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どんどんと退化している部分

現代文明(18世紀ぐらい以降)といわず

キリスト教なるものが芽吹いた頃(2000年以上前)から

首尾一貫して退化し続けているものがある


不確実性との付き合い方

もしくは

人間との信頼関係の築き方

もちっと別の言い方すると

恥を感じる能力


”主にまかせよ”

と言ったって

”主”なるもの

私たち人間の想像(創造)の範疇を超えているのだから

”まかせる”って何に???

すら不明

不確実な人生を生きるということはそういうこと

今も昔も変わりはない


自分の意思で道を切り拓いていくことはすばらしい

間違いではないんだけれども

いいことばかりとはいえない

自分の意思で道を切り拓いていこうとする上で最も難しいことって何だと思います???

「強い意思を持つこと」

なぁんていってしまうとそれで終わってしまいそうだけど、その”強い意思”なるものを持てていない状態ってなんで脱け出しにくいんだろう?

或いは

”強い意思”って、必ず

”一念発起して一事を成すべく立ち上がり、成るまで努力し続ける”

というようなものである必要があるのだろうか?


ハッキリ言ってしまえば

”強い意思”なんて。。。

持ててない状態の方がデフォルトなんじゃん???

それを「持ててる」「持ててる」言いまくるってのは。。。

なに?

そう主張することで何か”確からしさ”を増そうとしとるんやろ?

言いまくらずにはおられないってことは。。。

そういう姿見せなきゃ他人は自分のこと認めてモクレン

とかビビっとる。

でもって。。。

自分の弱さからくる必死さなのに。。。

「ご立派なことしてまんねん」

って。。。

スーパー恥ずかしいことしてるのに。。。

全くそれを恥ずかしいなんて感じないというね。。。


確固たる意思みたいなもん

持ってるといいたいなら

そりゃまず

他人を信じようとする意思

なんとちゃう??


謙遜謙遜いうけどさ。。。

そんだけ自分が大したもんでないと理解してるなら

なんで自分以外の他者を第一に持ってこれないわけ???

”自分以外の他者を第一に持ってくる”というのはね

簡単に言えば

他者を信頼する

ということなのさ。

別に「1個しかない🍎を我慢して譲る」とかいうことじゃない。


21世紀もそろそろ20年というのに

全くおかしな方向に向かっているその傾向に革命的転回が起こらない


私の目から見れば

もうぐちゃぐちゃ

以外のなにものでもない。。。


最も醜い行いをしているものが

パワーのみに任せて

それを「”美しい”と認めろ!」と言い

そんなアホなことしてるのに

全くそれを恥ずかしいとも思わない。。。

さらに

そういう病気に

知能の働きがええもんの方から感染していき、

そいつらで徒党を組んで”正しさ”を主張しまくり、

徒党の中に組み込まれない人々をディスりまくるという。。。

とどめは、

そんなことにも気付いていないし、気付いていたとしても全く悪びれもしない。。。


モノゴトというのは

ひとつひとつつながっていっているのよ。

「こんなことぐらい」

なぁんて思ったら

ちょっと気を付けてみた方がいい。


面倒くさいと思うことだってあるさ。

でも

それには常に代償が伴う。


「より確実な未来予測とは??」とか拘っておきながら

「面倒くさい」は本来あり得ないぐらいの矛盾。


全部の面倒を看るのはムリだとしても

それはそのまんまでOKってことではなく

常に己の無力さを思い知り悔いるべきなのだ。

カバーしきれんものがあったとしたって、「最大多数の・・・」とかいう力業を続けていっても勿論結構。

ただ全部を面倒見切れないことを

勝手に「しゃーない」なんて思ってちゃいけないの。


何でもテキパキいい方に処理してくださる神さまを想定し

その代行者を気取る。

「神の名において・・・」って、、、

そりゃあんたは自身の”正しさ”みたいなもん感じていられるでしょうよ。。。


そうした男たちを眺め

古代の女たちは脆さや滑稽ささえ感じていた。


「神さまもたいへんねぇ。。。」


あまりにも神さまが不憫なので

ほんまもんの神さまへの贖罪も込めて

絶世の美女にコロリといっちゃたり

うっかりヒーローを取り違えたりする

人間っぽい神さま像を描いちゃったりもする。

それは冒涜とは真逆で

「うふふ。私たち人間が作り上げる神さまなんて、ほんものの神さまには到底及ぶはずもないものなのよ。」

という私たち人間に対する大切なリマインダー。


不確実性を抑えるために未来予測に躍起になったって結構。

ただ

その正確さを証明し切ったとか言って、なおも不確実な人生を生きさせられている人間のことを忘れてしまったり、そういう人間がいくらかは存在し続けることをしゃーないと片付けたり

あたかも自分だけが不確実性のもたらす不安から解放された

解放されるだけの価値がある人間だなんて思いこまないことだ。


我も人なり彼も人なり

の精神をもって

少なくとも自身と同等の主体性を

誰に対しても感じてあげられなきゃね。


人間そんな聖人君子にゃなれません。

それも事実。

全部は到底面倒看れないわけやから。

なら

たまにというか、一定期間、聖人君子風に振舞わねばならない

その方が諸般の事情を踏まえよりいいんだ

ってことなら

かっこよすぎる振る舞いに対して

「ちょっとあんたキメすぎ。。。」

ぐらいの恥ずかしさは感じようね。。。


まあ

こんなどろどろぐだぐだなまんまの人間だって

今日もこうして生きている。

進歩とか進化とか

あまり近視眼的にならないで

一体私らって何者???ってね

たまにゃ注意向けて

じっくり考えてみるようにしたいねー。

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