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傷と気づきと

二つの出来事があった。
取るに足らない、ちいさな出来事ではあるが、二つのうち一つには、少しばかり傷ついてしまったので記録しておこうと思う。

一つめ。
打合せのときに、問われたときにはどう答えるべきか、つまり回答に困る質問があった場合にはどうしたらよいか、との質問があった。
回答すべきは組織としての方針で、回答者によって差が生じてはいけないと思うから、ということであった。
しごくもっともではあるし、間違いではない。
しかしながら、しょせん「他人事」のように感じているようにも思えた。

結局は自分が嫌な思いをしたくないから、ということを優先しているのではないか?
クレームの対象になりたくない、対応をしたくない――というか。
もちろん、「組織としての統一見解」が理由になるのもわかるのだが、どこかもやもやしてしまう。
マニュアルがないからできない、という感覚のような?

たしかに、自分も若かりし頃は、そんな態度でいたのかもしれないな、と振り返る。
ただ今回の場合、発言者が文字通り下っ端、たとえば年少者だったり職歴の浅い人たちだったなら、「そう思ってしまうのもしかたないよね」ととらえられたのだが、そこが違う。
何年も働いてきてベテランの域に入る人たち。
そして、それなりに主任くらいのポジションを得ている人たち。

多少はクレーム対応であっても、自分なりのベストを尽くせるくらいの経験を積んではいるはずなのに。

ちょっとした寂しさを覚える。


二つめ。
席を外しているあいだに、家の庭でとれたという果実をお福分けしてくださった方がいて、それを近くにいた人たちがこぞって受け取っていた。
戻ってきたときに、なぜ皆が果実を手にしているのかわからなかったが、事情は把握できた。
席にいない人たちの分も、と追いかけてもらっていた人もいたが、それはわたしのところには届かなかった。

比べられる事実があると、少しく傷つくものだ。

その果実がほしかったわけではない。ただ、そこに数えられるひとりではなかったことに傷ついたのだ。
離席している人が「自分にとっての仲間かどうか」の判断のもとに、お福分けをその人にもしてもらおうと働きかけるかどうか――ということ。

わたしは彼らにとって、好意で果実を持参くださった方を追いかけてでも、追加でお福分けをもらうべき、そういうふうに「数に入れる・数えられる(数えたい)」相手ではなかった――ということ。

そのことに、いくらかの悲しさとショックを覚えてしまった。
たいていの人は、そんな場面に遭っても気にしないのかもしれない。気づかずに終わることだってあるだろうし、気づいても気にならないかもしれない。
そもそも自分でも、そんなことで傷つくなんて、と思わなくもなかった。
子どもじゃあるまいし、と。

悪意はなかった、故意ではない(と思いたい)。
もしも「未必の故意」という表現を使ってもよいなら、それはあり得るかもしれない…………。

と、その後、しんみりと考えをめぐらす。
悪意だったとしたら、それはわたし個人のしてきた行動に対する何かへの反抗、一種のレジスタンスであるのだろうし、人望のなさの現れだろう。
未必の故意であっても、それは同じだ。
だが、まったくもって無意識的な行動であったなら?

「子どもじゃあるまいし」

そう思ったことをもう一度繰り返してみて、そこで立ち止まってしまった。

大人も子どもも、無意識的にこういうことをしている場合があるに違いない。
子どもたちの間でも同じようなお福分けの場面があって、わたしが気づいたように「自分には声がかからなかった事実」に気づいた一人の子どもがいたとして、どう感じるのだろう。
気にしない子もいれば、気にする子もいる――。
傷つくかもしれないし、いっさい意に介さず他人事にとらえるかもしれない。
それは人それぞれだ。
ただ、そんなことから始まる引きこもり、あるいは、いじめもあるのかもしれない、などと考える。

考えすぎか。

ただ、気づいたことがあった。

無意識であれ故意であれ、彼らは単に「自分第一(ファースト)」という視点で行動していた、ということ。

無意識であれば、純粋に自分のことのみ、または自分のごく近しいところにしか目配りができないということなのだろうし。
故意であれば、自分の何か――たとえば、正当性、それに付随する仲間との結束力とか連帯感とかを守るためでもあるのだろうし。
それは、つねに「自分第一」であるということ。

そして、「自分第一」は、いつかどこかでだれかを傷つけるものだ。それこそ無意識にでも。

ひとつの答えを見出したような気がして、安堵する。
安堵。
考えをめぐらしたことで、先に傷ついた気持ちがいくぶん落ち着いた、ということだ。
世に公に理解を得られなくてもいい。なにかしら自分らしい考えに到達して納得できたから。

――と、これはこれで、また「自分第一」な発想だ。
つまり、だれでも結局のところ、突き詰めれば「自分第一」なのである。

ただ一つ、今回のことを通して教えられたのは、これに尽きる。

「傷つくことは気づくこと」。


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