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「一人で生きてない」とエージェント(エージェンシー)問題

社会科学で出てくるエージェント或いはエージェンシーというコンセプト。

不可解だ。

必要なんだろうか?ゼッタイ???

社会分析に。

アトミズム的世界観な気がする。

同じ刺激を受けたとて、反応がないって場合も含め、同じ反応が返ってくるとは限らない。社会で起こる事象、とられる行動を考える時は、この100%絶対ではない「インプットーアウトプット関係」は考慮に入れざるを得ない。

とある社会現象が起こるということは、一人っきりではない、まあまあ人数のそろったグループ行動(パターン)が生じているということだろう。そうなっている時、何らかのベクトルというか、方向性、エナジーの流れ、、、みたいなものは実際あるんだろうと思う。グループを構成している人々の意志とかそれが集まった何か(集団的意志?)ってのも含め。

#エージェント とか #エージェンシー というのは文字通り訳せば仲介者。

社会分析では、何か変化を起こさせるもの。人間の行動が対象であるなら、その行動をとらせる何か。何らかの行動をとることができる(ようになる)という意味で #キャパシティ (”とある能力”)のニュアンスもある。エージェンシーが仲介するのは人間の行動だけではない。制度であるとか組織であるとか有形無形の資源や道具など、人間(とある組織の構成員)に特定の行動をとらしめるはたらきのある非人間アクターとでもいおうか、そういうものと人間との仲介も。ここでのエージェンシーにもキャパシティ或いは #ポテンシャル (潜在力)的なニュアンスがある。

人間の行動の場合、その原動力を個々人の動機などに求めると、外からは観察が難しい心理的な現象が絡んでくるので、単にどのような仕組みで分析対象の行動がとられるようになるか?を記述・説明したいだけであってもちょっと困る。インタビューとか特殊な機器などを用いたりして、可視化(されたことに)することが不可能というわけではないけれど、心の内で起きていることってのは、脳の働きをつぶさに見てみても中々厳密には分からない。

だからなのかな?エージェントとかエージェンシーとかいうものが社会的な行動や社会で起こる事象の説明のために用いられなければならないのは。

でもなんかエージェントとかエージェンシーとかが説明の中に出てくると違和感を覚える。だまくらかされているような感じ。不自然な感じ。エージェントとかエージェンシーが絡むと、説明も冗長になる。

それは多分原因、動機、目的意識、選好等々の帰属先が有耶無耶だからではないか?

人間の行動であるなら動機とか目的は何かあるだろうと言ってみても差し支えないかもしれない。訊いて確かめられるから。違ったなら違うということも分かろうというもの。

でも社会で観察される事象はどう?

勿論遡れば個人にまで詮索の手は伸ばせるだろうけれど、それぞれのアクターが置かれた環境、社会的地位などから要請されての行動なのか?個々人の素養?または両者のコンビネーションなのか?どれも相応に可能性はあるだろうし、つまり、人間以外の力みたいなものについても考慮に入れざるを得ない。

でもなぁ。

やっぱりエージェントとかエージェンシーって。。。納得いかない。

「一人で生きてない」に対する理解を深める必要があると思うのはこのしっくりこなさも原因だ。

社会のアレコレを理解するのに因果関係って必要?

何故?どうして?をほぼありとあらゆるものに求めてしまう。これは致し方のないことと思う。

でも目的やら理由とかって、、、後付けで説明する場合も案外多いってのが実際やと思うし。。。

「後付けの理由や目的なんてウソや!」とは言わんよ。

ただそんなに拘る必要もなかろうと。

説明責任!とかさ。。。

意地悪い感じするし、、、逆効果な気もするのよね。

そういうの求めるってことはさ、、、そのへん適当に誤魔化して、チャンス得たもんはひたすら私腹肥やすのがデフォルトって認めてるようなもんやん??ちゃう???(いわゆる性悪説)

「一人で生きてない」わけやから、アカンかったらそれなりにチェックは入るやろ?

そういう事後のチェックとか不正防止とかではなくて、エージェント(エージェンシー)問題に戻ると、社会的な行動とか事象が起こるのって、単純に「一人で生きてない」からなんちゃうん??内心で起こることも様々かと思うけど、それがなかったとしても、違う人が各々動いてたら多少なりとも影響し合うでしょ。そうやって形作られていくのが社会。別に理由はない。少なくとも科学的手法でもって証立てられるようなしっかりした理由・根拠・目的等々が予め用意されているわけではない。

理由とか目的とかがないんなら、エージェントもエージェンシーも別に必要なくない???

これらを省いて、社会的な行動や社会で起こる事象の説明ができるだけシンプルになって欲しいと思うのは、研究者でも何でもない人間がアクセスしやすくした方がいいってのもあるけど、モラル?倫理とか責任感とかいう面でも好影響が期待されるから。

「社会に損失与えるか分からんけど、ちゃんと手続き通り説明できりゃ責任かて限定的やろ」というのと

「社会のためになることしか考えてない。でも万一損害与えるようなことになったら責任は取る」

どっちが社会的によい結果がもたらされやすいと思う??

私は後者やと思う。それほど圧倒的な違いにゃならんとは思うけど。気持ちの面でね。ヘルシーな感じがするんよね。

エージェントやエージェンシーを用いた社会行動・社会的事象の説明って原因から結果までのリニアな流れに固執し過ぎやと思うのよね。

明確に立証することが難しい個々人の内面に左右されない、できるだけ客観的な分析を!と心掛けているはずなのに、却って規範的役割を負わされちゃっているという感じ。

「原因から結果まできちんと考えて計画立てましょう。計画に基づいてモニタリング・評価しましょう。結果には責任を持ちましょう。」

そう触れ回ることで人々の行動や考え方が変わるならいいけれど。。。変わらんじゃん???実際。

やっぱ日常の感覚とかけ離れてるんやと思うんよね。正確/不正確の問題というよりも。

とりあえず行動するというか、、、生きとるんよね。。。まず。事実として。そりゃ「生きる」の中にも「よく考える」ってのがあった方がいい。

けれど、個人で面倒看れることなんてたかが知れてる。

ではあっても、社会全体のことも「よりよくなって欲しいなぁ」ぐらいのケアはしたい。

もっと事実に即して。「一人で生きてない」。そっから考えを進めていくのがええと思う。

そのためにもエージェントとかエージェンシーとかに頼った説明ってのは、少なくとも一般向けには押し付けようとしない方がいい。私たちの社会って関係性から生まれ、固着し、また、変化していくものだから。

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