にはございません。皆様大浴場をお使いいただいております。大浴場は五つございまして、順番に掃除をいたしておりますので、大浴場の方へおいでいただいて、使える浴場をお好きにお使いください。24時間お使いいただけます」
「朝食、昼食、夕食はご準備の時間を毎度お伺いしますので、どうぞおっしゃってください」
「え、三食全部ですか? それはかなり手間なのでは、そちらで準備された時間に合わせますよ」
恐縮して言う私に女将は「いえいえ、ご遠慮は不要でございます。食べたいときにおっしゃってください。食べたくなければそれもお伺いしますので。お夜食でもいいんですよ?」
さすがに人気の温泉宿だ。サービスは行き届いている。しかしこの女将の貫禄、とても二十歳前後とは思えない。
「ありがとうございます。それではお世話になります」
「はい、どうぞごゆっくりなさってください」
そう言って女将は部屋を出て行った。
私はいっとき畳間に寝転がって、ぼんやりと天井を見上げた。
「さて、これからどうするか」
早速大浴場に行ってみるのもいいだろうし、川に降りて渓流の風情を楽しむのもいい。とにかく時間はあるんだ、このまま少し昼寝と決め込むのもいいだろう。
「いやいやいや、予約の取れない温泉宿に来たんだろ?」
いくつかの選択肢があったが、そもそもの目的を考えれば風呂一択だ。
「よし!行くか!!」私は無駄な気合いを込めて起き上がり、大浴場に向かった。
大浴場棟は本館の隣に建っていたが、もしかしたら裏手なのかもしれない。宿に着いたときにも思ったが、このひなびた温泉宿は、信じられないくらい大きいのだ。
ここまで来る間に数名の宿泊客と擦れ違ったが、みなが軽く会釈してくれて気持ちが良い。ただ、みな一人旅のようで、夫婦連れ立って、という感じの客には会わなかった。
「まぁ、若いカップルには合わないかな、熟年夫婦にはうってつけって感じだけどな」
五つある大浴場のうち三つは清掃中のようだ。
後の二つが男湯、女湯に分けられている。どうやら男湯専用、女湯専用ということではなくて、清掃の後に入れ替えるんだ。常に清潔な湯を提供する。これは簡単そうだが、これくらいの設備がないと難しいだろう。清掃中が三つもあるのは、きっと清掃の段階があるんだな。
私は勝手に想像し、男湯の暖簾をくぐった。
脱衣所から浴場への引き戸を開けると、さすがに大浴場という風情で、広々とした石造りの湯船に数カ所から温泉が流れ込んでいる。外に出る扉もあるから、露天風呂も楽しめそうだ。
先客は3名、一人は外国人のようだ。私は早速下湯を使い、他の人たちと十分に間を置いて湯に身を沈めた。
「ふぅ~」温泉に浸った瞬間のリアクションは皆一緒だ。体の疲れがお湯に溶け出すようなこの感覚。日本人独特の感覚だと思うが、外国人のお客さんも多く来るわけだから、日本人だけのものでもないのかも。
目をつむって顎を上げ、腕を広げ、足を投げ出して天井を見上げるような格好、至福のときだ。
いっとき名湯の心地よさを味わって、先客さんたちに目を向けてみると、いつの間にか一人増えて、私を含め五人になっていた。私も先客さんになったわけだ。
「一体何人の宿泊客がいるのかな? 廊下で会った人もそれほど多くなかったけど」
私は取り留めもなく考えながら、十分に体を温めた。
「さ、少し外の空気にもあたるか」そう思い湯船を出た私は、扉を開けて外に出てみた。
想像通り、そこは広々とした露天風呂になっていた。東屋造りの屋根も大きい、これほど大きな東屋は見たことがない。
岩が配置された湯船には、孟宗竹のように見える管から温泉が注がれている。緑も多く、苔むした雰囲気はまるで庭園だ。
「すごい、こんな露天風呂は見たことないな。さすが予約の取れない温泉宿だ」
私は身も心も洗われるような時を過ごし、部屋に戻った。
十分に暖まったのか、頭もふわふわとして、どうやって部屋まで戻ってきたのか曖昧なほどだ。
「さて、温泉に入ると腹が減る、夕食をお願いするか」
私がここに着いたのは昼をかなり過ぎた頃だったから、これが最初の食事になる。少し緊張しながら部屋の電話の受話器を持ち上げると、すぐにフロントに繋がった。
「はい、渓水の間のお客様ですね。いかがなさいましたか?」
男性の声だ。女将以外の従業員を見ていないから、少し意外な気がした。
「あ、はい、夕食の準備をお願いしたいのですが」
「承りました。では、お部屋にお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
「あの、少しお酒も欲しいのですが」
「かしこまりました。ビール、ワイン、日本酒、焼酎、ウィスキーとございます。いかがなさいますか?」
「そうですね、じゃ、ビールとウィスキーにします」
「承知いたしました。それぞれ準備してお持ちいたしますので」
「はい、お願いします」
私はそれほど飲む方ではないが、これほど準備がいいとどんな酒が出て来るのか気になる。飲むのも仕事のうち、なんていう仕事柄というヤツか。それより、食事の内容や種類を聞くのを忘れてしまった。しかし、何も聞かれなかったと言うことは、選べないのだろうか。
ほどなくして、部屋の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
「お待たせいたしました。では、お食事を準備させていただきますので、少々お邪魔いたします」
食事を持ってきてくれたのは二人だった。男性の方はさっきの電話の人だろう。もうひとりは女将と同じくらいの年齢に見える女性、というか、女将によく似ている。
二人は手際よく料理を卓上に並べていった。肉料理が中心のようだ、それも牛肉、豚肉、鶏肉がそれぞれ数種類の料理法でしつらえてある。
そう言えば私は魚が苦手だが、そんなことは伝えていない。肉料理が多いのは、ここが山間の温泉宿だからだろうか。
「あの」私は女性の従業員に声を掛けてみた。
「魚が苦手っていうこと、私、お伝えしていましたか?」
女性従業員は振り返るとにっこりと笑いながら「ええ、承知しております。この宿をご予約なさるときに、いろいろとお伺いしていますよ?」
「そ、そうですか」そうだ、この宿は予約が取れない、私も何年も待って、ようやく来ることができたんだ。
私は納得して、先ほど気になったことを聞いてみた。
「えっと、お嬢さんは女将さんによく似てらっしゃる。ごきょうだいとか、ですか?」
その問いにも女性従業員は笑顔で答えようとしたが、男性従業員が笑いながら話し出した。
「お客様、このような田舎の宿でございます。女将もこのなでしこも、私もみな同族なんですよ」
なでしこと呼ばれた女性従業員が続けた。
「そうなんです。女将のきさらぎは私のいとこにあたります。こちらはやまみこと申しまして、私の兄でございます」
「そうなんですか、なにか、失礼なことを聞いてしまいましたか」
「いえいえ、とんでもございません。私ども家族はお客様にご奉仕することを誇りにしていますから、ですからこれまでも、お客さま方にとても良くしていただいていると承知しております」
やまみこと呼ばれた男性従業員は、とても丁寧に答えてくれた。
そのような話をしている間も、料理はてきぱきと並べられ、その傍らにはビールとウィスキーが準備された。どちらも数種類の銘柄が置かれていて、とても飲めそうにない。
「お酒、すみませんでした。今日はどちらも少しずついただきますが、明日からは1種類にしますね」
「承知しました。またお申し付けください」なでしこはそう言うと、やまみこに目配せをして立ち上がった。
「それでは、ごゆっくりとお楽しみください」
ふたりは頭を下げると、そろって部屋を出て行った。
「そうか、同族経営ってことか、しかしなでしこさんは綺麗な子だ。やまみこ君もモデル並みだったな」
私は自分のだらしない腹をポンポンと叩いて、ふぅ、とため息をついた。
「ま、それはそれ、これはこれ、食べよう!」
料理は美味かった。牛肉はローストビーフのように仕上がったタタキ、小ぶりだが肉厚のステーキ、焼き加減は私好みのウェルダンだ。薄切り肉の冷やしゃぶサラダ、野菜と一体化する柔らかな牛肉、よほど肉質がいいのだろう。豚肉は角煮、バラ焼き、酢モツ、まるで居酒屋のような料理もここまで昇華するのかと感心するほど美しく盛り付けられ、そして旨い。鶏もそうだ。唐揚げにしろ焼き鳥にしろ煮込みにしろ、締めにと用意された肉そぼろ茶漬けまで、こんな家庭的、大衆的な料理がこれほどの味だとは。これまで食べたことのある料理ばかりだったが、その中で間違いなく1番。安い言い方だが、そう感じるものだった。
「さすが人気の宿ということか、こんなすごい料理が出るなら、もしかしたら苦手な魚料理も、食べなきゃもったいないんじゃないか?」
それぞれの料理に合う酒を少しずつ飲みながら、私はそう考えていた。
「よし、明日の夕食は魚をお願いしてみるか!」
ビールもウィスキーも少しずつ飲んだはずだが、締めの茶漬けを食べる頃にはもう、したたかに酔っていた。
「歯、歯を、磨かなきゃ」
私は仕事柄身についた食後の絶対的習慣を、途切れそうな記憶の中でこなし、これまで味わったことのない幸福感に包まれて、ふかふかの布団に潜り込んだ。
しかし、その布団がいつ敷かれたのか、食事の後片付けはいつされたのか、私にその記憶はなかった。

翌朝、私は気持ち良く目覚めた。昨夜は記憶が曖昧になるほど飲んだはずだが、二日酔いはまったくない。それどころか少し腹が減っている。
「昨夜の飯は美味かった。しかしあんだけ食ったのに、やっぱり腹は減るもんだな」
温泉に浸かると体全体が暖まってカロリーを消費する、要するにちょっと疲れるので腹が減るのだ。私はそう納得し、朝食を頼むことにした。
受話器を持ち上げると、なでしこが出た。
「おはようございます。お客様」
「あ、なでしこさんですか、えっと、朝食をお願いしたいんですが」
「かしこまりました。朝食には和食と洋食をお選びいただけますが、いかがなさいますか?」
私は夕食で魚料理を頼むことを考えて、洋食を選ぶことにした。和食ならやはり塩鮭とかの焼き魚が出てくると思ったからだ。
「じゃ、洋食でお願いします」
「承りました。あ、お客様、わたくし、なでしこではなくて、いざよいと申します」
いざよいと名乗った女性従業員は「よく同じ声と言われますので、お気になさらず」と笑いながら付け加えた。
「あ、すみません、いざよいさん、ですね」
「はい、では少々お待ちくださいませ」
私は少し慌てて謝り電話を切ったが、とてもすがすがしい気持ちになっていた。
「気持ちの良い対応、というのはこういうものなんだな」
私は長らく営業職で、たくさんの顧客と相対していた。月のノルマは厳しいし、常にお得意様のご機嫌を取る毎日。酒も弱い方だったが、接待で飲まざるを得なくて飲めるようになったクチだ。もちろん飛び込み営業も多く、冷たい対応もよく経験した。突然、なんの営業なんだか分からない男がずかずかと入ってくるんだからもっともな話なのだが、それでもすぐに打ち解ける、天性の才能を持った人もいる。
営業の天才?
口から先に生まれてきたような?
好感度の塊?
私はそれほどのものは持っていなかったから、長年すり減ってしまって、少し疲れていたと思う。営業職なんて向いてなかったのかもしれない。ただ、プロの営業マンとしてのプライドだけは持っていた。
そんな私にも、先ほどのいざよいの対応はとても気持ち良く感じるものだった。わざとらしくない自然体の心地よさ。きっと、そういうものを持った人、なんだろう。
ほどなくして扉がノックされ、朝食が運ばれてきた。持ってきてくれたのはいざよいだろう。やはりきさらぎ、なでしことよく似た女性だ。
「では少々お邪魔いたします」
いざよいはそう言うと、昨夜の二人のようにてきぱきと食事を準備してくれた。朝食なので品数は少なかったが、美しい盛り付けのサラダとエッグベネディクト、保温容器に入っているのはクラムチャウダーだそうだ。エッグベネディクトにもバゲットが使われているが、数種類のパンもバスケットに盛られている。コーヒーは作り置きではない香りを放っていた。
「それではお客様、ごゆっくりお楽しみください。片付けは時間をみて参りますから、そのまま置かれて結構ですので」
いざよいはそのまま立ち上がろうとしたが、私は少し話しかけてみた。
「あ、いざよいさん、でしたよね。ちょっといいですか?」
「はい、いかがなさいました?」
「あの、昼までの間とか夜までの間とか、このあたりで何かできることってありますか?」
この宿の周りにはなにもない。土産物屋一軒としてない。だからどうやって暇をつぶせばいいか、聞いておこうと思ったのだ。
「そうですねぇ、お客様にもよるんですが、川に降りて釣りをなさる方や、写真を撮る方もおられますね。でも、部屋でずっと本を読んでおられる方も、温泉にずっと入っている方もおられますよ? のぼせたらと思うと心配なのですが」いざよいは微笑みながらそう教えてくれた。
「つまり、何かの施設とかで楽しむんじゃなくて、とにかく自分のやりたいことをしてるんですね」
「そうですね」
「ネットもないんですよね。予約の時はどうしたかなぁ」
「この宿にはありませんが、宿の予約などは別のところで承っておりますので、ネットでされたかもしれませんね」
「なるほど、そういうことですか」
「もちろん電話や、手紙で予約ということも承っておりますが」
いざよいの話は分かったが、自分がこれから何をして楽しむのか、ちょっと考えつかなかった。
「困ったな、私はこれといった趣味がなくて、川に降りてみようとは思ってますけど、景色を見るだけになりそうです」
いざよいは少し首をかしげながら私を見つめていたが、ふいに何か思いついたように話し出した。
「お客様、宿には釣り具が常備されています。先ほど申しました、カメラも宿に数台置かれているんです。このような田舎の宿ですから、お楽しみいただけるような場所もありませんので、なにか経験してみたいことがあればお手伝いいたしますよ?」
「そうですか、じゃあ朝食をいただきながら考えてみますよ」
「承知しました。では、後ほど」
なるほど、いくら温泉が良くて食事が美味くても、退屈するのは私だけではないようだ。そう思うと少し安心して朝飯が食える。スープが冷めないうちに食べよう。
エッグベネディクトのような洒落たものは食べたことがないが、やはりこの宿の食事は美味い。本物の味を知らないのに本物だと思えてしまう味だ。バスケットに盛られたパンも良い香りがする。きっと焼きたてなんだろう。ちぎったロールパンを熱々のクラムチャウダーに浸せば幸せの味だ。エッグベネディクトのソース、いざよいはオランデーズソースと言っていたか、に絡めてもいい。半熟の黄身は元々入っていたバゲットにも染みているが、カリカリのクロワッサンにもよく合う。新鮮なサラダをライ麦パンに挟んで好みのサンドイッチにするのも面白い。私はあっという間に数個のパンを平らげて、いい香りのコーヒーを楽しんだ。
「あぁ、パンってこんなにも美味いものだったのか」
朝食を食べている間にやることを考える?
そんなことを考える暇がないほど、私は食べることに夢中だった。
- 豪華な料理は接待でいくらでも食ったが、味なんて覚えてない。でも、ここで食べた料理は違う。昨日の夜も、今も、きっとこの味はずっと覚えてる。そう思える味だ。そうか、こんなに美味いものを作るっていうのは、面白いんじゃないか? それに、もし自分が釣り上げた魚を美味く料理できるなら、もっともっと面白いんじゃ -
「決めた!」
私は受話器を取って、いざよいに繋いでもらった。
「お決まりになりましたか?」
「はい、いざよいさん。釣りを教えて欲しいんです。それと、出来ればなんですけど、自分が釣った魚を料理できれば面白いんじゃないかって」
「それはいいですね! では、カメラもいかがですか?」
唐突な提案だった。
「カメラ、ですか?」
私にカメラの趣味はない。スマホのカメラではよく写真を撮るけど、それだけだ。スマホの中には二度と見ない写真が山のようにある。
「はい、カメラです。この宿のそばを流れる渓流は、それは美しい景色なんです。それに、自分が釣った魚がどれほど美しいか、おそらくご経験なさったことはないでしょう。おまけに料理をされたいのですよね。美しく盛り付けられた料理は人の目を奪います。それらを美しい写真に残すのは、とても難しくて、面白いんですよ?」
いざよいはやはり優秀な営業マンのようだ。私はすっかりその気にさせられていた。
「分かりました。ではまず魚釣りから、ですか?」
「そうですね、準備いたしますので、しばらくの間ロビーでお待ちくださいませ」
受話器を置くと、自然と笑みがこぼれていた。
「この歳になって魚釣りか、初めてのことにワクワクするなんて、まるで子供の頃に戻ったようだ」
私はいそいそと普段着に着替え、はやる心を抑えて部屋を出た。

ロビーに着くと、いざよいはフロントのそばに立って私を待っていた。
「お客様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
私はロビーでしばらく待つつもりだったが、いざよいはもう準備を終えているようだ。
私は軽く会釈していざよいに駆け寄った。
「すみません、逆にお待たせしたようですね」
「いえ、お気になさらず。準備もそれほどではありませんので」
いざよいの笑顔にホッとしながら、傍らに置いてある数種類の釣り具に目をやる。
「いざよいさん、私は釣りって初めてなんですけど、竿が何本かありますね、リールが付いてたり、付いてなかったり」
「はい、渓流で釣れる魚は何種類かいるのですが、どれも同じような釣り方で釣れるんです。その釣り方自体も、何種類かございます。お客様がどのような釣り方がお好みか、まずはお試しいただこうかと」
「そうなんですね。じゃ、お願いします」
「かしこまりました、では、参りましょう」
いざよいは私を渓流まで案内してくれた。
川のそばに来ると、渓流の流れは意外と強く、風はその飛沫を含み、水音は更に大きく、いざよいの声も私の声も自然と大きくなる。
「いざよいさん、これでいいですか?」
私はいざよいに言われるまま草鞋に履き替え、一番簡単そうな、リールの付いていない釣り竿を選んだ。
「はい、渓流の石はとても滑りやすいのでお気をつけください。その竿にはもう仕掛けを付けてありますので、まずは餌を探しましょう」
「えさ? 探すんですか?」
「はい、この流れの中の小石をひっくり返すと、ほら」
「わっ!」
いざよいにも持てるような小石だが、その裏側には小さな虫のようなものが何匹かくっついていた。なにやら蓑虫の巣のような砂の塊もある。
「なんですか?これ」私は率直に聞いた。
「これは、カゲロウの幼虫なんです。何種類かいますが、釣り人はこれを川虫と呼んでいます。渓流の魚はこれが大好物なんですよ?」
「はぁ、カゲロウは知っています。あのカゲロウの幼虫ですか。初めて見ました」
「カゲロウはこうやって水の中に住んでいて、羽化して成虫になると水から飛び立ちます。そして子をなし、死んでいきます。カゲロウの成虫には子孫を残す機能しかありません。水も飲まず、何も食べないから、口も、消化器官もないんです」
いざよいの話を聞いていると、なにやら悲しくなってくる。カゲロウはいったい、なんのために生きているのか。
「なにか、悲しいですねぇ」ぽつりと正直な感想が漏れた。
「いえ、お客様。それがカゲロウなんですよ? カゲロウは自分が不幸だなんて思っておりません。ただ、釣りの餌になるのは嫌かもしれませんね」
いざよいは少し微笑みながら言った。
「そうか、そうですね! じゃ、カゲロウの幼虫に感謝して!」
一投目はいざよいに餌を付けてもらった。小さな釣り針に小さな川虫を2~3匹刺し、流れを読みながら振り込む。思ったより簡単だ。
二投目からは自分で餌を付け、岩の影の渦や、落ち込みなど、魚がいそうなところを教えてもらいながら振り込んだ。
激しい水音も気にならず、振り込んだ糸に付いている目印を凝視する。
「ほら!」
ふいにいざよいが声を上げた。私はその声につられて竿を立てた。
「あっ!」
竿は大きくしなり、糸は下流に引っ張られていく。魚は流れに乗って竿を絞り込む。私は必死に耐えた。
「お客様、竿を少し岸寄りに、そうですそうです! あとはもう少し竿を立てて、流れに乗せては駄目です。流れから斜めに魚を誘導して」
いざよいの的確なアドバイスで、魚は岸に寄ってきた。もう流れに乗る力はないらしい。
「さぁ、この玉網で掬ってください」
私はいざよいに手渡された玉網を魚に近づける。魚も身をくねらせながら避けようとするが、竿を立てて魚を寄せ、そして玉網に収めた。
「はぁ、や、やった!! 釣った!!」
「やりましたね!お客様!!」
私もいざよいも満面の笑みだ。こんなに気持ち良く笑うのは、いつぶりだろうか。
「いざよいさん、この魚は?」
「これはヤマメです。大昔、サクラマスが渓流に閉じ込められた魚なんですよ?」
「ヤマメか、テレビで見たことあります。でも、しかし、なんて美しい」
玉網に収まったヤマメは渓流の清らかな流れに横たわり、木洩れ日を浴びて、美しい魚体を更に美しく輝かせていた。
「これは、食べられますか? いや、食べられる大きさですか?」
「はい、25cmはありそうです。お持ち帰りいただけますよ? それとお客様、さきほどこの魚を美しいとおっしゃいました。写真に残したくありませんか?」
「はい! ぜひ!!」
その後、私はいざよいが持ってきていたカメラを借りて、ヤマメの写真を撮った。
古い一眼レフで難しかったが、やはりいざよいが教えてくれて、何枚撮ったか分からないほどの写真を撮った。たった1匹のヤマメの写真を。そして私は、レンズを美しい渓流と、そしていざよいに向けた。
「いかがですか? 釣りと魚、そして風景、写真、ご満足いただけましたでしょうか?」
いざよいは目を細めながら私に聞いてきた。
「はい、なんて面白い、それよりなんて美しい、生きた魚が、川の流れが、木々と太陽と、光と影が作り出す光景が、そしてそこにいる人が、なんて美しいのか。そしてそれを写真に残す行為が、なんと面白い、そして尊い事なのか」
「ふふ、お客様」
「いや、なんでこれまで気が付かなかったんだろう。なんてもったいない時間を過ごしてきたんだろう。こんな簡単なことなのに」
「お客様」
私はハッとした。夢中になりすぎて、いざよいの声が耳に入らなかった。
「は、はい、ごめんなさい」
「ふふふ、お客様、謝る必要なんて。それよりお客様、もう夕刻ですよ?」
「えっ! ホントだ! もう夕方」
「はい、お客様はもうかれこれ6時間か7時間か、お遊びになりました」
「信じられない。時間を忘れて遊ぶなんて、子供の頃以来です」
「ところでお客様、おなかは?」
「あ! お昼食べてない!! おなか、すきました!」
「じゃあ、帰りましょうか」
「うん、帰ろう!」
私といざよいは、夕方まで遊んだ友達のように、宿へ向かった。
途中、辺りは西の空に傾く太陽に紅く染まり、この世とは思えない景色を作り出した。私はまた、その景色とそこに佇むいざよいの姿をカメラに収めた。
美しい、その言葉しか思い浮かばなかった。
宿に着き、ロビーで釣り具とカメラをいざよいに渡し、今日一日の感謝を伝えた。そして、恐縮するいざよいに夕食の準備をお願いして、私は部屋に戻った。
「あぁ、楽しかった。しかし昼飯も忘れて遊ぶなんて、それにしても、楽しかった」
風呂と食事がいくら良くても退屈、そんな思いはもう微塵もなかった。
- 夕食は風呂に入ってからとお願いしてある、それに一品は自分が釣ったヤマメだ。まだ時間はあるが、さっさと大浴場に行って、いざよいさんに取り次いでもらわなきゃ –
私は部屋に付くなり着替えを持って、大浴場に急いだ。
昨日は清掃されていたのであろう、今日の大浴場も手入れが行き届き、また違った造形の湯船は違う温泉宿に来たかのように錯覚させる。
- 昨日の大浴場は石造りだったが、ここは檜か。それにしても、こんな大きな檜風呂なんて、可能なのか? -
私はそんなことを思ったが、目の前にそれがあるのだから信じるしかない。私はゆっくりと湯船に身を沈め、檜の芳香を胸いっぱいに吸い込んで、今日の疲れを癒やした。
- いや、これほど気持ちのいい風呂はないな、疲れも魚釣りの疲れなんだから、もう吹っ飛んでるよ -
- それより、明日も釣りをしよう。ワクワクするな –
私はこの温泉宿を、心から楽しんでいることに気がついた。
- おっと、明日の前に、まだイベントは残ってるぞ –
私は少し早めに温泉を切り上げ、きれいに身支度してそのままロビーに向かった。
フロントにはやまみこがいた。
「やまみこさん、すみませんが、いざよいさんを呼んでいただけませんか? 厨房に取り次いでいただくお願いをしてまして」
「あぁ、いざよいですね、少々お待ちください」
やまみこは微笑みながら受話器を持ち上げ、誰かと話している。と、やまみこは受話器を降ろし、私に向き直った。
「お客様、大変申し訳ありませんが、いざよいはただいま所用で手が離せません。お客様のお話は承っているということですので、女将のきさらぎに取り次がせていただいて、よろしいでしょうか?」
「あぁ、きさらぎさん、女将さんですね。もちろん結構です。よろしくお願いします」
「承知いたしました。それでは少々お待ちください」やまみこはまた受話器を持ち直し、ひとことふたこと話して受話器を置いた。
「すぐに女将が参ります。どうぞそちらでお待ちください」
やまみこに促され、私はロビーのソファに座って待つことにした。
きさらぎはほどなくしてやってきた。
「お待たせいたしました、お客様。厨房の方の準備をいたしましたので、さぁ、参りましょう」
「あぁ、女将さん、ありがとうございます。急にこんなことお願いして」
「いえいえ、いざよいはとても良い提案をしたものだと感心しています。それにお客様もとても喜ばれたご様子で」
「えぇ、本当に楽しかったんです。それに、私が魚料理が苦手だって承知していただいてるのに、今日は魚が食べたいなんて、それも自分で料理したいなんてわがまま言って、すみません」
「そんなお気になさらず、それに今日ご自分で料理してみて、もし調理自体にご興味がおありでしたら、これからも調理場にいらしてくださいませ。料理長にはそう申しつけておきますので」
「いやいやそんな迷惑は掛けられませんよ、本当は自分で釣った魚を食べられるだけで良かったんですから」
「左様ですか、でもやってみたら釣るよりもっと面白い、とお感じになるかもしれませんよ?」
きさらぎはいたずらっぽく笑っている。
「さぁ、着きました。では中へどうぞ」
厨房の中はやはり広く、料理長と思われる人と、幾人かの料理人が忙しく働いている。こんなところで自分の釣った魚を料理するのは、やはり気が引けた。
「お、女将さん、さすがにちょっとご迷惑では」
私が辞退を申し出ようとすると、料理長と思われる人が近づいてきて、私に話しかけてきた。
「渓水の間のお客様ですね。料理長のうみかぜと申します。今日は良いヤマメをありがとうございます。それに、本日は魚料理をと承っておりますので、昨日同様、数種類の魚で整えて参りますから、よろしければその様子もご覧ください」
昨日の夕食はうみかぜと名乗った料理長の手によるものなのか。私は絶品肉料理の数々を思い出した。
「料理長さん、昨晩いただいた肉料理は本当に美味しかったですよ。あんな美味しい料理、私は食べたことがありません。全部が私の一番でしたよ」
私はなんの誇張もなく、うみかぜの料理を絶賛した。
「今日も楽しみでしょうがありませんが、その前に、自分が釣った魚の料理など受けてくださって、本当にありがとうございます」
うみかぜはにっこりと笑いながら「そう言っていただくと料理人冥利につきますね。さぁ、ヤマメを調理してみましょうか」
そう言いながら、うみかぜは調理台の方へ歩いて行く。背が高い。年齢は四十過ぎというところか、それにしても格好いい。外見も立ち振舞いも。この宿の従業員は皆そうだが。
私と女将がうみかぜの後ろをついて行くと、まな板の上に、私が釣り上げたヤマメが置かれていた。
「これはお客様が釣り上げたヤマメです。では、私が言うように下ごしらえしていきましょう」
私はうみかぜの言うとおりにヤマメのぬめりを取り、初めて握る包丁でヤマメの腹を割き、内臓を取り出した。
ヤマメを流水で洗っていると、うみかぜが感心したように話しかけてきた。
「お客様、初めてとは思えない包丁さばきです。この後は水気をよく拭き取り、塩焼きにいたしましょう。渓流魚ですからルイベにしても美味しいでしょうが、まずは素材の味がしっかりと分かる料理がいいでしょうし」
私はうみかぜの言葉に少々照れくささを覚えながらも、初めて触る生の魚や内臓の感触を思い出して、不思議な感覚に囚われていた。
「料理長、私が魚が苦手なのはご承知ですよね。でも今日、生の魚や内臓を触っても、特段嫌な気持ちにはなりませんでした。それよりも、ただの魚がこうやって料理に姿を変えるのか、という、新鮮な気持ちでいっぱいです」
 「そうですか、それは何よりです。ところでお客様、どうして魚が苦手なのですか?」
「いや、お恥ずかしい話ですが、私は魚の骨が苦手で、子供の頃から上手く食べられなくて、骨が喉に刺さることもあって、あと、刺身に小骨が入ってることも、そんなこんなで魚自体を敬遠するようになってしまったんです」
「ははぁ、それはよくある話ですね。でもお客様、そういう方も、魚の仕組みを知れば、結構上手に食べられるようになるんですよ?」
「さかなの、しくみ、ですか?」
「そうです、魚の仕組みです。魚によって骨や内臓の位置が違うんですよ。ですから調理するときも食べるときも、魚の仕組みを知っていれば上手くいくんです」
「なるほど、骨の位置とか分かってれば避けられる、ということですね」
私が感心していると、きさらぎが話しかけてきた。
「そうですね、お客様、今夜は魚料理です。当然骨の入った料理もあります。ですがうちの料理長は、魚の骨を抜いてお出しするようなことは絶対にいたしません。料理の一つ一つに工夫をしてお出ししますが、ヤマメの塩焼きのように、骨を避けて食べるしかない料理もあります。いかがでしょう? 差し出がましいようですが、今夜の夕食に私がご一緒して、魚の仕組みを教えて差し上げる、というのは」
「えっ! そんなご迷惑をお掛けするわけには! それに、私も子供ではありませんので」
さすがにこれは辞退しなければ、私はそう思ったが、うみかぜがその提案に賛同した。
「お客様、これはチャンスですよ? 一度覚えてしまえばもう忘れることはありません。それに私もきさらぎがいてくれるとなれば、制限なく魚を料理できるというものです」
「そ、そうですか。いや、それではその、私のヤマメの塩焼きだけで結構です。ヤマメを美味しく食べられるように、教えていただけますか?」
「そうですね! お客様が初めて釣り上げたヤマメです。美味しく食べていただけるよう、私も全力で」
「いやいや女将さん、そんなに力を入れなくて大丈夫ですよ」
「あら、私としたことが、お恥ずかしい」
うみかぜは笑っている。いや、調理場の料理人皆が、私たちのやり取りを聞いて笑っているようだ。決して嘲笑ではない。暖かく見守ってくれているような、そんな笑顔の中に、私はいた。
その後、串打ちされたヤマメが炭火で炙られ、それ以外の魚料理ができあがっていく様を見せてもらった。
- あぁ、美味そうだ -
もう十分だ。私はきさらぎに日本酒をお願いし、部屋に戻ることにした。
- 配膳にはもちろん私と、やまみこがお伺いします -
きさらぎはそう言っていた。私は窓際の椅子に腰掛け、川のせせらぎを聴きながら今日一日のことを思い出し、自然と笑顔になっていた。
「そうだ、まだたったの一日が終わっていない。もうすぐきさらぎさん、女将さんとやまみこ君が料理を持ってきてくれる。こんなに一日を長く感じるのは、なぜだろう」
そんな独り言をつぶやいたとき、ノックの音がした。
「失礼いたします。夕食のご準備に参りました」
「はい、どうぞお願いします」
私が応えると、きさらぎとやまみこの二人が挨拶をしながら扉を開け、やはり昨晩のように手際よく料理や皿を並べながら、それぞれの料理の説明をしてくれた。私が魚料理が苦手なことを知っての心遣いか。
今夜の料理は先ほど厨房で見たものだが、やはり器に盛り付けられると違う料理のように見える。和食の始まりを告げる八寸、美しく盛り込まれた三種盛り。魚は鯛とマグロ、それにイカ。鯛は松かさ造りと平造り、マグロは本マグロの中トロの湯霜だそうだ。イカはアオリイカ。細かな細工包丁が施され、軽く炙ってあるようだ。
煮物は意外にも鯖の味噌煮だ。昨晩もそうだったが、こんな大衆的なものが恐ろしく美味かった。これもきっとそうだろう。
そのほかに揚げ物や椀物があり、締めは鯛飯だそうだ。
上品でありながら十分な品数と量がある。
「お客様」
やまみこが私に話しかけてきた。
「こちら、焼き物となります、ヤマメの塩焼きでございます。これは特別に、こちらに運ぶ直前に焼き上がるよう、料理長が差配しておりました。食事の順としてはおかしいのですが、ぜひ最初にお召し上がりください」
「本日の料理の中で、この塩焼きがもっとも難しいと思いますよ? せっかくお客様が釣って、料理もされた初めての魚です。私がお手伝いしますので、温かいうちに召し上がってください」
きさらぎがいたずらっぽい笑顔を浮かべながら私の横につき、まずは、と日本酒を勧めながらそう言った。
私は日本酒をひとくち含み、意を決したように箸を手にした。
「そうですね、では! いただきます!!」
その後、きさらぎはヤマメの頭の付け根、胸びれのあたりを少し押さえ、魚全体を軽くほぐし、それから箸を入れるように教えてくれた。
「魚の骨は、背骨の他に、背びれ、腹びれの根元にある骨、それと体側の側線の下に血合い骨が並んでいます。ですから、魚の体は背側と腹側に綺麗に割れるんです。背びれと腹びれは魚体を押さえながら抜くと骨も一緒に抜けることが多いですね」
なるほど、きさらぎの説明通りに箸を入れると、ヤマメの体は綺麗に割れた。ひれに付いた骨もこうしてみるとよく見える。
私はまず、背側の身をむしり、口に運んだ。
「熱い、う、旨い」思わず声が出た。炭火で焼いたヤマメの身はまだ熱々で香ばしく、何ともいえない旨味と、上品な香りを放っていた。
「これが魚の匂い、いや、香りか」
「ヤマメは元来、鱒です。香りは鮎のような独特なものではありませんが、とても上品ですね」
「それに、日本酒とこの上なく合う」
ヤマメの程よい塩加減は、日本酒の甘さとよく合い、ひれに施された化粧塩の強い塩味とも相まって、更に酒を進ませる。
「きさらぎさん、ここは」
「はい、ここが一番の難関、腹骨です。ですがよくご覧ください。腹骨は長く、湾曲しながら内臓を守っています。ですからその太い方をちょいとつまめば」
「あぁ、分かりました、スルッと抜けますね! この要領で骨を抜いていくと」
- うん、よく分かる。骨があるところの身をむしろうとするからだめだったんだ。骨があるなら抜けばいい -
「うん! 美味しい! 背中の身より脂が乗っていて、柔らかくて」
私はあっという間にヤマメを骨だけにしてしまった。こんなに綺麗に食べることが出来たのは、生まれて初めてだ。
「お客様、お上手でした。これで他の魚も、本日の料理ではこの鯖の味噌煮も、椀ものの鯛のあらも、上手く食べることが出来るはずですよ?」
きさらぎはそう言うと、更にいたずらっぽく笑いながら続けた。
「ではお客様、渓流魚の塩焼きの最後に、あまり上品ではありませんが、最上の味をご用意します。やまみこさん、お願い」
促されたやまみこは黙ってうなずき、私の前の皿に残ったヤマメの骨を、大振りの杯に移した。傍らには小さな火鉢が置かれ、その上でなにやら液体が温められている。
「では、ヤマメの骨酒と参りましょう」
やまみこはおもむろに液体の入った器を持ち、ヤマメの入った杯に一気に流し込んだ。
湯気が立つ、この香りは日本酒だ。それも相当な熱燗。そしてその香りはすぐにヤマメの香りと交わり、更に炭火で焦げた香ばしい香りも加わった。
「ヤマメの骨酒でございます。どうぞ」
やまみこは杯を私の前に置いた。私はそれを両手に捧げ、恐る恐る口をつけ、ひと口含んだ。
「はぁ、これは、すごい」
日本酒の芳醇な香り、味、それにヤマメ本来の味と塩味、炭火の香ばしさ、焦げた皮の香りまで渾然一体となって、私を圧倒した。
「美味い、こんなの初めてです」
「ふふ、本来は身を食べずに作るんですけど、今日は特別です。でも、味は骨酒、というくらいですから、あまり変わらないんですよ?」
夢中になって飲み干す勢いの私を、きさらぎは満足げに見ていた。
「しかしきさらぎさん、ヤマメ1匹でこれほど楽しませてもらったのに、まだこんなに料理があります。私、酔ってしまいそうですよ」
昨晩のこともあって、私は少し不安になった。
「酔ってしまったら酔ってしまったで、お休みいただいて大丈夫ですよ? 昨晩もそのようでしたし」
「あ、やっぱりそうでしたか。いや、お恥ずかしい」
「お気になさることは何もありません。ここはそのように、ご自分のことを見直し、そして気づくための場所でもあるのですから」
「そうですか、ではお言葉に甘えて」
私はきさらぎの言葉の意味も考えず、並べられた料理を堪能し、数種類用意された日本酒を楽しんだ。
きさらぎとやまみこの二人は、結局夕食の間ずっと私の側で、使われている魚の種類やその他の調理法、食べ方などを教えてくれた。
「そうなんですね、鯖はマサバとゴマサバがあって、え? 厳密にはマグロもサバ?・・・」
「カツオは生で美味しくても火を通すとあんまりって、そうなんだ・・・え? カツオもサバ?」
「へぇ、で、マグロは5種類か、鯛も5種類?って、鯛はたくさんあるんじゃ、え? あれは鯛じゃない?・・・」
苦手だったはずの魚料理、それはこれまでの人生を後悔させるほど美味くて、面白かった。
「きさらぎさん、やまみこさん、今夜は本当にありがとうございます。忙しいのに、こんな私のために」
「いえいえ、私もやまみこも、なかなか良い経験をさせていただけました。魚料理が苦手な方はこれまでもいらっしゃいましたし、肉料理が苦手という方も多いんですよ? 今夜のことはこれからこの宿のマニュアルにしようかしら、って考えてるところです」
きさらぎはにこやかに答えてくれた。その横で片付けをしているやまみこも笑顔でうなずいている。
「そう言っていただけると、私もうれしいです。あ、それと、明日以降の食事なんですが、肉も魚も関係なくお任せしたいと思うんですが」
「左様ですか、それはとても良いことだと思いますよ? では、うみかぜにそのように伝えておきますので、でももし、うみかぜが凝りすぎな魚料理を出そうとしたら、あらかじめお伺いしますね」
きさらぎはまたいたずらっぽく笑って言った。この人はよく、こんな笑顔を見せる。
「え? それはどんな料理でしょう?」
「そうですねぇ、フグの卵巣ですとか、コノワタですとか、くさやですとか」
「はぁ、それはどんなふうに?」
「あぁ、フグの卵巣は本来猛毒、コノワタはナマコの内臓、くさやは」
「うわ、猛毒に内臓、あ、でもくさやは知ってます。匂いが、あれなやつですね」
「そうです。でも私は大好きですよ?」
「そうですか、じゃ、挑戦してみようかな」
「ふふ、では、うみかぜに申し付けておきますね。では、そろそろ片付けも終わりましたので」
そう言って、きさらぎは片付けを終えたやまみこと部屋を出て行った。
「あぁ、楽しい一日だった」
私はひとりになって、心底そう思えた。そして先ほども感じた感覚に浸っていた。
「一日、たった一日だぞ? 長かったなぁ」
その想いは、布団に入って寝入るまで、消えることはなかった。

翌日から私は毎日、起き抜けに温泉に浸かり、軽い朝食を食べ、川に降りて釣りをした。初めて釣りをしたときの仕掛けは延べ竿を使った脈釣りという釣り方だったが、宿には他に、ルアーを使う道具や、日本の毛針を使うテンカラ、ヨーロッパで生まれたというフライという釣り方もあり、とにかく飽きなかった。
昼食も軽く済ませることが多くなり、昼からは、川辺の木々と渓流の岩と水が創り出す幻想的な景色を夢中になってカメラに納めた。
その時々に、いざよいが付き添ってくれることもあり、私のカメラには、自然と彼女と景色が一体になった写真も多く入った。
そして夕方に宿に戻り、ゆっくりと温泉に浸かって疲れを癒やした。
夕食は相変わらず美味かったが、そのうち私の中にちょっとした変化が起こった。
「やまみこさん、今日の食事なんですが」
私はもう、朝のうちに三食分をお願いするようになっていた。そもそも出てくる料理はいつも美味い。文句の付けようがないからだ。しかし。
「はい、いかがいたしましょうか」
「えっと、いつも食事は美味しいし、飽きたわけでもないんですが」
「はい?」
「えっとですね、ラーメンとか、食べたいんです」
「左様ですか、お客様もいよいよですね」
何が ”いよいよ” なのか、やまみこの真意は分からなかったが、きっと美味い料理に慣れすぎると、B級グルメが食べたくなる客も多い、ということだろう。
「う~ん、ラーメンって言うのも、インスタントラーメンが食べたいんですよ、みそラーメン、それと」
「カレー、ですか? それもレトルトの」
「そうですそうです! 何で分かるんです?」
「ははは、いや、失礼しました。ついでに申し上げますと、お客様が食べたいと思われているのは、あと、ハンバーガー、それもビッグマっ」
「ぐ、うん」
「それからピザ、チーズがどっさりのっていて、ピースを取り分けると、チーズがビヨ~ンと伸びる」
「は、はぁ」
 「はふはふ食べるタコ焼きに、お好み焼き、焼きそば、それも大盛り!!」
「え~、なんで?」
「はっはっは!」
やまみこはホントに失礼なほど大きな声で笑った。
「いやいや、本当に失礼いたしました。お客様があまりにも分かりやすく反応されるので、つい」
「やまみこさん、勘弁してくださいよ」
「はい、お客様、とりあえず本日の朝食は? いかがなさいます?」

この日以来、私は恥ずかしいほどの量を食べた。ハンバーガー2個にポテトにコーラ、全てLサイズとか、インスタントラーメンを3食分と山盛りの白飯とか、カレーなんて、3杯食べて腹一杯!と思ったら、もう少しといって4杯目を平らげる始末だ。もちろんB級グルメと言いながら、この宿の飯は美味い。インスタントラーメンなのに別格に美味く感じるのは不思議だが。
それと、いつの間にか酒を飲まなくなった。B級の晩飯ではないこともあったのだが、酒を飲む気が起きない。例えば肉料理なら分厚いステーキや山盛りの唐揚げだけ、それと山盛りの白飯が食いたいのだ。
そんな日々は夢のように過ぎた。正確には、毎日が初めての発見で、一日一日がとてつもなく長く、しかし振り返るとあっという間に過ぎている。という感覚だ。これではまるで・・

「お客様」
ある日、いつものように川で釣りをしていると、ふいに後ろから声を掛けられた。振り返ると、女将のきさらぎがにこやかに立っていた。
「あぁ、きさらぎさん、なんか、お久しぶりですね」
宿に泊まっているのに女将さんに会うのが久しぶり、というのはおかしな感覚だ。私はキャストしたルアーを手早く回収して、きさらぎの方に向き直った。
「お客様、最近はたくさん召し上がっておられるようで」
「あ、いや~、この歳なのに、ってことでしょう? ホント、高校生か!ってくらいですよね。それにあんな炭水化物ばっかり、最近は太って太って」
「本当ですか? お客様、ずいぶんとお痩せになってますよ? それに、こんな不安定な渓流の岩をポンポンと飛んで回っておられます」
私はハッとして自分の体を見直した。確かに痩せている。ここに来たときはたぷたぷだった腹がしっかりと締まっている。それにきさらぎの言うとおり、この渓流の岩場は大きな岩がゴロゴロしているところもあるが、岩に登るのも飛び移るのも、まったく苦にならなかった。
「あ、本当ですね。毎日あんなに食べてるから、つい。しかし、毎日温泉に浸かってるんだから気がつきそうなもんですけど、気づかなかったなぁ」
「そうですね、お客様はもうずいぶんとこの温泉宿でお過ごしになりました。それで、心も体も生まれ変わっているようです」
「ホントにそうです。だからなんだなぁ、この宿が人気ナンバーワンで、人生1度は来るべき宿、って言われてるのは」
「ふふふ、それは本当に光栄なことですわ」
きさらぎはいたずらっぽい笑顔を作った。こんなとき必ず、彼女は私になにか提案してくる。
「ではお客様、明日からしばらくの間、私どもでも中々手に入らない、貴重な食材をお試しいただきたいと思うのですが、よろしいですか?」
この宿の料理が不味かったことなんて一度もない。そんな宿の女将が貴重な、と言うんだ。断る理由などなかった。
「それはうれしいご提案です。じゃあ、明日の朝からですね」
「はい、明日の朝から。では本日の夕食は、お客様が特に食べたいものをお申し付けください」
きさらぎの言葉の意味は、ときどき分からないことがある。しかし、特に食べたいもの、と聞かれると逆に思いつかないものだ。
「いや、なんでもいいですよ。美味しくなかったことないですし、まぁ特に、と言われると、焼き肉とかかなぁ」
「分かりました。では、お肉を何種類か揃えてお持ちしますね。あとお酒は」
「いえ、アルコールは結構です。その代わり、白飯はたくさん欲しいですね」
「ふふふ、本当にたくさん召し上がりますものね。ではそのようにいたします」
そう言うときさらぎは宿に戻っていった。
「きさらぎさんが特別って言う食材、なんだろうなぁ」
夕食の焼き肉はもちろん最高のものだったが、それ以上のものとは一体なんなのか、私は布団の中でもそのことばかり考えていた。

翌朝、いつものように温泉に浸かり、食事を頼むことにした。電話に出たのはいざよいだった。
「おはようございます。えっと、今日の食事なんですが」
「承っております。お客様、本日から特別な献立となりますので、和食か洋食かをお選びいただければ、私どもで厳選した食事をお持ちいたします。いかがなさいますか?」
「そうなんですね、では、朝は洋食で、昼と夜は和食でお願いします」
「かしこまりました。では朝食はこれからお持ちいたしますので」
「はい、じゃあ、お願いします」
ほどなくして扉がノックされ、朝食が運ばれてきた。いつものようなメニューではないだろうと思ってはいたが、いざよいが私の前に置いた食事を見て、私は少々ガッカリした。
「え、これだけですか?」
「はい、これだけです。ですが、おかわりはできますので」
「おかわりと言ったって」
そのメニューは、食パンと牛乳だけだった。バターやジャムなども置かれていない。サンドイッチに出来そうなサラダも付いていない。ただ、傍らに小さな火鉢が置かれ、食パンと牛乳を焼いたり温めたりするようだ。
「こちらで私がお好みの加減に焼きますので、牛乳も冷たいもの、温かいものとお申し付けいただければ」
そう言われても私のガッカリ感は消えなかったが、いざよいがわざわざ側で焼いてくれるんだから、と自分を納得させた。
「分かりました。じゃあ、食パンはカリッとしっかり焼いてください。牛乳は冷たいままで」
「かしこまりました」
いざよいは手慣れた手つきで食パンを焼いている。炭火で焼くので均一に焼くのは相当難しいはずだが、まるで煎餅でも焼くように、むらなく焦げ目が付き、何ともいえない香ばしい香りが立ちこめた。
いざよいは皿にトーストした食パンをのせ、透明のグラスに牛乳を注いで私の前に差し出した。
「どうぞ、お召し上がりください」
目の前でトーストを割ってみると、香ばしさの中から更に強い、甘い香りが放たれ、私の嗅覚を直撃した。
サックリとした表面に反して中はふわりと柔らかく、餅を割るような粘りさえ感じる。
「はふ」
口に含むと小麦の香りと味が炸裂し、次に強い甘みが舌に乗る。サックリふわりとした食感も楽しい。耳はカリカリとして、まるでトンカツの衣のようだ。
「お、おいしい」素直な感想が口をついた。続けて牛乳を口に含む。
「これ、牛乳?」これまで飲んだことのある牛乳とは別物と思えた。すんなりと喉を通るが、強いコクと甘みがある。クリームならそういう味だろうが、こんなにスムーズには飲めないはずだ。それが口中でトーストと合わさり、まるで上質なクリームスープを飲んでいるかのようだ。
私はあっという間に1枚を食べ終え、冷たい牛乳をぐいっと飲み干して、いざよいに向き直った。
「いざよいさん、次は逆で、牛乳を温めて、パンは焼かずに」
「かしこまりました」いざよいの笑顔は満足げだった。
私は食パンの焼き加減を変え、牛乳も温めたり、冷たいまま、といろいろに変えて、10枚の食パンを平らげた。牛乳も2リットルは飲んだようだ。
「ふぅ、美味しかったです。いざよいさん」
「左様ですか? そう言っていただけると私もうれしいです。なにしろこれからはパンやご飯といったものだけを召し上がっていただきますので」
「え? じゃ、洋風ならパン、和風ならご飯だけ、ってことですか?」
「左様でございます。それぞれに今回の牛乳のような、シンプルな副菜を添えて召し上がっていただきます」
- 牛乳って、副菜だったんだ -
少々言いたいことはあったが、その牛乳をぐいぐい飲みながら夢中で食パンに食らいつくんだから、文句は言えない。それよりも、これほどに美味い食パン、そして牛乳は初めてに思えた。
「いざよいさん、この食パン、それに牛乳はすごく特別なものなんですか? きさらぎさんは特別な食材、って言ってましたけど」
「そうですねぇ、もちろん最高級のもの、と申し上げたいのですが、実は結構普通の食パンと牛乳です。ただ、その入手は困難で、それが特別、という意味になるでしょうか」
「普通、ですか、なんだかホントに初めての味だったんですけど」
「ふふふ、これからお召し上がりいただくものも、みなそのような、お客様が人生で初めて出会ったときのものだと、だから入手が困難な特別なものだと、ご理解いただいた方が良いかもしれません」
いざよいの言う意味はよく分からなかったが、その笑顔は少しいたずらっぽかった。まるできさらぎのようだ。
それから供される食事は、いざよいが言うように実に質素なものだった。しかし、これもいざよいが言うように、ごく普通の食材のはずが、どれもこれも生まれて初めて食べたような感動を与えてくれるものだった。
艶々と光る白飯は、部屋に持ち込まれた七輪の上で炊かれたものだ。必ず女将や従業員の誰かが付いて炊き上げてくれる。土鍋から吹き上がる泡と蒸気、そのあとにわずかなお焦げの香りが立ち、食欲を増してくれる。
十分に蒸らされた白飯は茶碗に盛られるとその輝きを増して、口に含めば香りが更に増し、粘りのある米粒を噛み締めると一粒一粒の甘みが味覚を支配する。
何ともいえない幸福感。
そしてその白飯を引き立てるのは、ある日は玉子、ある日は香の物、調理法も種類も毎度違う。必ず添えられる味噌汁はやはり毎度違う1種類のだしと味噌で調味され、飲むたびにその旨味を実感する。
最初のうち何度かは洋食も食べた。パンも副菜ももちろん美味しく、毎回驚きの連続だったが、私はどうやら白飯が好きらしい。3日目からは和食のみになった。白飯と合う一品というのは、もしかしたら無限にあるのかも? それに味噌汁のだしと味噌の組み合わせも同様だ。
私はそんな食事を腹一杯食べ、そして朝から夕まで渓流で遊び、温泉に体を浸す日々を過ごした。

ある夜、ふいに扉がノックされた。
「もう寝る時間だけど、誰かな?」
私は、はーい、と返事をして扉を開けた。
そこには包みを抱えたいざよいが立っていた。
「あれ、いざよいさん、こんな時間に」
「お客様、少々お時間いただいてもよろしいでしょうか?」
いざよいは私の言葉を遮るように聞いてきた。
「は、はい、どうぞどうぞ」
「お邪魔いたします」
いざよいは窓際のテーブルに向かい、椅子に手を掛けて私に向き直った。
「お客様、こちらへ」
「はい」
いざよいの言葉には抗えない力がこもっていた。私は素直にテーブルに向かい、椅子に腰掛けた。
「では、私も」いざよいはテーブルを挟んだ向かいに座り、手に持った包みを目の前に置いた。
「お客様、これはお客様がこの宿にお越しいただいて、これまでに撮った写真です。渓流の魚たち、岩肌に当たる水しぶき、輝く水の流れ、山の木々と太陽が織りなす景色、そして、美しく盛られた料理」
「わぁ、そう言えば、あんなに写真を撮ったけど、見てないですね!」
「はい、これはフィルムなので、現像が必要だったんです。すべて私が現像させていただきました」
私は包みを開け、その一枚一枚に目を通した。
「これを全部、いざよいさんが」
「はい、覚えていらっしゃいますか? 最初に撮った写真。あの後私はこの写真を現像していたんです。最初からお上手でしたよ?」
「あぁ、これ!懐かしい。私が初めて釣ったヤマメ。綺麗だなぁ。あ、これはあの岩の上から撮った渓流、水が流れてるだけなのになんて美しい、一瞬として同じじゃないのに、写真にするとそれを留めておける」
「えぇ、お客様は特に釣りと景色の写真がお気に召したようですね」
「いや、いざよいさん、私は料理の写真も好きですよ? いざよいさんが言ったように、料理人が丹精込めて盛り付けた料理っていうのは、それだけで芸術作品のようです。それは食べればおしまいだけど、写真に残せばずっと楽しめる。カメラを借りっぱなしになることもありましたけど」
「あぁ、お客様はとても分かってらっしゃる。きっと、もう忘れませんね」
「え? 忘れる?」
私は写真に夢中になっていて、いざよいの言うことをよく聞いていなかった。
「あれ?」
私はひととおり写真を見終わって、不思議なことに気がついた。
「いざよいさん」
「はい」
「この写真とか、これとか、これも、いざよいさんが写ってませんでしたか? 私は魚や風景と同じくらい、いざよいさんも撮ってるはずなんですけど」
渓流の水辺に立ついざよい、木々の陽だまりに佇むいざよい、魚を見せてくれているいざよいの手、美しい料理を説明してくれるいざよい。
私が撮ったはずのいざよいの姿は、いざよいの写真は、一枚としてなかった。
「あぁ」
いざよいは返事ともなんとも付かない声を、ひと言だけ上げた。
「え?」
私はいざよいに顔を向けた。
私の目の前には、ただ幾枚もの写真が残されているだけ。
いざよいは、いなかった。
「いざよいさん!」
呼んでみても、部屋にいざよいはいない。
「そ、そんなはずないよ、今、いまいたのに!!」
私は立ち上がり、泣きそうな顔で廊下に飛び出した。
「いざよいさん!!」
誰もいない。誰も応えない。私は走り出した。
「そうだ、フロント! やまみこさんやきさらぎさんがいるはず!」
私は走った。長い長い廊下だった。初めて来たときと同じ感覚。普段はこんなに長いとは思っていなかった。
ロビーに着いたが、フロントにもロビーにも、誰もいなかった。そう言えば、他の宿泊客もいない。
「ち、厨房は?」厨房ならうみかぜや他に何人もの料理人がいる。夜食も作ってくれるのだから、誰かいるはず。私はフロントの電話を掴み、受話器を上げて厨房のボタンを押した。しかし、受話器からは何も聞こえない。呼び出し音すら鳴らない。
「どういうこと? どういう、そうだ!温泉!! 温泉に行けば絶対に誰かいる!温泉は24時間なんだから」
私は向き直り、大浴場に向かって走り出した。もうなにも考えられない。いつもいつも私のそばにいてくれる人たちが、誰ひとりとしていないから。
なぜだろう? この宿の人たちはただの従業員じゃない、私の中で何者にも替え難い大事な人たちになっていた。
私は泣きながら走る。
「きさらぎさん! なでしこさん! やまみこさん! うみかぜさん!」「いざよいさん!」
私は大浴場に走り込み、浴場に続く扉を勢いよく開けて飛び込んだ。
湯船には、誰かがいた。
私は立ちすくんだ。
「お客様、こちらを選ばれたのですね」
いざよいだった。
「あ、ご、ごめんなさい! 女湯に入っちゃった!」
いざよいの顔を見て心底安心したが、いくらなんでも女湯に飛び込むとは。
「ふふふ、いいんですよ、どうぞ、一緒に入りましょ」
「え?」
「どうぞ、お嬢ちゃん」
いざよいは湯船から手を伸ばし、私の手を取って導いてくれる。私は抗う間もなく、いざよいの懐に抱かれていた。
もう、なにも分からなかった。なにも考えられなかった。そんな私の耳に、いざよいの言葉が届いた。
「さぁ、温泉から上がりましょう」
私の意識は徐々に薄らいでいった。

気がつくと、私の目の前にいざよいの顔があった。
「お客様、最後のお食事ですよ?」
いざよいが私の口に含ませてくれたのは、甘い液体だった。砂糖を入れた牛乳だろうか。それは温かく、私の脳髄に直接届くような心地よい香りと味を持っていた。
「お客様が選ばれたのは、いざよいでしたね」
「えぇ、きっとご縁があるのですよ」
聞こえる声は、きさらぎのようでもあり、なでしこのようでもある。
「あぁ、ぜんぶ召し上がりましたね」
やまみこの声にも聞こえたが、私は何も言えなかった。
「でも、もうすぐまた、お召し上がりになりますよ?」
「それと、もうすぐまた、会えますね」
いざよいの声を聞きながら、私の意識は深い闇に溶けた。

私は泣いていた。なにも分からず、とにかく泣いていた。
- 寒い寒い寒い -
その感覚しかなかった。
すぐに私は、誰かの胸に抱かれた。
温かい。懐かしい温かさだ。
私も泣いているが、私を抱く誰かも泣いているようだ。
他の誰かが言った。
「おめでとうございます。元気な女の子です」
「さぁ、初めてのお食事ですよ?」
大きく口を開けて泣いている私。
その口に、柔らかな甘みの液体が流れ込む。
私は、その味を知っていた。

わたしは川が大好き。
いつもじいちゃんと遊びに来るの。
今日はじいちゃんが釣りを教えてくれるって、とっても楽しみ!
”みゃくづり”って、昨日の夜教えてくれたけど、できるかな。
わたしはじいちゃんの竿を借りるの。
もう仕掛けは付いてるんだって。
じいちゃんは自分の竿に仕掛けを付けてる。
もう、釣っちゃおうかな。
なんかね、石をどけるとね、虫がいるのよ。それをね、針にちょっと付けて、あそこに入れてみたら良いんじゃないかな?
ほら来た!
ぐいぐい引っ張られる。
すごい力、でも大丈夫。
「じいちゃん!!」
「はらら? なんだで、もう釣ってるんか?」
「あはは、釣れた」
おっきいサカナ。すっごく強いの。
でも大丈夫だった。
「じいちゃん! これなに? きれいなサカナ!」
「それはな、ヤマメだで。うまいぞ~ しかしお前、よくひとりでそんな」
「じいちゃん! これ、写真撮りたい!!」
「あ~ん? 写真か? なに珍しいこと言うとるだ」
「じいちゃん! これ、骨酒にしてあげる!!」
「はぁ? 骨酒? 小夜、なんだでそんなもん知っとるんか?」
わたしはちょっとだけ考えたけど、答えはひとつだわ。

「さよ、わかんない!!」

わたしの名前は小夜。
じいちゃんと川と、おとうちゃんの膝と、おかあちゃんのご飯と、初めてのことが大好きな、5歳の女の子だ。

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